荒療治

 紅葉が夜空と対峙していたのは、第一校舎の屋上だった。

 だから階段を下りれば、すぐに図書館がある三階廊下へと辿り着く。今になってじんじんと痛み出した足を引きずりながら、紅葉は図書室内へ足を踏み入れる。


「あ、おかえり……」


 最初に反応したのは海未。サインを作るための本を外に出すためか、十冊以上抱えていた。菜之花も手伝っていて、同じく限界まで抱えている。

 尤も二人とも、紅葉の姿を見た途端その本をばさばさと落としてしまうのだが。

 そして紅葉の傍に駆け寄り、慌てふためいた声で尋ねてくる。


「ど、どど、どうしたの!? お、お腹、怪我して……」


 海未が気付いたのは、紅葉の脇腹から流れている血。足には注意がいっていないようだが、すっかり動揺している。

 菜之花も顔を青くし、後退りしていく。今にも気絶しそうだと、紅葉は漠然と思った。

 菜之花が気絶するのは兎も角、海未まで倒れられたら色々と不味い。そうなる前に、紅葉は自分の身に起きた事を包み隠さず話す。


「一つ一つ、説明する。まず、刺された。三原夜空の奴だ。私が問い詰めたらあっさり白状してね……まぁ、このざまだ。全く、刃物を持ってる可能性を失念するとは、我ながら間抜けなものだよ」


「そ、そんな、き、救急車……」


「呼べるもんならとっくに呼んでる。まぁ、これは良い。多分致命傷じゃない。すっごい痛いだけだ。ただ」


「た、ただ?」


「噛まれた。足下にいたゾンビに」


 事実を告げた瞬間、海未の顔色が更に悪くなる。

 これは不味い。直感的にそう思った紅葉は海未の肩を掴み、そして揺さぶった。半分目を閉じていた海未だったが、我に返ったように目覚める。

 しかし未だ顔色は悪い。当然だ。我に返ったところで、状況は何一つ改善していないのだから。


「そんな、嘘、嘘でしょ……ねぇ……!」


「生憎、つまらない嘘を吐く趣味はない。それと、君はもう諦めているかも知れないが、私はまだ死ぬ気はないんだ」


 そう言うと紅葉は、足を引きずりながら図書室の奥へと進む。

 向かう先にあるのは、コンビニで入手した数々の道具の山。そこに手を突っ込み、目当てのものを取り出す。

 紅葉が掴んだものは、除草剤の容器だった。


「除草剤が草を枯らすメカニズムは様々だ。人体への有害性も様々だが……確実に、人体に悪影響がないものが一つある」


「悪影響がない……?」


「葉緑素を破壊するタイプのものだ。人間に葉緑素はないからな、だから人体にも無害で安全となる」


 あくまで理論上の話だがな、と言葉の最後に付け加える紅葉。確かに人間に葉緑素は存在しないが、それはそれとして物質の毒性は別に存在する。人間の体内で他の毒物に変化する可能性もあり、だからこそ安全性の検査派行われるのだ。

 そしてこの安全性の検査も、あくまでも『普通の使い方』を想定している。つまり庭や畑に適量を撒いた時、飛び散った飛沫の一部だとか、知らないうちに指に付いた分だとか、撒いてから数日経った後の野菜だとか、そうした形での摂取ならばという話。原液をそのまま飲み干す事は想定しておらず、このような使い方をした時の安全性は担保されていない。

 そう、担保されていないが……今ならば、リスクに見合うメリットがある。


「ふぅー……」


 除草剤の蓋を開け、自分の制服を捲って腹を出す。夜空により傷付けられた腹には、幅二センチもないような傷穴があった。

 その穴に、紅葉は除草剤の中身を


「も、もみっちゃん!? 何してんの!?」


「ぐぎぃ……し、沁みる……ああクソッ。流石にこれは一人じゃ無理だ。海未、菜之花。ちょっと手伝ってくれ」


「……!?」


 どうしてそんなことを? 菜之花がメモ用紙に書いて尋ねてくる。

 理由は勿論、治療のためだ。


「ゾンビ達に除草剤を掛ければ倒せるのは、実験で明らかになった。除草剤の成分に、ゾンビを動かす存在を駆除する作用があるんだろう。なら、それを体内に取り込めば……」


「! ぞ、ゾンビ化を、防げる……!?」


「仮定に仮定を重ねた、我ながら願望染みた推論だがね。ただ、まぁ、意外とイケるとは思っているが」


 ゾンビ化のメカニズムは未だ不明だ。人間をゾンビにする因子と、ゾンビが動くメカニズムは別物かも知れない。ゾンビ因子は普通に働いて、紅葉を殺す可能性がある。そもそも除草剤によりゾンビを駆除したというのも、果たして正しいか分からない。もしかすると実験により倒れたゾンビ達は、毒素から逃れるためただ休眠状態に入っただけかも知れないのだから。

 だが、最悪でも翌朝ゾンビとなって徘徊するのは防げる。

 それだけ出来れば、共に暮らしてきた海未や菜之花を傷付ける事は避けられる。人間として、その最後の尊厳だけでも守れれば割とマシな終わり方だろう。

 無論、望むのは生還だ。除草剤を用いた『治療』であれば、その可能性は十分にあると紅葉は信じている。

 しかしそのためには、確実に、それなりの量の除草剤を体内に入れなければならない。


「で、でも、飲むんじゃ駄目なの……? というかゾンビ相手になら掛ければ良いんだし、頭から浴びれば済むんじゃ……」


「経口摂取だと胃液や肝臓で分解される可能性があるし、除草剤の成分が大きな分子だと腸を通れない可能性が高い。それと確かにゾンビには掛ければ済んだが、奴等は腐った死体で皮膚もボロボロだ。生きた人間とは浸透しやすさが違うだろうさ。もしかしたらどちらのやり方でも大丈夫かも知れないが……楽な方を選んで失敗したら元も子もない。血管から直に体内へと流し込むのが一番確実だ。ま、綺麗に傷が開いている訳でもないから、一容器丸ごと使ってもろくに入らないだろうがな」


「……………」


「だから頼む。腹が無理なら足の傷から、除草剤を入れてくれ」


 紅葉が懇願すると、海未は僅かに身動ぎ。目を逸らし、顔を背けて……大きくため息を吐く。


「……分かった。任せて!」


 そして力強い言葉で、海未は承諾した。

 紅葉は除草剤を海未に渡すと、図書室の床に寝そべる。海未は紅葉の足の方に歩み寄り、噛まれた跡と向き合う。肉が食い千切られ、筋肉が剥き出しになったその部位に顔を青くした。

 それでも覚悟を決めようと、海未は深呼吸を始めた……その横を通り、菜之花が紅葉の傍にやってくる。

 紅葉の隣に座った彼女は、紅葉の手を両手でそっと包み込むように握った。


「――――ああ、これは良い。凄く落ち着いたよ」


 冗談でも皮肉でもなく、本当に思った事を紅葉は口にする。菜之花は微笑み、包んでいた手をもう少しだけ強く握ってくる。

 やがて海未の覚悟が決まったようで、除草剤入りの容器が紅葉の足の傷に押し当てられた。

 地獄のような痛み。

 等というのはろくな痛みを知らぬ女子高生 の物言いだと紅葉は自覚するが、叫びたくなるほど強烈な痛みが足から脳へと駆け上がる。歯を食い縛って痛みに耐えようとするが、あまりやると歯を噛み砕いてしまいそうだ。意図して力を抜かねばならず、故に痛みが耐え難い。


「こ、こんな感じで、大丈夫……?」


 容器が空になったところで、海未は紅葉に尋ねてくる。

 痛みが引くのと同時に、足の周りが冷たいと気付く。予想通り、殆どの薬液は体内に入らず零れたようで、足下に水溜りが出来ていた。

 これで本当に大丈夫か、もう一本ぐらいやっておくか……不安が脳裏を過るが、それを言い出すと切りがない。精々噛まれた足を水溜りになった除草剤に漬けておくだけで済ませておく。


「ああ、これで良い。ありがとう……まぁ、何処まで効果があるかは、分からないがな」


「そういう事言わないの。治るって信じなきゃ、治るものも治らないよ」


「……確かに。全くその通りだな」


 プラシーボ効果というものがある。要するに『病は気から』を科学的に解明したものであるが、この効果はかなり大きい。新薬開発の際も、プラシーボ効果で差が出ないようわざわざ偽薬(ブドウ糖など身体に悪影響が出ないもの)を使うほどだ。

 ゾンビなんかにならないという信念。完璧な効果を発揮するものではないが、わざわざ否定的感情を抱いて生存率を押し下げる必要はあるまい。

 ……気持ちを楽にしたら、眠気が押し寄せてきた。或いは命の灯火が消えようとしているのか。幼い子供が寝る前に泣くのは、死の感覚と眠りの感覚が似ているからだという話を思い出す。なんにせよ、これに抗うのは難しいと紅葉は感じる。

 これ以上打つ手はないのだ。そろそろ身を任せても良いだろう。


「……眠くなってきた。万一に備えて、私の手足は縛っておけ。縛ってなかったら、起きた時に怒るからな。それと、屋上にはゾンビが、いるから、近付くな。あとは、海未。任せた」


「……うん。任された」


 海未の返事を聞いて、自分でも意識しないうちに安堵したのか。

 紅葉の意識は一気に遠退き、暗闇の中へと消えた。





















 夢を見た。


 暗闇の中でぽつんと、紅葉だけが立っている。


 いや、周りにざわめく気配があった。


 何かを言っているような気がした。だけど何も聞き取れない。それは人間の言葉ではなかったから。


 やがて気配は消えていく。


 或いは遠くに何か、目のようなものが見えた気がした。


 何時の間にか大きなブランコが現れ、紅葉の目の前で揺れ動く。ブランコは近いような気もしたが、遠くで動いているような気もした。


 暗闇が晴れたのは、その直後の事で――――





















「……………風邪の時に見る夢だな、これは」


 ぽつりと呟き、紅葉は目を開けた。

 窓から差し込む朝日。眠りに落ちた時間も午前中なので、いまいち時間の感覚が掴めないが……爽やかで落ち着きある外の雰囲気から考えるに、どうやら丸一日眠っていたらしい。

 そして紅葉の傍には、未だ寝ている海未と菜之花の姿があった。

 更に、紅葉の手には何も付いていない。あれだけ言ったのに全く警戒心が足りんな……呆れた気持ちで見つめていると、想いが伝わったのだろうか。もぞもぞと海未は動き出す。

 やがて身体を起こせば、海未と紅葉の目が合う。

 海未は最初、寝惚けた眼で紅葉を見つめ返すだけだった。しかし段々と眠気が覚めてくれば、その目は徐々に潤み出す。


「っ!」


 やがて海未が感極まったように跳び付き、抱き締めてくる事は紅葉にも予想出来た。勿論、避けようという気は起きなかったが。


「大袈裟だなぁ。意外とイケるって言ったじゃないか」


「だって……だって……!」


 ぐすぐすと鼻を啜るも海未の涙は止まらず。ついに彼女は大声で泣き出す。

 その声によって今度は菜之花が目を覚ます。パチパチと瞬きした後、今度は菜之花が紅葉に抱き着いてきた。

 人間二人の体温を直に感じ、「暑いなぁ」と紅葉は思う。けれども突き放そうとしない時点で、自分もこの二人と『同じ』なのだと感じた。自覚してしまえば、思わず笑みが零れ落ちる。認めるのは、少し恥ずかしさを覚えるのだが。

 それに……自分はこんな、暖かさで迎えられて良いような人間ではない。

 胸の中に燻る暗闇。屋上で自分が犯した『罪』がじわじわと染み出す。油断すれば飲まれそうになるその感情から、紅葉は目を逸したくなる。


「ところで君達、屋上にサインは描けたか?」


 だから誤魔化すように、紅葉は別の話題を提供する。

 すると二人は、こてんと首を傾げた。なんの話? と聞きたそうに。


「……サイン?」


「自衛隊の救助、今日の正午までだろう? 結局夜空の奴が邪魔してきたから屋上にサインは描けていない。屋上にはゾンビがいるから使えないが、他の場所にサインを」


「え。いや、知らない……」


「知らない?」


「……もみっちゃん。それ、私ら聞いてないから。屋上にゾンビがいる事しか話してないから」


 海未から指摘され、今度は紅葉が首を傾げた。菜之花の方を見遣ると、彼女もこくんこくんと頷いている。

 ……思い返すと、確かに話していない気がする。

 どうやら自分の身体は、自分が思っていた以上に疲弊していたらしい。これはやってしまったなと紅葉は自らの失態に「はははっ」と乾いた笑いを漏らす。


「い、今すぐ代案を考えろ! なんでも良いから! 早くSOSを書かねば手遅れになるぞ!?」


「いやいきなりそんな事言われても困るわよ!? ど、どうしよう!?」


「……!? ……………!」


 安堵は一転大混乱に。危機が去ったと思いきや、一層大きな問題がやってきてしまう。


「……騒がしいと思って来てみれば、お前達、何をやってるんだ」


 雪男が図書室にやって来なければ、きっと正午まで混乱が収まる事はなくて。

 彼から「第二校舎の屋上を使えば良いだろう。ゾンビが徘徊しているから危険はあるが」との言葉がなければ、きっと頭上のヘリコプターを見送るだけになっていて。

 やはり人の繋がりというのは大事なものだなと、改めて紅葉は思うのだった。

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