第20話・郡山城悪所につきて

 陽に陰があるように、大和衆の気分の浮き沈みは激しい。

 どんなに太閤殿下が華を取り繕ったとて、それは気を紛らわせる事にしかならず、祭りの後の虚しさほど心を刺すものは無かった。


 何よりも秀保と高虎が心を痛めたのは内政を担う横浜一庵の娘が吉野花見の最中に病死、更に横浜を支える新丞しんのじょうの七つになる倅は病により光を失った。この新丞は興福寺多聞院の英俊が「一段才人」と記し、その悲しみに心を寄せる程であるから非常に優秀な吏僚であった事だろう。


 一連の横浜家中を襲った病は何であろう。

 先の多聞院日記は「一晏法印ノ女子先月に死去、同内新丞子七才モカサニテ盲目云々(三月二十一日条)」と記す。

 この「カサ」というのは「瘡」と思われる為、およそ古来から人間を悩ませる「天然痘(疱瘡)」と見ても良いだろう。その感染力を踏まえると、一月で二人の重篤者が出た横浜家中で流行っていたとも考えられようか。

 また横浜には文禄二年(一五九三)六月に生まれたばかりの娘が居たが、近代以前は乳幼児の死亡率は群を抜いて高かったから、亡くなった娘が彼女である可能性もあろう。


 思い返してみれば宰相ひでながの没後、郡山城での留守居の発狂、小堀新介の病、奈良町事件、千人斬り、正月には一晏の妻の姪が病に臥せっていた。


「斯くも現実とは虚ろなものはあらん」

「否、吉野の花見はうつつにて」


 能の稽古を終えた秀保と高虎は、そんな話をした。

「いかでか人が死ぬことばかりだ」

「流行病にや致し方の無きこと也と。何か南蛮から秘薬でも届かぬことには、致し方の無い」

「致し方の無い事と言うがね、もしも私が病に斃れたのなら、如何いかにするかね。そりゃ南蛮から秘薬が届く頃に倒れるに越したことは無いが、今のままではそうはいかんだろう」


 主の思いがけない話に高虎は、言葉が無かった。

「叔母上、宰相様、若公じゃくこう様、小吉兄と身の回りに亡くなるひとが多くてな、遂ぞ考えてしまうのだ。もしも我が身に病が襲ったのなら勝てるのかと。それからどうにも、花見の後は物思いが怖い。斯様にまで人の命の軽きものよ。まるで和紙が破れるかの如き有様」


 高虎は何とか言葉を紡ごうとする。しかし、どうにも上手く言葉が出て来ず、自分でも思いがけない言葉を吐いた。

「人の一生は花木かぼくが如きと心得ております」


「花木が如きとは如何」


「すなわち花や木の葉が落ちることは古来定められた事にて」

「それ、叔父上に言えば殺されても仕方ないと、思ってしまいますが」

「あいや本意を申せば、如何に花を咲かすか、実をつけるか、葉を蓄えるか、という話にて」

「つまり、生きるのならば、何か事を起こしてみろと」

「概ね」


「まあ武官は宜しいよなあ、武功ってわかりやすい花があるから」

 思わず秀保は吹き出してしまう。


「まま、当分は奈良での能を糧にすることが良きかと。能にて黄門様の花や葉を、奈良町人に見せるのです」


 前年の春、その身が朝鮮の地にあった高虎は、こうした主従の他愛ない会話が心地よかった。長く鎗場に身を置いてきた高虎も三十も後半となり、そろそろ老いた先を考えるような年齢になった。鎗場を降りたら、こうした他愛の無い話を送る日々も悪くないのかもしれない。

 穏やかな春の一日である。


 この高虎のささやかな一日は、ある御仁ごじんの言葉によって崩された。


 三月十七日未刻ひつじのこく、現在の時間に言い換えると昼下がり二時頃の話である。

 その時間は大坂を出た太閤秀吉が伏見城に到着した時となる。この行列には大和衆が駆り出され、前日十六日には高虎が聚楽第への早馬・使者として「明日は宇治を通り御上洛なさります」と活躍していた。

 京へ着くと秀保と高虎、羽田正親主従は御礼として秀吉に呼び出された。その席は恭しく秀保が遠路御足労えんろごそくろうを見舞い、秀吉が主従の忠孝を評すという、いつもの流れである筈だった。

 変わったことと言えば殿下が名物『蘭奢待らんじゃたい』を所望したぐらいで、これは寺社を取り次ぐ筆頭家老の横浜一庵に話を通してみる流れになった。このように概ね、いつもの流れで何も起きることは無い筈であった。



「しかしよぅ大和やまと

「叔父上様、如何に御座いましょう」

「郡山は、少しこう、人が死にすぎでは無いかね」


 いつものような雑談が全ての始まりであった。

 太閤秀吉は人を愛する仁であり、家臣を愛してその家族も愛している。

 だからこそ御仁は大和衆の家中にて人が多く死ぬことを知り、それに耐えることは出来なかったのである。


「やはり流行病には手を焼いております。どうにか寺門の祈祷に、各所より薬を探してはみるのですが、どれも効き目無く家中には申し訳の次第も御座いませぬ」

「まあ人が死ぬっちゅうのは、しゃあないとこもあるでよ。大和もな、そこまで気にせんで」


 そう言いかけた秀吉は、突然虚空を見つめた。何かを思いついた時に見せる仕草である。

「叔父上様、如何に」


「あっいや、な。どうじゃ大和、郡山の城を捨てるというのも、手ゃあ無いかね。斯様に人がぅなるっちゅうんは、郡山が悪所ということも言われるでな。このままじゃ大和の身にも降りかかるでよ」


 この日、秀吉は唐突に大和郡山城の破城はじょうを述べたのである。

 当然主従は破城を受け入れることは出来ない。

「叔父上様、今に郡山を離れよと申されても、何処へ移りましょうや」

会ヶ峰くわいがみねは如何と思うておるがね、如何や」


 その答えに高虎は仰天した。まず具体的な地名が出てくることすら驚きであるのに、出てきた地名にも驚きがある。

 秀吉が示した「会ヶ峰」とは現在の郡山市の南端に位置し、近鉄橿原線と天理線が分岐する「平端駅」の西側にあった地名である。郡山城からは五キロ程で、当時の単位に換えると一里(約四キロ)と少しであろうか。

 今では平端駅前にひっそりと鎮座する「会ヶ峰地蔵」が昔の地名を伝えている。


「殿下、会ヶ峰とは」

「ほれ天正八年の砌に亡き順慶坊主が上様に言われ鉄砲の踏鞴たんれん場を作った場所だで、小一郎から聞かんかったかね」


 無論秀保も高虎も羽田正親も、よく知る土地である。しかし織田政権と伊藤掃部助による大和国人抹殺や、筒井順慶の早逝、筒井家の伊賀転封に伴い機能を停止した古い土地でもある。

 それに順慶や伊藤、秀長が郡山を本拠と定めたことには奈良町との適切な「距離感」を保つことと、街道筋を押さえるといった目的が存在した。

 しかしながら会ヶ峰は奈良町が遠く、街道筋からも離れている、言ってしまえば不便な土地である。確かに古来こそは推古天皇や万葉の歌人額田王に縁ある由緒正しき土地と言えども、豊臣政権の序列高き大大名が本拠とするに適さぬ土地である。


「恐れながら殿下。会ヶ峰は我等の都合に合わぬ土地と心得ております。如何に郡山が悪所と言えど、その利便をも捨て去るは如何いかに、と」

「そこはわしらの力で、この伏見の城みたいな大きな城に変えりゃよかろう。佐州よ、今は何事も作り上げる時代じゃ。ええか? 郡山から流れる佐保さほの川は、流れに流れて大坂へ通ずるで、今より利便が上がる。それに奈良町なんぞも、ええ加減に移しゃあええで。そういう力があるんじゃぃ」      


 これほどまでの秀吉の現状認識に、主従は呆れてしまった。

 しかしここで食い下がるわけには行かないと、高虎は使命感と危機感を持っていた。

 なまじ秀吉は有言実行の御仁であり、天下も唐入りも口にしたことは全てを実現させている。それだけに郡山破城と会ヶ峰移転が現実のものとなる可能性は高いのだ。

 何か弁と論の術を磨いてきたわけでもないが、御家の危機にあると思えば舌が回る。


「然し殿下、佐保の川が大坂へ通ずると言えども、国境には亀の瀬と申す狭窄きょうさくの地がありて、古来より大雨降れば地が滑る曰く付きの地に御座います。如何に名うての名工と言えども、この亀の瀬を治める仁は先の世にも現れぬと申すほどにて、殿下の案に適わざると思う次第にて」


「叔父上、何よりも我等大和衆は唐入り等の出費に喘ぎ、破城から移築に見合う金は御座いませぬ」


 ここまで言えば秀吉も食い下がる姿勢を見せた。しかしそれは諦めではない。

「そこまで申すなら、貴様等の算用見せてみぃ」

 と、月末に吉野花見を反映させた算用帳を提出するように命じたのである。


 高虎や羽田にとってみれば、多少の手間こそあれど、ありのままを見せつけることが負担の軽減に繋がるから苦では無い。


 しかし事の次第は思わぬ方向へと進んでしまう。

 このとき聚楽第方へ出迎え対面の報告に羽田正親が赴いたのであるが、彼は秀吉から破城と移築、そして主従は断固反対である事を伝えた。

 すると秀次は思わぬ提案をしたと、伏見の宿所に帰るなり羽田は溜め息をついた。


「そのような形で、大和と太閤殿下の間が拗れてしまうのは関白としても避けたいものだ。どうだ、一つ余も案を出してやろうじゃないか」


 関白秀次の言葉は、彼が思っている以上に重いものだ。

 だからこそ、その言葉を聞いた大和衆は背筋が冷たくなったのである。


「ならば城跡残る多聞の山を使えば良いだろう。奈良町をることができ、伏見や洛中にも近くなる。余は良き案と思う」


 羽田から報告を受けた秀保と高虎は怒った。


「ったく兄上は何を考えておいでなのか。せっかく奈良町との関わりを見直したというのに、再び圧をかけろと仰せか!?」

「いやはや何れの案も我等到底受け入れぬことは出来ませぬ」


 しかし主従も心のどこかで、まだ具体的な案では無いだろう、と考えていた。郡山の城を捨て去るという馬鹿げた案は、ある種仮定の話であって実現する事は無いだろう、と思い込んでいた。

 或る意味で現実からの逃避であるが、そのように思い込む以外に逃げ道が無かったのである。

 秀吉の示した「会ヶ峰」の地名は、あまりにも具体的である。これに対し大和衆の宿老たちは、この発想というものが唐突な思いつきでは無い事を悟っている。それは秀次が示した多聞の山でも同様だ。


 大坂方も聚楽第方も、揃いも揃って大和に介入する切っ掛けを探っていたことを示すのだ。

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