第18話・吉野花見(四)雨に憂う

 二月二十九日、太閤秀吉の御仮屋形で歌会が行われた。

 その参列者を駒井日記に基づいて列記すると、次の通りと相成る。

 菊亭晴季、中山親綱、日野輝資、徳川家康、豊臣秀保、豊臣秀詮、宇喜多秀家、前田利家、高倉永孝、飛鳥井雅枝、伊達政宗、聖護院道澄、織田常真(信雄)、法印玄旨(細川・長岡幽斎)、施薬院全宗、里村紹巴、大村由己、里村昌𠮟、といった公家から連歌師といった当代一流の文化人、女中、諸大夫、布衣、僧、役人といった「天下」が吉野に揃った事となる。


 駒井日記には二十九日の天候について、その記載は見られないものの、吉野町のホームページには三日間雨が降り続いたと記してあるから、二十九日も雨が降っていたものと思われる。


 高虎は頭を抱えていた。

 何故、雨は止まぬのか。

 秀保も羽田長門も、雨は降るものであるし、止まない雨は無いものだと慰めの言葉をかけるが、そうも簡単に心は落ち着かない。

 これで郡山の祝言に太閤殿下の列席は叶わぬものとなり、同時に高野山での大政所三回忌と祝言の日程が被る事で関白や秀保の参列も叶わない結果となった。


 かねて藤堂高虎と大和宿老衆は祝言と三回忌の両立を目指していた。

 それは危篤の際には帰国も許されず、秀吉の留守居として名護屋在陣を続けた秀保と、そもそも戦地にて訃報に接した悲しさの為でもあるし、大和衆が揃い参列する事で豊臣家へ果たすべき義を果たしたい思いがあった。

 しかし、思い描いた絵は、水に流れてしまった。


 もちろん雨が降る事で良かった事もある。

 それは警備の手間が省けた事だ。大勢が太閤の屋形に集うだけで、目を見張る箇所も減り、人員配置に頭を悩ませる事も無い。


 有り難いのは、歌会が盛り上がった事だろうか。

 太閤秀吉は宴に強い。

 こうも雨の降る席であっても、その人懐っこい話術により場は盛り上がる。まるで殿下御自身に、太陽が宿っているかのように暗き場も明るくなる。


「大したものだ義兄殿でんかは。藤佐とうざは、幸せ者だな」

 会の合間、休憩の時間に座席の「天下」へ挨拶回りをしていると、徳川家康に斯様に言われた。

 徳川家中、家康の側近には「本多佐渡守」が居るため、高虎は区別をつけるべく「藤佐」と呼ばれる。

 二人は天正以来の付き合いであるから、少しばかり話に花が咲く。

 家康という人も、秀吉に負けず劣らず「人」が好きで、ついつい心を許してしまう。その蜜月さから、侍従伊達政宗には


「関白殿下あれを見やれ、江戸の大納言様が御舎弟が無二の忠臣を口説いておられるぞ!」

 と冗談を飛ばされた。この侍従という男は、どうにも軽妙なところがある。見ている分には面白いが、家康や浅野長吉の苦労を思うと、やれやれと思ってしまう。


 普段気難しい関白秀次も、このひょうきんな侍従には心を許す。聞けば法印玄旨こと長岡幽斎の嫡男忠興とも親しくしているらしい。そうなると関白という御仁は、いくらか趣がわかるが少し天下とは変わったところが或る御仁を好むのだろうか。


「もし、貴殿が和州殿がおとなに候や」

 一人の僧侶、それも並の僧侶では無い高貴の僧侶が、高虎を視認したらしい。


「おお聖護院様しょうごいんさまも、藤堂佐渡守に興味が御有りか!」

「左様、暫し貸してはもらえぬか」


 聖護院道澄しょうごいんどうちょう、駒井日記では「准三宮道澄様」とて記される人物だ。

 高虎と聖護院道澄に関わりは無いが、かねて政権の運営を大和から携わる中で貴人を頭に叩き込んだ経験もあり、行事などで一方的に視認した程度で或る。

 高虎は、はて何か粗相があったかと心配になりながら、別室へ案内をする。


「聖護院様、何か我らに粗相が」

「いや、そういう話では無い。いや、確かに粗相かも知れぬ」

 道澄は、早口でまくしたてた。その声は小さく、まるで誰かを気にしているかのように。


「其方、口は堅いか?」

「隠し事は幾つか御座いますが……」

「それは良かった!」

「聖護院様一体これは、如何に」


「吉野の山に登ってから、雨に祟られておろう? それをな、太閤殿下が、気に食わんと仰せになった」

は、いつもの軽口に御座いましょう」

「それでいて、斯様に雨が降るのは、吉野が山の僧侶の行いが悪い、経を怠る事が悪いと仰せになり……」

「軽口に御座る、殿下の本意には非ず」

「そして斯様に仰せになられた。こんな山、燃やそうと思えば燃やせるのだぞ、と。藤堂殿、これは如何に捉えるべきにて候や」


 全く困った話を持ちかけられてしまったものだ。

 だが雨に気を揉むのは、何も太閤殿下だけでは無いだろう。高虎が一番気を揉んでいた。

 彼は今、この雨が止むまでは山を下りる事は出来ないと覚悟をする。それは自分自身のこだわり、貴人たちに吉野の花香を嗅いでもらいたい、とか、晴れる事で見える絶景を感じて欲しいという持てなし心でもあるし、これ以上の日延べは於岩の姉御の婚儀にも差し障る。


 自身太閤殿下の御心を軽口と言うが、藤堂高虎という男自身が、心の底から晴れを欲し、雨を恨めしいと思っていた。

 だが、自分の心と向き合う中で、吉野の僧侶を恨めしいと思うのか、吉野の山を燃やしてやろう等と思うのだろうか。

 藤堂高虎という男は、そうした愚行を犯すものであろうか。


 その晩、高虎は或る公家の坊に呼ばれた。


「良き雨だな」

「あいや、これは如何に」


「まるで豊臣の行く末を表すかのような雨やな」


 輝資の暗き笑いに、高虎は呆れた。


「聞いたで、吉野の坊さんたちを脅したってな。いやはや、あんたもおもろいな」


 この日の密談は、先に奈良町で騒動を起こした日野輝資に呼ばれたものだ。

 結局高虎は、聖護院道澄を伴って吉野の僧侶を脅す道を選んでしまった。それは、瞬く間に諸人の知るところとなって、秀保からは若干の軽蔑の視線を預かった。

 だが、この日野輝資という大納言は唯一高虎の行動を面白がる。奇特の仁である。


「んま、聖護院のぼっさんは、ああいう冗談には疎い堅物やから、藤堂も大変やったろ。どうにも真に受けやすいんや」

「大納言様は、聖護院様を若干軽く見ておられるようにと、感じるのですが。果てや御両人は如何なる間柄にて」


「簡単な話、ぼっさんの生まれは、広橋が代々使える氏長者うじのちょうじゃの家や。今でこそ坊さん坊さんと呼ぶがね、元は稙家卿たねいえきょうの三男、つまりは入道様さきひさの御舎弟、今の御殿様おとのさんの叔父上にあらっしゃる訳や」


 つまり准三宮道澄様という御方は、近衛前久入道龍山の弟であり、今の当主近衛信輔の叔父にあたる。

 然して高虎は、ようやく事の重大さに気がついた。


「そういえば、言われてみれば近衛様は、何故呼ばれなかったのでしょう」


 言ってから気がつく事はある。

 そうだ、豊臣家と近衛の御家は、天正十三年(一五八五)頃の秀吉の任官を巡り、その関係は良いものに無かったのであった。


ぬしゃぁ、わざと言うとらんか」

「あいや、これは失礼。近衛様と殿下たちは、こう、あまり宜しからず」

 そう言って恐縮しがちに頭をかくと、輝資の独演が始まった。


「何よりも菊亭、あの男や。あの男が何かにつけて御殿様おとのさんの行動を咎め、やれ乱心だ、やれ謀反の企て、やれ公家に非ずと吹聴して回る。此度列席を許されざるも、菊亭に毒された太閤関白の所業と聞く。天下大事の目出度き御行事にだ、我ら公家の頂きたる摂家筆頭近衛の文字が無きは如何。まさに公家の習わしを穢したるは、菊亭に候や!」


「……恐れながら」

「何や」


「もしや、此度の愚行、より近衛様の御身に差し障る事になるのやもしれませぬな。吉野の山は帝肝煎りの地にて、まさに不敬の行い」


「ああ、とんでもない事をしてくれたわ」


 輝資は、この先に近衛家への処分があるやもしれぬと呟いた。しかし相も変わらず黒く笑う彼には何か、何か腹案があるように見えた。



 背筋が凍る。

 何だか、この公卿と関わると自分自身に災厄が降りかかりそうで、早く帰りたくなる。

 高虎は、目の前に居る男を、権力争いに敗れた公卿の一人と憐れみの目で見る事にした。

 しかし輝資の厳しい目は、それを許さない。


「一人だけ逃げようたって、そうはいかんぞ佐渡守。聚楽第と郡山に、ただならぬ気配有りと言う事を存じて居る。もしも、あんたが我らに心を寄せるのであれば、此方としても心を配るつもりであるが如何」

「……とかく手前は、関わりも預かりも知らぬ所、これ以上は聞きとうありませぬ」



 焦りと不快と、ある一つの、日野輝資が持つ天下に纏わる醜聞への興味を抱えながら二月が終わる。


 駒井日記は三月一日に能が行われた事を示し、また通説には二月の晦日と三月の一日は天気に恵まれとされる。

 ようやく晴れ間を見せた事になるが、まことしやかに囁かれるのは、吉野の僧侶が秀吉と聖護院道澄の脅しによって、必死の祈祷を行った結果だ、というものだ。

 しかし気象学が発達した今では、彼らが見舞われた雨というのは豊臣家に対する天罰でも、吉野山が僧の緩怠によるものでもなく、晴れた事も全く無関係である事がわかる。

 令和の今に「菜種梅雨」「春雨前線」と説明が為されるものが、当時の彼らを見舞った雨の正体では無いか。


 現代の技術、気象庁は過去気象データを調べる事が出来る。その中で、吉野観測所(アメダス)のデータは平成三年(一九九一)から約三十年のデータを見る事が出来る。

 吉野の山に、三日間、それも花見が楽しめない日中の降水があった期間を遡ってみると、今から丁度二十五年前の平成九年(一九九七)の四月五日から七日までの三日間が条件を満たす直近の事例であった。

 この事例では、四月五日の昼から夕方にかけては降水記録が無いため、厳密に満たしては居ないのであるが、三十年のデータではこれが唯一である。

 その雨量は数字だけ見ると、一時間に十ミリを下回る程度であるが、文禄三年(一五九四)当時には今のような舗装なぞ存在しないのだから、地面はぬかるみ歩けたものではないだろう。


 ましてや、貴人が集まる花見という吉事である。

 現代の科学が無い時代では、それが不吉の現れであった事は、確かなのかも知れない。

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