【ひっそり】たたずむ効果屋さん
歪牙龍尾
シロ(1)
「おい、逃げんじゃねぇクソ猫!」
日も落ちた暗闇の中、複雑に絡んだ路地裏に男の怒号が響く。声の主は見るからに荒くれ者といった男。その男を含めた複数の人影が各々の武器を構えて一人の少女を追いかけていた。
「にゃ。シロは猫じゃ、ない。猫人族」
逃げながも拙い発音で反論した少女は、暗闇の中でもハッキリとわかるほどにキラキラとした純白の髪と頭頂部の獣耳を揺らして必死の形相で走る。その瞬間にも、男達の放った矢がシロの頬を薄く裂いた。たらりと垂れる鮮血が白の柔肌を赤に染める。
既にシロは傷だらけでボロボロになっていた。手足には無数の擦り傷と裂傷。裸足で街中を駆けたことで足裏もズタズタに裂けている。
「もう限界、かも」
路地裏をひたすらに走りながら、シロは身体全体の痛みに顔を歪めた。猫人族は普人族に比べて身体能力が高いが、その代わりに体力の消耗が激しい。走り続けたこと、そしてシロの首を絞める鋼鉄の枷により息は絶え絶えとなっていた。
「おい、殺すんじゃねぇぞ。生きて納品しろってのが今回の依頼だからな」
「うっす」
シロの逃げ足が衰えているのを見た男の一人が、仲間達へ注意を促した。男達にとってシロは商品である。殺してしまえば元も子もない。生きていれば奴隷としての価値があるが、死んでしまえばただの肉塊だ。
「誰か……。誰か助けて」
助けを呼ぶために叫ぼうとしても、シロの喉は首にガチッと食いこんだ奴隷の首輪により絞められており大きな声が出せない。血も、息も足りない。クラクラとする頭を必死に働かせ、シロは活路を求めて周囲を見回した。
「あっ……」
その瞬間、遠目に【ひっそり】とたたずむ建物の明かりが映る。シロは持ち前の嗅覚でそこに誰かいることに気がついた。
その誰かが味方となるか敵となるかはわからない。だが、そこにしかもう助かる可能性は残っていないとシロは思った。
「『加速』」
なけなしの魔力を使い切り、自らの速度を上げる魔法を使うと同時にシロは全力で地を蹴った。瞬時に斜め上に舞い上がる身体。路地の壁に手と足を着け、シロは再び全力で跳ぶ。
「くそっ、畜生風情が!」
暗闇の中、三次元的な高速移動に男達が一瞬シロを見失う。その隙を利用してシロは明かりの灯った建物に全速力で向かい、扉を突き破る勢いで跳びこんだ。
「にゃっ」
扉にぶつかる衝撃に備えてシロは背中を丸め瞳を閉じる。だが、その直後にシロの耳に響いたのは開かれる扉の音。宙を待ったシロの身体は、扉に打ちつけられることはなくぽすんと誰かに抱き止められていた。
「おや、こんな夜中にお客様とは珍しいですね」
優しい声音。抱き止められた姿勢のまま見上げれば、目を細めて笑む青年の表情があった。
「くそっ、あの猫どこ行きやがった!」
扉の外では少し遠くで男達がシロを探しているのが見える。その様子を見つめたシロは男達と視線が交差してしまったのを感じ、びくりと体を震わせた。
「ご心配なく。ここは【ひっそり】と建っていますので。必死に探しているのでもなければ見つかりませんよ」
青年の言葉通り、男達はシロに気がついている様子もなく辺りを見回し続けている。明かりもついて扉が開いた状態であるにも関わらず、男達の視界にはシロの姿が映っていないようだった。
「さて、商談もありますしひとまず扉を閉めてしまいましょうか」
青年は自分達が見つからない現状を不思議にも思っていない様子で平然と扉を閉める。すると男達の声も遠ざかり、しんとした静寂が部屋を満たした。
「ふむ。静かになったところで、少し痛むでしょうがひとまずこちらにお座りください」
「うっ、にゃあ……」
青年の腕から下ろされ椅子に座らされたシロは、体を奔る酷い痛みと安心から小さく呻き声を漏らす。命の灯火が少しずつ弱まっているのを感じながら、シロは目の前の青年を見つめた。
漆黒の闇を思わせる黒髪と瞳。獣人族特有の獣に似た複耳も無ければ、他の種族に見られるような鱗や体にまとう植物もない。その特徴の無い姿は只人族のものだ。だが、猫同様の感覚の鋭さを持つシロは目の前の青年から匂いがしないことを不気味に感じていた。
「では手短に商談を。死にかけの貴女を私は助けることができます。代わりに貴女は何を差し出せますか?」
にこりとした人好きのする笑み。死にかけの人を相手にその表情をする青年に薄寒さを感じながらも、シロは自らの命を繋ぐために藁にもすがる気持ちで口を開いた。
「わたしの誇りと命以外なら、何でも」
シロにとって大切な猫人族としての誇り。それ以外ならば全てを差し出してでも生きていたいとシロは願った。最後に使った魔法で魔力を空にしたこと、それに加え全力を出した影響でもう回復魔法でさえも助からないほどに自分の身体がボロボロであることをシロは理解している。だから、零れた言葉は叶わぬと知っていながらも溢れた純粋な願いに他ならなかった。
「かしこまりました。では、しばしお休みください」
恭しく一礼する青年を最後に瞳に写して、再び目を開けることは無いかもしれないと思いながらシロはそっと目を閉じる。
「さてと。身体も服も【ボロボロ】、手足も【ズタズタ】。【ゼーハー】と息も漏れている」
混濁する意識の中でシロは青年の声を聞いていた。何かを確かめるようなその声音が頭の中で優しく反響する。
「この三つだけで、良さそうですね」
パチンと指を弾く音が響いた。瞬間、シロを蝕む痛みが全て消え去る。息も楽になり、唯一残ったのは首を絞める枷の苦しさだけ。
「おや、首に【ガチッ】と枷が食いこんでますね」
そう青年が言った瞬間に、首を絞める圧迫感さえ消失してシロは驚きに目を見開いた。
「何が……?」
今にでも死ぬはずだった。二度と目を開くことは無いだろうとさえ思ってシロは瞼を閉じたのだ。それなのに、目を開けば手足の傷は無くなり服も綺麗なまま首輪も緩くなっていた。
「体、治って……うにゃっ」
自分の身体をよく確かめようと立ち上がったシロがふらりとよろめき床に倒れ伏す。そこで初めて、傷は無くなっても血や魔力が戻ってきたわけではなかったのだと気がついた。
「お気をつけて。貴女の身体や服の悪効果を取り除いただけですから」
「悪効果?」
青年から聞く初めての言葉にシロは首を傾げる。共通語を話すのはあまり得意ではなかったが、それはあくまで話す方に関してだけのつもりだった。だが、シロは『悪』という言葉も『効果』という言葉も理解しながら青年の発した言葉の文脈が理解できず頭に【
「失礼しました、何の説明もしていませんでしたね」
青年はハッと目を見開いて、深々と一礼すると床に倒れ伏したシロの手を取り椅子へ導いた。片膝をついた青年はシロと目線を合わせてにこりと微笑む。
「ここは効果屋と申しまして、私は店長のフェクトと申します。そして、効果とは……」
突然フェクトがパチンと指を弾いた。その瞬間、シロの頭に浮かんでいた疑問が消え去る。そんなシロの目の前でフェクトが指を弾いた手を開くと、そこには記号として目に見える形となった疑問符が浮いていた。
「このように、物の状態を表す概念のことになります。私は今、勝手ながら貴女の頭にあったこの効果を頂いたわけですね。では、お返しします」
「にゃっ!?」
フェクトが手を閉じると、シロの頭に疑問符が戻ってくる。たった今フェクトに見せられたばかりの現実に形を持った疑問符に驚きながら、何よりもフェクトが指を弾いた瞬間に不思議に思う気持ちが消え去っていたことにシロは呆気にとられて口をぽかんと開けた。
「つまり、状態を直接変えられる?」
「そうですね、それに近い考えで良いかと。私の目には貴女の状態や性質を示す効果が見えていて、それを取ったり付けたりができるわけです」
「にゃぁー?」
どうにか話を理解しようとシロはぐるぐる頭を回す。それを見ていたフェクトが、一本指を立てるとシロの頭上を指差した。その瞬間、【ピカンッ】と頭上に明かりが灯ったような心地となったシロは昔読み聞かせてもらった絵本を思い出す。
絵本では登場人物の感情や状態をわかりやすく示すための独特な表現があった。例えば、閃きに合わせて明かりが灯ったり。傾げた頭の上に疑問符が浮いたり。はたまた、浮かんだ泡が弾ける横に『パチンッ』と言葉を添えたり。それらと一緒だと思えば、シロでもある程度理解することができた。
「にゃ。絵本とかで見たこと、ある」
「そうですね。私には世界がそのように見えてると思っていただければ良いかと」
「すごい」
少なからず魔法の知識を持つと自負するシロでさえ、そのような魔法は聞いたことも無かった。加えて、死にかけのシロを一瞬で治したほどの力だ。シロは素直にフェクトの能力に感心してぱちぱちと拍手をしていた。
だがその拍手も次第に遅くなり、代わりにシロの表情が少し青ざめる。それほどの力の対価に何を求められるのか。誇りと命以外ならば何でも払うと答えたことをシロは思い出したのだ。
「あの、わたしお金持ってない。みだらなことも誇りに反するから、だめ。けど、そうすると払えるものが無い。にゃ」
おずおずと言葉を零しながら、シロの瞳が次第に潤んでいく。見知らぬ土地に一人、助けてくれた人にお礼を返すことさえできない状況が悔しかった。
「お支払いでしたらご安心を。貴女を治した分に関しましては、頂いた効果と相殺で構いません」
「払わなくて、いい? なら、どうして対価を払えるかって聞いたの?」
シロが首を傾げると、フェクトはにこりと微笑む。
「勝手に効果を頂くわけにはいかないからですね。説明をする時間もありませんでしたから、貴女に対価を払う意思があるかどうかだけ確認したわけです」
「にゃぅー。なら、答えなかったらわたし死んでた?」
「えぇ。それはもちろん」
言わずとも助けてくれればいいのに、と思いながらシロが問いかければフェクトは見捨てていただろうと当然のように言い放つ。自分を救ってくれた存在である相手を悪く思いたくはないが、それでもやはりフェクトは少し不気味だとシロは思った。
「なら、答えて良かった」
「そうですね。と、話はまとまったところで。どうして貴女はこんな夜中に死にかけていたのかお聞きしても?」
「にゃっ、それは……」
フェクトの問いかけの言葉にシロが言葉を詰まらせる。言い難いのには理由があった。それは、シロが奴隷であるということ。もしその事実を伝えてしまったらフェクトの態度が豹変するのではないかとシロは恐れていたのだ。
だがその迷いもシロが一呼吸するまでの間のこと。猫人族としての誇りを守るために、恩のあるフェクトに対して嘘を述べるわけにも質問に答えないわけにもいかなった。
「話す前にまずは、わたしの名前。ガッタの里にて長の娘のシロニャヴェア・ガッタ。シロでいい。よろしく」
「はい、よろしくお願いしますシロさん」
フェクトはにこりとした笑みを崩さずに小さく頷いて話の続きを促した。シロは今までに起きたことを頭の中で整理し、共通語へと変換を続ける。
「死にかけてた理由。話すと長いけど、始まりは三日前。里外れに奴隷狩りが来た」
思い出すのは、下卑た笑みを浮かべて武器を持った只人達。ガッタの里は山の中腹辺りに位置する高低差の激しい林の中にあった。只人や空を飛べない生物にとっては侵入困難な位置に作られる猫人族の里は、普通奴隷狩りの被害を受けることはない。だからこそ奴隷狩りが現れたのは里外れだった。
「本来なら誰も近づかない場所。けど、仲間の一人が何故かそこにいて。わたしは気がついたから助けに行った」
里長の娘として里の見回りを普段から行っていたシロが仲間の危機に誰より早く気がついたのも当然のこと。猶予は無いと駆けつけたシロは単身奴隷狩りの中へ飛びこんだのだ。
「奴隷狩りは狡猾。クロ……仲間を人質にされた」
シロは魔物を狩った経験から、並の只人相手ならば数人を相手にも勝利できると予測していた。だからこそ一人で向かったのだ。だが、只人をよく知らないシロは相手を自分達の基準で想定してしまっていた。誇りのある自分達と同様に、正々堂々の戦いをするだろうと。
「猫人族の誇りにかけて、わたしは仲間を見捨てない。だから、わたしは何もできなくなってしまった」
仲間を人質にされた瞬間、シロの頭は真っ白になっていた。多少の戦闘能力を持ってはいても、人質に危害が及ぶ前に奴隷狩り全てを無力化するほどの実力はシロには無い。そう気がついてしまった瞬間、シロは武器を捨てて降参する他なかったのだ。
「わたし達は奴隷になった。そうしてここに運ばれた。けど、わたしは仲間と離れて調教をされることになった」
奴隷狩りにシロは反抗的だと言われていた。鞭を打たれたことも数回のことではない。だが反抗的な態度をとった憶えもないシロにはどうすることもできないまま、奴隷狩りの苛立ちは積み重なっていった。そしてとうとう怒りの限界に達した奴隷狩り達によって、奴隷商に引き渡される仲間とは別に調教という名の拷問をされることになったのだ。
「調教場に移動するため、わたしは檻から出された。檻からは逃げられなくても、枷なら外せる。だからわたしは逃げた」
猫人族の身体は、時に液体かと思うほどに柔らかい。檻から出された瞬間にシロは手足の枷を取り払い逃げたのだ。
「そうして追いかけられて、今に至る」
「なるほどなるほど。ところで、貴女が逃げてしまって仲間は大丈夫なのですか?」
「にゃ? ……忘れてた。みだらなことをされそうだったから、つい」
調教をすると言う奴隷狩り達は、ついでとばかりにシロで楽しむと話して笑っていた。その瞬間、シロは自らの誇りを守らなければと咄嗟に逃げることを決意したのだ。
「でも問題ない。仲間は奴隷商に引き渡された後だから関係ない、……はず。にゃ」
自分を納得させるようにシロは小さく頷く。
「ならば良いのですが。しかしおかしいですね……。この国、サンジェ王国では奴隷は禁止されているはずなんですが」
「そうなの?」
首を傾げたフェクトの言葉にシロは少し驚く。サンジェの法を知らないシロは、奴隷という存在がこの国では当たり前なのだと思っていた。
「奴隷狩り達は、悪人だった? なら、許せない」
誇りのある者同士が争い、負けた者が勝った者に従うのは猫人族にとって当然のこと。誇りを汚されない限りは従順であることもまた猫人族の誇りなのだ。そして戦いである以上、狡猾だろうが卑怯だろうが勝ちは勝ちである。そう思ってシロは奴隷となったのだ。法で許されているからといって納得できるわけではないが、降参した身としては相手の法に従うしかないのだろうと。
だが、奴隷狩り達が法に反する者達ならば話は違う。それは誇りある戦いではない。奴隷狩り達は尊重すべき相手ではなく、滅ぼすべき敵だったのだ。
「全員殺しておけばよかった。それに、クロを助けないと」
「なるほど、それがシロさんの今後の目標というわけですね」
毛を逆立たせるシロにフェクトが小さく頷く。その声に、怒りのまま店を飛び出そうとしていたシロはふと我にかえってフェクトへ視線を向けた。
「そうなる。助けてもらった恩も返さず出て行くのは心苦しいけど」
「いえ、それは構いません。ですが、シロさん一人で行くのは少々無謀では?」
「それは……。にゃあ」
仲間を助けたい想いや怒りに駆られていたシロは、フェクトの問いかけに冷静さを取り戻して困ったように小さく唸る。
シロの体力も魔力も万全ではなかった。その上、シロは奴隷狩り達の拠点しか場所を知らない。よしんば仲間を見つけられたとしても、奴隷商の一党を相手に一人で勝てる実力はないとシロはわかっていた。
「お困りのようですね。そこでなのですが、私の効果屋をご利用するのはいかがでしょうか」
「効果屋を?」
フェクトの提案を受けてシロはこくりと首を傾げる。フェクトの能力は凄いと思ったが、利用するとなるといまいちどうすればいいのかがシロにはわからなかった。
「例えばシロさんが反抗的と言われる理由ですが、【ピリピリ】とした威圧感の効果を貴女が持っているからですね」
「にゃっ!?」
生まれてからこれまでに、シロは生意気と言われたり怒ってるのかと聞かれたりすることが多くあった。シロの最大の悩みこそ、そのつもりがないにも関わらず何故か敵対的だと言われることなのだ。その悩みの理由をフェクトによって明かされたシロは驚愕に声を漏らしていた。
「特に問題なのが、その【ピリピリ】とした雰囲気は気配として伝わってしまうことです。かくれんぼなど、苦手だったのでは?」
「にゃ。確かに……」
シロは気がついていなかったが、その身からは常に威圧感が滲んでいる。その威圧感を反抗的だと感じる者が多いのだ。そしてその威圧感は見えていなくとも感じるものである。実際に、シロは声をかける前に人から気がつかれることが多かった。
「仲間を助けに行くのでしたら、隠れることも多くなるかと思います。このままだと危険かと」
「フェクトはその【ピリピリ】を取れる?」
「可能です。その場合何かしらの効果を付与しましょう」
フェクトの言葉にシロは小さく唸る。シロにとっては願ってもない提案だ。最大の悩みを無償で取り去ってくれるどころか、おまけまでつくという。そのあまりの好条件に、だからこそシロは警戒したのだ。
「どうして私に良くするの? フェクトに利はある?」
「利はもちろんあります。ですがそれよりも大事な約束がありまして……」
フェクトはふと視線を自らの左手に移して小さく微笑んだ。何かを懐かしむような表情を見てシロはその視線を辿り、フェクトの左手薬指に古ぼけた指輪がはまっていることに気がついた。
「つがい?」
「いえ、婚姻はしていません。ただ、とても大切な人です。その人に約束させられたんですよ。私の力で、真に困っている人を助けるようにと」
にこりとした笑みを崩して、フェクトは困ったような苦笑いを浮かべた。
「言うなれば、私の誇りなんです。この約束を守るのは」
一転して力強く発された『誇り』の言葉にシロは小さく頷く。得体の知れない不気味さを持っていたフェクトの存在は、一連の言葉と表情によってシロの中で人間味を持った恩人へと変わっていた。
「にゃ。誇りは大切」
「それに、お客様は稀ですから。今こそ稼ぐ機会だというのもあります」
「なかなか客、来ないの?」
フェクトの言葉にシロは小さく首を傾げる。街や店に詳しくないシロでも、フェクトの能力の利便性を考えれば客に困らないだろうことは想像に難くなかった。
「真に困った人でないと私は取引しません。ですので、この店には【ひっそり】という効果を付けているのです」
「それはどんな効果?」
「そうですね……。【ひっそり】とは、人に認識され難い効果です。始めからそこにあると知っているか、必死になって何か有用な物を見つけ出そうとしない限りは見つけられないほどの」
その言葉でシロは効果屋を見つけた時のことを思い出した。死にかけながらどうにかして逃げ道を探そうとして、シロはふと明かりのついた効果屋に気がついたのだ。追手がシロを見つけられなかったのも、必死で探していなかったからなのだと思えば話は繋がる。
「そうして久しぶりにやって来たお客様がシロさんなのです。これで納得いただけましたか?」
「納得は、した。それにフェクトは悪人ではなさそう。だから、取引する」
「それは良かった。では、目標のために何を手放し何を望むか貴女から答えていただいてもよろしいでしょうか?」
フェクトの問いかけにシロは少しの間沈黙した。考えていたのは自分の目標と、必要な能力。
里の中でも好奇心旺盛な問題児であった黒毛の少女、クロミャウラ。奴隷商に捕まってしまったその仲間を助けだすのが目標だ。ならば、必要なのは戦うことではなく見つからないこと。
「【ピリピリ】をフェクトにあげる。代わりに【ひっそり】が欲しい」
「なるほど、良い選択ですね。承りました。では最後にもう一つ。目標を達成したら、その過程を私に教えてほしいのです」
「にゃ? よくわからないけど、教える」
「では、契約成立です」
フェクトが指をパチンと弾く。その瞬間、自分を構成していた何かが変わっていくのをシロは感じていた。
「これで、わたしは【ピリピリ】してない?」
「はい。もう反抗的と言われることもないかと」
「それは良かっーー」
最大の悩みが解消されシロが安堵に息を吐こうとした瞬間、店の入り口が突然開いた。追われる身であるシロは咄嗟に身構えて、入口を見つめる。店へと入ってきたのは、ふくよかな男だった。
「やぁ、フェクト殿。夜遅くにすまない。久しぶりだね」
「えぇ、お久しぶりです。貴方が直々に来るなんて珍しいですね」
おっとりとした声音で男がフェクトと挨拶を交わす。その様子を眺めてシロは警戒を緩めると同時に、男に自分の存在が認識されていないことに気がついた。
「はは、そうだな。私も忙しい身でね。ただ最近、ろくでもない連中が街に現れたと聞いたものだから対策を打とうと思ったわけだ」
「ろくでもない連中と言いますと、奴隷商ですか?」
奴隷商という言葉にシロの猫耳がぴくりと反応する。
「おぉ、知っているか。なら話が早い。実はその奴隷商や奴隷狩りを潰そうかと思っていてね。フェクト殿なら有用な人材を知っているかと来たわけだよ」
「それなら丁度良かった。お客様に貴方の商会へ行くように提案するつもりだったのです。この機会にお二方で話してみては?」
フェクトがシロに視線を向けた。その視線を追うように男の視線もシロへと移る。その瞬間、一瞬驚いたように男は微かに目を見開くと恭しく一礼した。
「『これはこれは、失礼いたしました。私はコルメ・チアーレ商会の商会長、チアーレと申します。以後お見知りおきを』」
すらすらと述べられたチアーレの言葉は猫人語だった。それも敬語まで使いこなす流暢さに、シロはチアーレが只者ではないことをすぐに理解した。
「言葉うまくなくて、ごめんなさい。ガッタの里にて長の娘のシロニャヴェア・ガッタ。シロでいい。よろしく」
シロはあえて共通語で自己紹介を返す。相手が自らに合わせてくれたのならば、自らも相手に合わせるのが猫人族にとっての礼儀であった。
「『えぇ、よろしくお願いします。ではシロ殿。単刀直入にお聞きしますが、奴隷狩りを受けましたね?』」
「ん。仲間も連れて行かれた。こっちも聞きたい。チアーレが奴隷商を潰すのは本当?」
「『えぇ、そのつもりです。そのための少数精鋭組織を私の商会に作ろうと思っていたところでして』」
そこで言葉を切ったチアーレはまじまじとシロを見つめた。おっとりとしま印象とは裏腹にその視線は鋭くシロを値踏みする。だがシロは嫌な気分にはならなかった。その瞳が見下す物でも下卑た物でもなく、尊重を滲ませた物だったからだ。
「『シロ殿の瞳はいい。【ギラギラ】と獲物を見つめる目をしている。その目を持つ者は目的を達成する意志の強さを持つものです』」
そう笑うチアーレの瞳もまた【ギラギラ】としていることにシロは気がついた。一見して油断を誘うような雰囲気に反して、抜け目のない視線。自らの親を思い出させるような貫禄に、商人をよく知らないながらもチアーレが人の上に立つ者だとシロは理解した。
「『どうでしょう。私の商会に所属して共に違法商人を潰しませんか? 不法に捕まった奴隷の解放も私の成すべきことです。利害は一致するのでは?』」
「願ってもない勧誘。今のわたしは住む場所もなければ、武器もない。商会の協力は理想的。わたしでよければ、是非」
シロがチアーレに向けて手を差し出した。握手は猫人族にとって約束を交わす際の儀式だ。
「『うむ、よろしく頼む』」
チアーレはシロの手を掴み、軽くグッと握ると微笑んだ。その時を待っていましたとばかりに、フェクトが二人に歩み寄る。
「さて、お二方の話し合いもまとまったご様子。夜も遅いですから、シロさんは商会の方で休ませていただくといいでしょう」
「うむ、そうだな。シロ殿の寝食は任せたまえ」
鷹揚にチアーレは頷くと店の入り口へと振り返る。その後ろ姿をちらとフェクトは見つめるとその視線をシロに移した。
「ではシロさん、ご武運を。土産話を楽しみに待っていますよ」
「ん。フェクトもありがとう。恩は必ず返す」
シロはフェクトの手を取って握手を交わす。目の前の顔はにこりとした笑顔のまま変わらないが、それでもシロは少しだけ微笑んでいるように感じた。
「では、ご来店ありがとうございました」
「あぁ、また来るよフェクト殿」
「ん。またね」
見送るように恭しく一礼したフェクトを最後に振り返り、シロは店を出る。少し前に奴隷狩りに追いかけられていたのが嘘だったように路地裏は静寂に包まれ、微かな月明かりだけが夜道を照らしていた。
「クロ、待ってて」
何処ともなく遠くを見つめ、シロは仲間を助けることを決意する。こうしてシロは、目標への第一歩を踏み出したのだ。
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