12月31日

 リビングのソファーの上でくつろぐ怠惰な一日。それが大晦日だろうが、一介の高校生にとってみれば三百六十五日のうちの一日でしか無い。つまり僕は怠けていて間違いではない。煩悩だらけの頭で夕飯について考えていた。寒くて外には出られないが食料は持つだろうか。今日は風も強い。現在午後五時である。冬が本格的に到来した日本列島は真夏のあの暑さが嘘のように冷気が猛威を振るっていて、同時に日が落ちるのが早くなった。冬は寒いし、暗い時間が長くなるのでわざわざ暗澹な気分が助長される。僕はこんなだらけた感じで今日が終わってしまうと思っていた。しかし、そうは問屋が卸さないらしい。突然のチャイムが僕の平穏を壊した。立ち上がってリビングのインターホン前に立つ。どうせ宅配の誤送だろうと思って画面を覗くとエントランスに見覚えある顔があった。溜息が出る。

「どちら様? 番号をお間違いでは——」

「唯都くん? わーい。早速入れて」

 帯刀だった。こいつには大晦日も関係ないらしい。僕の家に来るほど深刻に暇なのだろうか。

「入れない。凍え死ね」

 僕が冗談でからかってやると画面を叩いた。壊すな。入れるよ。僕は着古したグレーのパーカーにジーンズ。他人に会う用の服ではなかったが、帯刀だしいいかと思った。しばらく経って、ゴンゴンとドアを殴る音がしたので鍵を開ける。

「こんばんは! ご家族いる?」

「いない。こんばんは」

「あちゃー、やっぱり。仕事?」

「家族は母方の実家に帰っている。僕は愛想が悪いし、付いて行ってお年玉だけ貰うのも悪いから今日は一人で留守番してる」

「唯都くんは家族にカウントされてないんだ」

 違う。一人きりの時間が最低限必要な性格なんだ。出会って数分で軽妙なトークを展開する僕らだが、帯刀の訪問にアポイントメントは無い。予告も無く急に来たのだ。

 茶色のダッフルコートを着て、黒く厚手のスカートを穿いた帯刀は、ドアの前で真っ直ぐ立っている。肩にバッグを掛けていた。

「とりあえず入る?」

 帯刀は驚いてから「うん」と頷いた。暖房が点いたリビングに案内する。コートを脱がなかったのですぐに出る用事があるのだろう。僕は事情を訊いた。帯刀は淡々と答える。

「私の両親は年越しライブに行っちゃったの。泊まり掛けで。それでお姉ちゃんと私が残されたんだけどお姉ちゃんは独り暮らしの彼氏の家に行った。たぶん一日は帰って来ない」

 僕はソファーに腰掛けると、その傍で立つ帯刀に疑問をぶつける。

「帯刀は親に付いて行かないのか?」

「付いて来てもいいと言われたけど、私のチケットは無いから、結局は長時間移動して狭いホテルに泊まるだけで翌日帰ることになるの。なら、おうちにいたい」

 それが僕の家に電撃訪問することとどう関係あるのだろう。それも帯刀は説明した。

「んで、一人じゃ退屈だから誰か呼ぼうって思って唯都くんの家に──」

「待って。僕が選ばれた過程は? なぜ僕なんだ」

 帯刀はやれやれと肩をすくめた。鼻につく仕草だ。そしてとびきりの笑顔で言う。

「大晦日に家族と過ごさず、更には暇を持て余している人間はこの世に私以外一人しかいなかったの」

 それが僕だった訳だ。確かに年末年始と言えば、家族サービスの期間である。仕事が忙しいうちの家族でさえこの数日は余暇を楽しむ。僕は少数派らしい。

「それで目的は? もう日も暮れたし」

 帯刀は楽しそうだった。今日はテンション高めだ。

「私の家に二人で泊まろう!」

「却下で。よいお年を」

 帯刀は僕をじっと睨み付けた。やめろ。近い上にその瞳は苦手だ。

「大丈夫。うちは二階建て一軒家で広いから」

 広さの問題ではない。健全な高校生が男女一つ屋根の下で泊まってはまずいだろう、ということを言いたい訳でもない。そこまで想像力は豊かではない。本当に。寒い中、外に出たくないのだ。──それだと少し弱いか。断る理由を編み出す間も無く、帯刀の決定事項に抗える力も無く、三分程度で言いくるめられた。自分が情けないくらいは思う。着替えの準備でリュックにパンツだの靴下だのを詰め込む自分が鏡に写るのを見たら。服も替えた。紺のニット生地のものを上に着て、下は今日も明日も黒のスキニーでいいと思った。それに黒のチェスターコートを羽織った。大体の準備が完了したので帯刀に声を掛けると、すぐにリビングから出て来た。

「テレビもエアコンも電気も消して来たから、すぐ出発!」

 すぐ帯刀に連れ出された。恐らく、僕も年末ということで少しは浮わついた気持ちがあったのだ。平生の僕なら断ることも可能だっただろうが——人生は結果論で語るべきかな。

 当然外は寒かった。風も強かった。防寒具はコートとマフラーだが、手袋もしたい気分だ。半歩後ろの帯刀はその全て身に付けている。

「帯刀、そのコート似合うな」

「ん? え……」

 絶句した。変なことを言っただろうか。帯刀は僕の顔を幾度か覗く。上着のポケットに手を突っ込んだままの僕は首を傾げた。

「唯都くん、嬉しいけど急だと困るよ」

 照れた。そんな反応すると思わなかったからこちらが恥ずかしい。話題を変えよう。

「これから帯刀の家まで電車で行くだろ? 他に予定あるの?」

「えっと、私の近所の食堂で年越し蕎麦食べよう! それくらいだね」

 年越し蕎麦か。この寒いときには最高だ。自宅でカップ麺を作る予定だったから随分グレードアップした。食べて速やかに帰宅しよう。僕は内心、本気で宿泊を強要されていないと思っている。多少常識があるのが帯刀だ。確実に帰ろうと思っている。常識はこっちの方があるから。

 駅では初詣に行くのだか、僕らのように遊び歩くためだか人が多かった。と言うよりは賑やかだった。平日とは違い、仕事以外の目的で人々が集まっているからかもしれない。やはり妙な高揚感がある。夜の街を歩くことが普段無いからなのだろうか。

 目的の駅前に着いたのは五時四十八分だった。すっかり辺りは暗くなり、以前遊園地に誘われたときとは景色が違った。雰囲気の問題で。帯刀の様子をちらちら伺いながら歩く。僕は目的地を知らないので本当はもう少し前を歩いてほしい。帯刀は「ワクワクするー」と楽しさを表現していた。空気が乾いているからか、今日はよく声が耳に届く。風が無いとき限定で。強風に髪を弄ばれている帯刀は髪型を保つのに少し忙しそうだった。

「そういや、今日の計画はいつ立てたの?」

 気になって訊いた。帯刀は前々から予定は立てることができたはずだ。

「今日の朝六時にお庭の手入れしているときに思い付いた」

 突っ込み所がいくつかあるが、どこに触れよう。

「当日?」

 帯刀はニヤリと笑う。僕の真似をしてポケットに手を入れ、横に並んだ。

「前から準備してたら、今日のためにサプライズを考えてたみたいで痛々しいでしょ」

 二人して寒い遠いと愚痴をこぼしながら、六時九分には例の食堂にたどり着いた。二階建て建物の一階で横開きのドアに暖簾が掛かった、外見上はごく一般的な食堂だった。外に四、五組並んでいて、皆もやはり日本人の魂があるなと心がほっこりした。それでも体は寒くて、今にも倒れそうだから中で待たせてほしい。帯刀と話しながら待つ。

「唯都くん何食べる?」

「蕎麦だろ」

「何の蕎麦か訊いてるの!」

「何があるか知らないけど、天ぷら食べたい」

「へぇ。バッグ重いから持ってよ」

「僕のリュックの重量考えたことあるかい?」

 その後も荷物を押し付け合っていると、自然に出番が回って来た。回転率が割といいらしい。十分くらいしか待っていない。中はとにかく暖かく、それはガンガン焚いた暖房と照明の明るさのおかげだったと思う。十数組が収容できる店内には椅子・テーブル席と一段上がって畳に座る席があったが、僕らは二人組ということもあってか同時に開いた両方のうち、椅子とテーブルの方に案内された。帯刀は手袋とマフラーを外し、コートを脱いで隣の椅子に掛けた。バッグもそこに置く。僕も大体同じようにした。帯刀のトップスは白のニットだった。ニットがお揃いになってしまった。

「じゃあ、注文でいい?」

「せっかちなの?」

「すみませーん! 注文お願いします!」

 声がよく通る。僕じゃ届かない距離の店員さんを呼び止めた。バイトっぽい若い男性がメモ帳を取り出してやって来る。そして威勢のいい声で注文を促された。まだメニューを見てないどころかお冷すら出されていない。

「月見蕎麦一つで」

「……あっ、僕は、月見?」

「何で? 彼は天ぷら蕎麦で」

 店員さんは注文を繰り返すと小走りで厨房へ駆けて行った。蕎麦を出す飲食店は大晦日は忙しそうだ。飲食店を開くとしても蕎麦は出さないようにしたい。万が一にも無いだろうが。

「どうして僕に好きなものを頼ませたの?」

 帯刀は僕に断りもせず、勝手にメニューや行動を決定することが多々あった。一番よく覚えているのは遊園地の昼食。他にも前科は星の数ほどあるが、きりがない。

「何だと思われてるの、私。もう別に構わないのっ。唯都くんは自分の好きなことして楽しんで」

「……? よくわからないけどありがとう」

 なぜかお礼をしてしまった。意思の尊重は当たり前にできるようになってもらいたいものだが。

「でも、お会計は割り勘してあげなーい! そっちが高いの頼んだからね」

「当たり前だろ。各々払うべきものだ」

「どちらかが全額負担でいこうよ」

「……わざわざそうする理由は?」

「そうすれば、二人がそれぞれ払うより得をする人が一人増えるでしょう?」

 損をする人が一人増えるけど。最大多数の幸福を追求すべきだ。まあ、大晦日だし細かいことは全部いいか。宵越しの金は要らない—こともない。僕の経済状況をちゃんと話してやろう。

 そこから、僕の正論をのらりくらりとかわす帯刀を説得する間に蕎麦がやって来た。帯刀がちょっと先だったが、待っていてくれた。お椀に入った熱々の蕎麦に薬味と天ぷらが別で添えられたシンプルなものだった。天ぷらは海老二本と好物の舞茸と大葉とその他。帯刀のは生卵がセンターに位置取り、海苔やかまぼこなどが載っていた。

「よし。いただきます」

「うん。いただきます」

 手を合わせて食べ始める。すすると思ったより熱い。はふはふしながら食う。海老天をつゆに浸けて食べても衣はサクサクしていて美味い。今年最後の晩餐には最適だったのではないか。帯刀は卵を初めに崩すという愚行をまた犯していたものの、美味しそうに食べていたので良しとしよう。

 そこからの話題はたぶん他愛の無いもので、あまり記憶していない。だが、内容も覚えていないほど惰性で会話を続けることができるというのは、それだけの関係を築いている証明ではなかろうか。少なくともこの頃には帯刀が傍にいることが不自然でなくなっていた。本当にいつの間にか、帯刀は僕の内面生活に侵入していた。僕は明確なきっかけも理由も知らない。とても怖いことだ。

 食後のお会計問題だが、お店が慌ただしかったので僕がとりあえず払って帯刀に後で返してもらうことにした。お店の外できちんと着込んだ帯刀が待っていたが、コートのボタンを閉めるのを待ってもらって出発した。帯刀の家に向かっているらしい。

「帯刀、僕帰ろうか?」

 今は六時五十六分だった。薄明るい電柱の電灯と、眩い家の明かりが灯る住宅街を歩く僕は真横の帯刀に話し掛ける。帯刀は首を振った。

「泊まって行きな。もう暗いし、危ないよ」

 子供か、僕は。社会的立場から見ても帰るべきだろう。

「いいから、もう着くよ。あの角曲がった所」

 帯刀は僕の腕を引っ張った。

「もう無理です。到着しちゃったもん!」

 こいつは有言実行だ。そういうところに甘えていたのかもしれない。まあ結果論だからどっちでもいい。僕は帯刀の家にお邪魔した。

 二階建ての一軒家だった。外には駐車場と庭があってそこに花壇や物置小屋があった。玄関の外にはオレンジの明かりが点いていて、鍵を開ける帯刀を上から照らしていた。

「どうぞー」

 中は暗い廊下が続いていて、辛うじて階段の場所がわかった。帯刀が靴を揃えて上がり込むなり廊下の電気を点け、一番手前の部屋に入った。僕はどうしたらいいかわからず立ったままだったが、帯刀に呼ばれてその部屋に入った。

 リビングらしかった。自宅と比べるとずいぶん広い。憧れのマイホームという感じだ。将来こういう家が欲しい、と普通の人なら言うだろうか。部屋の右奥に独立したキッチンがあり、近くにテーブルと椅子四脚が設置されている。左手、庭に面したドアガラスには濃い緑のカーテンが掛かる。左奥の壁沿いにはテレビ。それに対面したソファーと、間に背の低い長方形の木製テーブルが置いてあった。内装や照明が暖色なのは温かな雰囲気を醸し出している気がする。

「いいおうちだね」

 帯刀は笑いながらエアコンを点けるなど準備をしてくれた。僕はコートを脱いで、帯刀も使っているフックに掛ける。その下にリュックを放置した。例によって手を洗う。これは一々報告しなくていいだろうか。帯刀はどこかへ行ってしまった。することも無くてソファーに座ってリモコンを手に取った。テレビの電源を入れる。元々設定されていたチャンネルではお笑い番組をやっていた。

「唯都くん。どうして一人で笑っているの?」

 半ば呆れた様子の帯刀がリビングの入り口で固まっていた。どう考えてもテレビを観ているからだろう。それとも一人だと断固笑わないやつだと思われていたのか。甚だ心外だ。

「ねえねえ、ごはん食べようよ」

 聞き間違いだろうか? さっき口にしたものはご飯でなくて何だろう。帯刀は冷蔵庫に向かうと次々に何かを取り出した。そして僕の目の前にスーパーの袋を置き、それから出して広げる。まずピザ半切れが二つ。次に寿司十貫、あとはたこ焼き十個だった。

「唯都くんと食べようと思って買ってきたの。温めた方がいいか。少々お待ちになって」

「待った。僕は満腹だが、どうするんだ?」

「食べよう。夜は長いぞ」

「頑張れば食えるかもしれないが、帯刀家に悪くないか」

「どうして? 費用は唯都くんと私で折半よ」

 大晦日に胃と財布に負担を強いるのは申し訳ないが、食べ物を粗末にするのはいけない。それに帯刀は僕を困惑させて楽しみたかったのだろう。傍迷惑な話だが応えてやる。

「領収書貸せ」

 帯刀が電子レンジの前でダイニングテーブルを指差すので、リュックから財布を引っ張り出して傍に行った。レシートがテーブル上で折れ曲がっていた。痛い額ではあるが出す。食べるし。机の上にお金を置く。

「あっ、そうだ。お風呂どっちから入る?」

 帯刀は電子レンジとその台に寄り掛かって尋ねた。寄り掛かって大丈夫なんだろうか。

「忘れてた。風呂入らない訳にはいかないね。お先にどうぞ」

「私がお風呂入る間だったら脱走できるとか考えないこと!」

 その手があったか。どうして帯刀の目を盗んで逃げようとしなかったのか。僕は答えを考えると良くない気がしたので何も考えずソファーに戻ろうとする。その前に食器でも運ぶ。一通り食事の準備をして帯刀は風呂に行くと宣言し、僕に人差し指を向けた。

「そこにいなさい。覗くのも逃げるのも禁止! 好きに食べてもいいから。行ってくる!」

「はいはい。いってらっしゃい」

 人はこれを軟禁と呼ぶのではなかろうか。たこ焼きにつまようじを二本束ねたものを突き刺して食べる。スーパー惣菜の普通の味だ。

 たこを噛んで思う。退屈だ。時刻は七時二十六分。一人でいるには少々暇だ。自宅に留まっていても同じくやることは無いだろうが、他人の家だと退屈しのぎの物を探しようがない。広いリビングを見渡してみる。コミックラックが置いてあるが、勝手に取って読んでいいのかわからない。仕方なくザッピングをする。こんなときに暢気に飯を食ってる番組に心惹かれたり、格闘技はやはり苦手だったり、流行歌を聴いてうつらうつらしたり、合計十分で飽きた。またお笑いに戻す。このまま寝るかな。他人様の家のソファーで横になるのは失礼な気がする。知るか。僕は客じゃない、さしずめ囚人だろう。

 寝転がってテレビの方を眺めると隣に立つ棚に目が行った。大判の本がいくつか立て掛けてある。せっかく寝たが、起き上がって近付く。やはり卒業アルバムだった。年度から推定して帯刀の中学校のアルバムを選んで引き出す。お姉さんの物もあった。まだ出て来ないよな。よほどカラスでなければ平気なはずだ。テーブルは食べ物などが溢れていたのでソファーに載っけて僕は隣に座った。ペラペラめくるが、帯刀の正面写真を見つけるのに時間を要した。三年五組にいた。ほんの一年前でも変わる。写真の帯刀はあどけないし、控えめそうだ。他の写真も覗いてみるか。体育祭、修学旅行のそれぞれに写る帯刀を見た。どちらも僕の知る帯刀のようにはしゃいでいる様子は無かった。とは言え、今も高校内で特別目立つ訳ではなく、仲のいい女子や僕の前でだけふざけるので、こんなものかと思った。いつも隣に背の高い女の子がいたが、仲良しだったのか。

 む、何か聞こえる。帯刀が風呂場から叫んでいる? 僕は慌ててアルバムを元に戻すとリビングのドアを開けて廊下に顔を出した。

「喋ってたかー?」

「うん! 素っ裸だけど見に来るー?」

「黙れ。かなり見たいけど」

「変態ー。ちょっとだけよ!」

 バカか、くだらん。ドアを閉めてソファーに何事も無かったかのようにふんぞり返った。ドライヤーをするくらいの時間が経ってリビングのドアから帯刀が登場した。

「よう。風呂開いたよ」

 帯刀は実際違うだろうが、バスローブたった一枚だけを羽織っているように見え、冬にしては薄着だ。目の遣り場に困るからもう少しきちんと着てほしい。タオルでうなじを拭ってから僕のすぐ隣に座って来た。帯刀は目を合わせて笑った。笑って首が揺れるたび、シャンプーの香りがする。ほんのり上気した頬が僕の肩に触れるごとに心臓が熱くなった。これはいけないと思った。

「唯都くん全然食べてないじゃん。もっとお食べ」

 帯刀がピザを差し出してくるが受け取る気にならない。

「帯刀、やっぱり帰るべきだよな」

「え。そんな悲しいこと言わないで」

 帯刀は立腹した。六分の一カットのピザを咥え、僕の手をその熱い手で握り込む。

「いや。駄目なものは駄目じゃないか」

 常識的に、二人で宿泊なんてしてはいけないことではないだろうか。帯刀は納得いかないようで僕を引き留めようとするが、いかにしてでもこいつは留めるだろうから、僕が行動せねばと思った。立ち上がるとリュックとコートを掴んでリビングを出た。

「待ってよ。やだ。帰んないで!」

 帯刀は玄関で背中に抱き付いたが、僕も振り切らんと必死なので何とか鍵を開けて外に一緒に飛び出した。凍った外気を浴びて身震いする。帯刀は一度離れて、僕の手首に爪を立てて握った。痛い。

「唯都くんの馬鹿。本気で帰りたいなら私は怒るから。何で帰るの」

 帯刀は答え方によってはキレる寸前だった。まだギリギリ通常の心理状態だ。

「何か言いなさいよ」

「ええ……」

「私が可愛いからとか言わないよね」

「まあ、可愛かったけど」

「はあ? 何言っても……待って、何? すごく嬉しいこと言ってたかも」

「二度は言わない」

 頬をかつてないほど真っ赤にさせた帯刀はその場に座り込んだ。顔を手で覆ったまま数十秒、帯刀は指の隙間から僕を覗き、言った。

「なおさら残ってよ」

 冷気で頭を冷して考えた。帯刀に泣きつかれても蹴飛ばす自信が無い僕はとりあえず自律を肝に銘じて戻るべきだ。財布を忘れたし、蕎麦の代金を受け取ってない。

「大人しく過ごすって約束しろ」

 帯刀は頷いて家に戻った。その格好寒いだろ。僕も仕方なく戻る。暴力は偉大だ。手首が取れる恐怖からこうなってしまった。リビングに入ると帯刀はソファーにダイブして、かなり上機嫌だったように見えた。

「いやあ。まさか唯都くんの口からあんな言葉が出るとは。不意討ちだ!」

 楽しそうで何よりである。嘘も方便ってことだ。注いでもらった麦茶を飲んでから風呂場に行く。入らない訳にはいかないからだ。ただし、後戻りできなくなるとわかっていた。ここで中途半端に抜け出してお互い風呂上がりだったら、目撃した人にあらぬ疑いをかけられるだろう。洗面所と風呂は廊下の突き当たりの左だった。右はトイレだったと思う。入って横開きの戸を閉める。そこにあった腰丈の台に持参した下着とスウェットを載せた。

「バスタオルは積んであるの使っていいよ!」

 帯刀がいきなり洗面所のドアを開いた。まだ脱いでいなかったから助かった。

「了解。帰ってくれ。来ちゃダメなんだよ」

 教え諭すように言ってやると、歯を見せて笑った。ご機嫌を維持して帰って行く。頭が悪いやつと一緒にいると疲れる。バスタオルの位置を確認する。

「あっ」

 タオルの横の洗濯カゴが目に入ってしまった。帯刀の今日の着衣があったと言えばわかるだろう。そうだった、今現在僕は同級生の女子といるのだ。バスタオルをさっと取って、風呂のドアの前に引っ掛ける。洗面所には鍵が掛からないとわかっているので不安要素は残るが、素早く衣服を脱いで浴室へ。

 中は暖かかった。そりゃそうだろうと思うかもしれないが、僕はいつも一番風呂なので空気は完全に冷えきっていて、シャワーを浴びるとやっと室温が上がるのだ。初めから暖かい浴室に入ったのは久し振りだ。そしてすぐさま帯刀のシャンプーの残り香がすることに気付いた。するとこの暖かさも帯刀のものである感じがしてきた。落ち着かない。とりあえず髪と体を洗って浴槽に入った。

 風呂では余計なこと考える。自分の内面との対話というか、思考の整理時間である。だから僕は長風呂しがちなのだ。本日は嫌でも帯刀関連のことを考えてしまう。僕は帯刀の家にいて、温かい気持ちになっているのだ。温かい家にご飯に風呂、そして帯刀といる愉快さ。これが原因なのか。自然と自宅より居心地がいいとも感じる。帯刀が女子でなければ素直にそう思える。本当は男だと言われたらそれはそれで不都合だが、帯刀には僕を駄目にする要素が多いというのもまた事実だ。平静を装うが、今日は頭がふわふわするのでこれからブレーキの役割を上手く果たせるか心配である。先刻のことが思い出される。帯刀の──。

「──うはっ!」

 溺死すると思った。危ない。ここで溺死して発見されたら、死んだ後でも退学処分かな。もう出よう。バスタオルを腕を伸ばして取って体を拭き、浴室から出て服を着る。このスウェットは普段から自宅で身に付けている、黒地で白いラインが入っている地味なもの。ドライヤーで髪を適当に乾かす。時計が無かったからわからないが、せいぜい二十分で風呂を済ませたと思う。

 リビングのドアを押し開けると帯刀が玉子の寿司を食べていた。ソファーで脚を組んでテレビを見ながらだった。

「よっ、唯都くん」

 だらだらしている雰囲気満載だ。僕も加えさせてもらおう。隣に座る。帯刀は距離を詰めて来た。せっかく広いソファーなんだから有効に使えと思う。端っこに追い詰められたが、何を言っても無駄な気がするので諦めた。天井を見上げると若干薄暗くなっていることがわかる。光量を下げたらしい。眠気を誘ういい明度だった。テーブルにはまだ多くの食べ物が散らかっていた。帯刀はそれを勧める。

「どんどん食べて。無くならないよー」

 腹は減っていないが食べるとしよう。餅明太子ピザを頬張った。カロリーが高そうだ。だが、カロリーと旨さはある程度比例関係にある。やはり美味しい。分厚めの生地で、餅と共に食べると至福の柔らかさがある。チーズと餅が伸びるのを見て食欲が少し増した気さえする。年越し蕎麦は一年のシメとして食べるものだということをど忘れしていた。

「ねぇ、唯都くん。これから何する?」

 何すると言われても、することは無いだろう。僕はピザの次にマグロを食べるという罪悪感を楽しんでいた。

「暇じゃん。まだ八時」

 確かにテレビを見るとまだ八時九分だった。

「いいじゃないか。黙々と消化しようよ」

 帯刀は無言で了解して、たこ焼きを手に取った。そして僕の肩に寄り掛かる。帯刀の黒髪が捲った腕に当たってくすぐったい。左腕が痺れそうだ。どうしてこうなったのか。ここまでの仲になった覚えは無かった。しかし、いつも僕らの距離感は帯刀の行動から決定されているので、僕はまたしても受け入れる。この四カ月の時間の積み重ねがこうしているのだと解釈する。

 帯刀が僕の家に来た十月頃から僕と帯刀の間に特別な出来事は無かった。それでも帯刀がこうするのはひとえに一緒に過ごした時間が原因なのだと思う。時間は金では買えないとよく言われるが、それを僕らは深層心理でわかっている。取り戻せないものを捧げることは信頼関係を築く一番の方法なのではなかろうか。

「なにボケッとしてるの。退屈しちゃった?」

 帯刀が何かを頬張ってこちらを覗き込んでくる。こちらは心地良くうとうとしているのだ。

「じゃあ、こういうときだからできることをしよう。修学旅行の夜みたいに、カミングアウトするの。恋バナとかの盛り上がる話」

 僕は真っ直ぐテレビを観る。そちらで笑いそうになったが、帯刀との会話中だし控える。

「薄っぺらい人生しか送ってないから、面白い話はできないよ」

「えー。お互い一個ずつくらい出し合おう」

 帯刀は頭を僕の肩に何度もぶつけてきた。暴力が最善の解決手段だと間違っても思うな。だが断ったところで食って寝ようと言われるだけだ。それならば一時の些細な会話でも楽しむ方がずっといい。どうせ後戻りできないのだ。この時間がなるべく長く続くといい。

「わかった。してもいいよ」

「何話すの? びっくり仰天ものじゃないと許さないぞ」

「……そうだな。薄っぺらな人生を送ることになった経緯くらいしかエピソードがない。一応話したことないし、カミングアウトに相当すると思う。何より、いい教訓になってる」

 平生の僕ならば勇気の要ることだったと思う。でも、今日は浮わついてのぼせているので口が滑ってしまった。それに帯刀がくっ付いていたら正常な判断はできない。話してみたいと、冒険的な思いが勝つのだ。なぜ普段は話したくないか? 話せばわかる。帯刀を困惑させるようなこと。

「いいよ。興味津々。唯都くん先行でどうぞ」

 帯刀は僕を見て笑顔でいる。僕はゆっくり思い出しながら語り出した。自らの人生を振り返るのは最初の経験だった。

「小学生の頃の話だけど、僕は今の客観性を最大限持って見れば、根は変わらずとも性格はもう少し社交的な野球少年だった」

「何言ってるのー?」

 けらけら笑いながら僕に体重をかける。帯刀はバジル風味のトマトピザを口に運び、僕に話を続けるよう目で促した。

「嘘は吐いてないよ。放課後は野球をしに校庭にまっしぐらだった。そして今より少し気も大きかったんじゃないか」

 僕は、帯刀が飽きたために放置されているたこ焼きをつまんだ。

「あの頃はとにかく周りに認めてもらいたがっていた。今とは全然違う。もし昔の僕が現在の僕を見たら自分だとわからないと思う」

 麦茶で喉を潤す。

「僕は楽しければ良くて、仲間に入れたら良くて、人の痛みに鈍感な方の人間だった。思い返すと恥ずかしい」

 帯刀は相変わらず僕を壁として利用しながら食事を楽しんでいる。

「色々無茶もしてたけど、そこは省略する。一言で言うとずっと自分勝手だった」

 帯刀は笑う。僕も釣られて笑う。

「転機は小四のときだった。クラスにちょっと疎まれている、というかはっきり言えば嫌われている女子がいたんだ」

「可愛かった?」

「うん。美人だったよ。黒いロングヘアで目がぱっちりで中学まで同じ学校だったけど、ずっとスタイルも良くて頭も良かった。声もハキハキしてて仕草も綺麗だったな」

「私より可愛いの?」

 帯刀は楽しそうに訊く。それに関してはノーコメント。

「だけど性格に難有りだった。今の僕が言えないけど協調性が無かった。なぜだったのかな。正義感が強いって言うとルールに厳しいみたいでイメージが違うんだ。ええと、誰かの陰口に乗らなかったり、他人のズルは見逃すけど自分はそのズルに加担しなかったり、自分自身の信念には誠実な子だった」

 人の説明って難しい。

「浮いていることを本人は気にしてなかったように見えた。それでね、僕はその子とケンカした。確か、給食の配膳時間にその子の前に僕が割り込んだのかな。ほら、それぞれ給食を受け取りに行くだろ。それで向こうは僕が割り込んだことか、僕がぶつかったことか、はっきり覚えてないけど怒ったんだ。彼女は恐らく正論っぽいことを言っていた。けれど僕はひたすらからかうだけで真面目に取り合わなかった。周りに『捕まってるー』って笑われていたから恥ずかしさを誤魔化すためにね。そうしたら、その子は結構激しく怒り出したんだけど勢い余ったのか、汁物が載っていたお盆を落としてひっくり返したんだ。僕は更に馬鹿にした。すると、クラスの皆も喜んで笑うんだ。僕は良くない味をしめたと思う。あの雰囲気もいじめだった」

 さっきまでもたれ掛かっていた帯刀は真っ直ぐ座って僕の話に聞き入っている。こちらをじっと見つめている。

「そのとき、クラスメイトが皆仲間になった気がして気分が良かった。対してその子はそれから全くクラスメイトと口を利かなくなった。でもちょっと後に友達は出来たらしいよ。可哀想だと思って味方をしたんだと思う。あと、その子は毎日泣いて帰ってたってことも数年後にたまたま聞いた」

 帯刀は食べることはなく僕を見る。ちょっと話しづらい。

「小六までその楽しみを知った僕は悪ふざけを続けた。むしろ悪化させてたと思う。相手が嫌がっているとかは考えてなかった。でも、いつかは失敗するんだ。当たり前だろ? ある日、クラス委員のやつとケンカした。ケンカというか、僕が一方的にからかったからやめろと怒られたんだ。あんまり具体的に思い出したくないな。そしたらどうなったと思う? 人気者のあいつを味方したクラスメイトたちから、僕の方が孤立した。次の日からみんな無視だ。仲の良かったやつも最低限の会話しかしてくれなくなった。最初は抵抗してみたけど空しいだけだった」

 笑ってみる。帯刀はやはりじっと見るだけ。

「自分が傷付いてやっと他人の痛みがわかった。自業自得だけどさ。仲の良かったやつが簡単に僕を嫌いになったこと、クラス委員のあいつだけが結局普通に接してくれたこと、色々悔しかった。そしてあの女の子をはじめ、今まで傷付けた人にとんでもないことをしてたと気付いたんだ。だから心に決めた。もう誰かと関わらない。平穏無事に過ごすためだよ。嫌われる可能性を無くしたいから、それ以上に誰かを傷付けたくないからだった。僕は誰かと関わればきっと傷付けてしまう」

 帯刀は僕の肩にまた寄り添った。やめろよ。

「中学に上がってからも小学生の頃を知ってるやつは多くて何も変わらなかった。ずっと独りでいた。たまに陰口を小耳に挟むくらいで、平穏な日々だったよ。でも好きだった野球は辞めた。ちょっと退屈はしてた。だから、高校に行って本物の平穏な日常を手に入れたのに帯刀とつるんだりしたのかな。今こうしてるのは不思議だけどね」

 帯刀はくすり、と笑った。

「はい、しんみりしたところで僕の話は終わり。本当に面白くなかっただろ?」

 そう言うと、僕は膝の上に重量と温かさを感じることになった。帯刀が僕の膝に頭を載せたのだ。僕を見上げている。感想は?

「へへへ。唯都くん、まずはごめんなさい。知らないでクラスのみんなと喋って、とか言っちゃった。初めて話したときのことだよ」

「それはもういい。結果オーライだ」

 これでも前より毎日寂しくないんだ。

「何で話そうと思ったの?」

 なぜだろうか。僕は麦茶に手を伸ばす。

「わからないけど、聞いて欲しかったのかもしれない。話したこと無かったし」

 誰かに言ったことは無かった。それがどう負担になっていたかはわからない。ただ、話してみて気付いたのは、思うより辛く感じていなかったということだ。僕は今までこの記憶を避けるために厳重に蓋をして目につかないように処理していた。しかし思い切って蓋を開けてみたら中身はほとんど空っぽだった。長い時間が中身を少しずつ消し去っていたのだと思う。不思議と辛いとは思わず、あんなこともあったと余裕を持って俯瞰できている僕がいる。時間は偉大だ。それとも帯刀が隣で蓋を開けるのを助けてくれたからだろうか。

「でも、唯都くんに一つ言いたいことがある」

 帯刀は僕の目を見て言った。

「唯都くんは自分が悪い人だから誰かを傷付けたと思ってる。それは絶対違うよ。唯都くんは確かに酷いことをしたかもしれないけど、それは唯都くん自身が悪い人という意味ではない。人間だから皆弱い所はある。だからこそ誰しも良い人になろうとしている。結果として悪事を犯すことはあれ、本質は善性だよ。だから誰とも関わらないっていう方法が良かったかは別としても、今の唯都くんはやっぱり優しい。それとも経験から優しくなれたのかな? 私は今の唯都くんの優しさに救われてるし、唯都くんはいい人だと思ってる。その女の子も唯都くんにまた会ったらきっと許してくれると思う」

「そうかな。そうだといいけど、あの子厳しい性格してたから帯刀とこんなことしてるの知れたら、軽蔑されるな」

 帯刀は笑って頭を転がした。くすぐったい。

「唯都くんにそんな強烈な印象与えた子の顔はぜひ一度拝んでみたいものだね」

 なぜだよ。でもまあ、帯刀に言うことを言っておくか。

「ありがとう。帯刀」

 今度は静かに頷いて目を閉じた。

「私ちょっと寝るから。そこの食べててね」

「ここで? 帯刀の話はどうする」

「いいや。唯都くんの話聞いたらどうでも良くなっちゃった。おやすみ」

 そのまま夢の中へ。こいつは食うか寝るか大声出すか、偉ぶったこと言うかしかしない。僕は警戒心無く口を開けて寝る帯刀を膝に抱えつつ、バジルピザを手に取る。今気付いたことだが僕が帯刀といるときは大抵何か食っている。僕もこいつも食べるのは好きなんだと思う。僕は上半身で伸びをして、テレビに目を遣る。ちょうど見たかった。


 次に帯刀が起きたのは十一時十五分。僕の上で眠りながら年越しするのかと焦った時間帯だった。二時間以上あったのでエコノミークラス症候群とやらに罹患した可能性がある。

「うひゃ。何時?」

 髪を少し乱した帯刀には素直に答えておいた。わざと遅い時間を言えば面白い反応が見られたかな。だけど僕はもう眠いのだ。

「もうそんな時間かー。寝る?」

 お前はもう寝ただろう。帯刀は起き上がり、寝ぼけ眼でサーモンを掴んで口に入れる。ベッドメイクに行くと部屋を出て行った。その間退屈だった。眠気が思い出したかのように襲って来る。帯刀が膝上で寝ているがゆえ、迂闊に寝落ちして覆い被さってはまずかったから我慢してたのだ。

 さて、テーブルの片付けをしようと思う。あとはたこ焼きが一つと餅ピザ一切れのみ。頑張って腹に詰め込み、立ち上がった。体が凝り固まっている感覚はあったので、一度伸びをしてからプラスチック容器をまとめて袋に入れ、流しでコップを洗う。

「準備できたよ」

 帯刀が帰って来た。まだ眠たそうだ。

「これ片付けたら寝るか?」

「カウントダウンするよ──えっ、何?」

 帯刀が飛び上がる。僕も驚いた。電話が鳴り出した。これはどの電話だろうか。

「私の携帯でも固定電話でもないよ」

「僕のか。リュックに入ってるからパスして」

「リュック? 手の届く所に置いとけ!」

 僕は慌てて引っ掛けてあるタオルで手を拭いて、帯刀からスマホを受け取る。投げていいと言ったが、律儀に手渡してくれた。電話の相手を見ると「みなみ」。西川さんだった。

「どうしたんだろ」

 帯刀は画面を覗いて肩をすくめた。応答。

「もしもし。唯都です」

『あっ。もしもし、常盤くん? 突然ごめん』

「大丈夫だけど」

『今忙しくない?』

「……テレビ観てたよ」

『そっか。大晦日だもんね。どこにいるの?』

「自宅」

『そりゃそうでしょ! 面白いなぁ』

「リビングにいる」

『ふふ。何か食べた?』

「……蕎麦食べた」

『どこで?』

「あ、えっとお店で」

『どこの店?』

 どうしようと帯刀に目でサインを送ると小声で、素直に言えばというふうに返されたのでそうした。

『……へぇ。美味しかった?』

「とても。用事は何?」

『今年が終わると思ったら言いたくなって。一緒に初詣行こうよ』

 初詣? 帯刀の方へ目を泳がせるが、残念ながらそっぽを向かれてしまった。自分で決めろということか。僕の決断力じゃ難しい。

『悪いけど──』

 帯刀が僕の腕を掴んだ。強く首を振った。行け、ということか?

「いや行く」

『……本当にいいの? やった!』

「一回ちゃんと話しておきたかったし」

『誘ってよかった! じゃあ、細かい予定はまた今度落ち着いたら送るね』

「あ、うん。よろしく」

『わかった。おやすみ。来年もよろしく』

「じゃ、切るね」

『待って、誰かいるの?』

「……親がさっき来たよ」

『はーい。じゃあね』

 切れた。妙に危ない質問が多々あった。心臓がばくばく鳴る。そして勢いで誘いに乗ってしまった。

「これで良かった、のかな?」

 帯刀はナチュラルな表情で頷く。

「いいでしょ。別に」

 いいんだ。西川さんとは学校で何か共通の話題ができるたび、ちょっとラインで言葉を交わすくらいの仲だった。あの日以降特に気まずくなることは無く、むしろ徐々に良くはなっていると思う。だが時期尚早ではないか。

「美海ちゃんは可愛いし、喜びなさい。進展あるかもよー」

「でもさ、あったとして僕で良かったのかな。正直、西川さんの真意が読めない」

「好きに真意も何も無いよ。唯都くんはイケメンだし性格も無害だし、どうしてもあり得なくはないよ。きっと本気だから。大丈夫」

 そうなのか。僕はずっと誰かと付き合うなんていけないと思っていた。きっと酷く傷付ける。深く関われば関わるほどそうなりやすくなる。そう信じてきた。違うのかな。違うのかもしれない。実際帯刀とこの数ヶ月、上手くやってきたという経験もある。僕は少しでも成長しているのだろうか。

「自分とも相手とも対話して欲しくなったら取っちゃえ! 向こうも望んでいるらしいし」

 帯刀は笑う。そっか、ありがとう。僕は帯刀に本当に救われている。

「いいなー。美海ちゃんかー。控えめっぽい性格ではあるけど騒がしいグループにいるよね。私とは関わり無いな。全然違うでしょ? 私もあの子も。あの子は微笑みが似合うけど私はね……」

 帯刀は苦笑した。僕の脳内では帯刀が腹を抱えて下品に笑う様子を思い描いている。

「まあ、頑張って何とかする」

「いいね、けりつけて来なさい」

 帯刀は右手で僕の左手を握った。

「あのさ、着替えた?」

 帯刀はいつの間にか紺のパジャマになっていた。別に特定のどこかを見てそう思ったのではない。さっきの服装より馴染んでいたから気付かなかっただけだ。手を離せ。

「寒いでしょ。寝る服じゃないし。それともあの格好が良かった?」

「あー。カウントダウンが始まるぞ」

 テレビでは新年まであと一分と報じられる。各地の神社から中継されているのを指差した。

「そっか。楽しみ。ジャンプしよ!」

 こんな年越しは初めてだ。今年は激動の年だった。一時の安寧を手に入れ、すぐに帯刀からそれを奪われた。来年はどんな年になるだろうか。僕はこの後の就寝のことを完全に忘れている。

「よし! 五、四、三、二、一」

 帯刀がジャンプ。僕に跳ぶ気は更々無く、帯刀を裏切る。

「ハッピーニューイヤー! ゆ、唯都くんも跳んでよ」

 一応ここから新年である。

「明けましておめでとう。本年もよろしく」

「あけおめ。唯都くんはバカ。ノリ悪い」

 今に始まったことではないだろう。帯刀は僕の手を掴んでぶらぶら揺らす。

「歯磨きして寝よ」

 洗面所へ手を繋いで行く。テレビと暖房と電気を消しておいた。

「これ使ってね」

 帯刀は新品らしい毛並みの揃った黄色の歯ブラシを渡した。歯みがき粉も拝借する。市販の平凡なものだった。二人で並んで鏡に映る歯磨き中の僕らを見る。でこぼこ感が面白い。帯刀は鏡を見て聞き取りにくくではあるが喋る。

「新婚生活を疑似体験してる気分する」

「そうか?」

「うん。漫画の中みたい!」

 こいつは何がそんなに楽しいのだろうか。帯刀は常に僕の感じる感情の一段上を行く。

「ねぇねぇ。将来のこと考えたことある? 大人になったら何したい?」

「うん? そうだな。適当に大学に行って、適当に就職して、適当に結婚して、適当に退職して、適当に老いていくんじゃないか?」

「うわ。無気力だね」

「人間、適当に生きても死にはしないからな」

「そっかー」

「帯刀は目標あるだろ? 頭いいし、いい大学行けるし、そうしたら色々選べるじゃん」

「あんま無いな。結婚には憧れるよ。ブーケトスで受け取ったことあって。幸運でしょ?」

 帯刀の笑顔は幾度も見たと自負しているが、これは少し上質だった。簡単に言えば、無邪気で可愛かった。

「普通の女の子過ぎた? 何か言って!」

 帯刀は僕の肩を揺すった。顔が赤い。照れるなら言うな。帯刀が恥じらっているのを見ると、僕の方がきまりが悪い。

「私にウェディングドレス着させてよ」

「僕は和服が好みの子としか気が合わない」

「じゃあ、和服でも着るから」

「そこは譲るなよ。ウェディングでも何でも帯刀の似合う物を着ればいい」

「えっ、ちょっ──うん」

 帯刀は黙ってしまった。初めてこいつを閉口させた。ジョークだとわかっているなら何でも返して欲しい。しばらくシャカシャカ無言で磨いた。僕は久し振りにこの時間が居心地悪く感じた。適度に時間が経ったところで、帯刀の方から話し掛けてきた。

「それ、私が一回使ったやつだよ」

 何をふざけたこと言っているのか。僕は仕上げに奥歯を磨く。

「唯都くんが家でくれたやつでしょ!」

「…………」

 僕は何のことだか悟るや否や反射的に吐き出した。そうだ、これは帯刀が僕の家に来たときにあげた歯ブラシである。

「どんなへきだ、この野郎」

 帯刀はくすくす笑った。コップも借りて口をゆすぎ、帯刀も同じように済ませたところで初めて階段を上った。その前にトイレもしたが、必要ない情報だろう。トイレの前で待たれる変な緊張があった。二階は廊下から見るにドアが四つあった。一つはトイレか。

「そこが私の部屋で、あっちがお姉ちゃんの部屋。で、ここが今夜を過ごす寝室です」

 帯刀が案内したのはセミダブルベッドが二つ間隔を開けて置いてある部屋だった。カーテンが閉められた室内には他に、小さな本棚やタンスがあるだけだ。帯刀は左側、窓側のベッドに跳び乗った。

「では、唯都くんは隣で寝ましょ?」

 悪い冗談と思い、右手側のベッドに座る。

「いいから早くどっか行け。眠たいんだよ」

 僕は仰向けに寝た。天井の電気を見上げる。ふわりと沈み込む感覚に疲労が溶け出していくのを感じた。が、すぐさまドカリという振動でその感覚が消える。寝返りを打つと、帯刀の顔が拳一個分の間を開けて近付いていた。

「一緒のベッドで寝る。これ、私の第一目的」

 愉快そうに表情が砕けた。僕は眉間に皺を寄せていたと思う。

「想像してよ。添い寝してねって言ってるの」

「僕は想像力が乏しくて全く思い付かない」

「……一人で寝るのが怖いの」

 想像の斜め上を行く回答だった。いや、そもそも想像できていなかった。

「本気かい? 化生が怖いのか」

「お化けは平気。人生で一度も一人で寝たこと無いから心配なだけ」

「嘘つけ。前は一人で昼寝してただろ」

「昼はいいの。夜はたくさんのことを考えさせるの。怖くて一人じゃ目が冴えるの。だから誰かがいないと──」

 そうなのか。僕が思うに帯刀は騙そうとしているようには感じない。いたって真面目な表情で答えている。

「今更遅いけど僕でなくて女友達に頼むべきだったのでは?」

「また言わせる? 唯都くんだけだったの」

「そもそも一人で留守番するなよ」

「お姉ちゃんが出掛ける予定は最近まで知らなかった」

「僕が一人でいる確証は無いのに家に突撃したのは? 家族と団らん中ならどうしてた?」

「そしたら、唯都くんの家族と一緒に──」

「くそ。面倒くさ。眠たいよ」

 帯刀は折れる気はなさそうだったが、僕とてここで道を明け渡したら確実にアウトである。帯刀をどうにか説得するまで終われないってのに、この押し問答。帯刀も折れたくなかったのだろう。口を膨らませ、抵抗する僕に少々腹を立てていた。睨み合いを続けてから、はぁと溜息を吐いた。近すぎて息が首元にかかる。くすぐったい。

「しょうがない。妥協案を出しましょう」

「偉そうに」

「私は隣のベッドね。それで、お互い朝六時までは不干渉でいきましょう」

 帯刀に人差し指を突き付けられた。これは僕としては了承していいのか。そりゃ、できれば違う部屋がいいのだろうが、どうせ誰も見てないし何事も無ければ仕方ないのではないか。これは僕の甘えた部分だと後から考えて思った。帯刀がルールを厳守するやつだとは毛頭思ってなかっただろうに。

「いいよ。そうしよう」

「うん! 寝ましょう」

 帯刀はぴょこりと起き上がると隣のベッドに向かった。おもむろにベッドを押す。自分のベッドを僕のベッドと付けようとしている。僕は寝たまま蹴ってそれを止める。帯刀はまたもや不服そうだった。ベッドが違っても隙間を作らなければいいと考えたのか。当然そのアイデアに免じて許す訳は無い。いい加減寝よう。

 僕は一度起き上がって毛布など掛け布団を掴み肩まで深く被って横たわった。温かい。帯刀も布団の中に潜る。僕は仰向けに寝た。

「電気消すよー」

 帯刀がリモコンで照明を落とす。暗くなった。反対に枕元の電灯は控えめに点けられる。他の光は帯刀の向こうの窓のカーテンからわずかに漏れるだけだった。この暗さにもじきに慣れるだろうが、帯刀じゃないけど知らない家の暗闇は怖い。

「唯都くん。眠れる?」

 返事はしない。しちゃ駄目だ。

「私、どきどきする」

 知らない。後は眠るだけだ。

「何か言うなら今だよー」

 僕は帯刀のいない左に顔を背けた。

「さいごにー。ひとつ、訊いてもいいかな」

「……」

「私のこと、唯都くんはどう思ってる?」

 無視する。

「起きてるくせにさ」

 背中にごつりと物が当たった感触がする。僕は振り返らない。暗闇が徐々に晴れて、目線の先には膝丈の高さの本棚があるとわかった。流石に本の題名までは見えなかった。

 しばらくじっとして反対に寝返りを打つ。白い枕がベッドに載っかっていた。帯刀が投げたのはこれか。それを僕は両手で拾い上げて投げ返した。帯刀はこっちを見ていた。バシッと音が鳴って顔面に直撃した。帯刀は痛かったのかもしれない。一瞬間動けなかった。ようやく手が伸びてきてそれを顔の前から除くと頭の下に戻し、僕を見つめた。僕は睨まれるだろうと予想していた。

「帯刀はどう思ってる?」

 僕は訊いた。帯刀はそのままの顔で応じた。

「うんと。そうだな」

 一拍置いた。窓越しに外の風音が聞こえる。

「好きかもと思うことはあったよ」

 少しだけ笑いが語尾に含まれた。僕は仰向けに戻って頭の後ろで腕を組む。色の無い電球の付く天井を見る。

「やっぱりお前はナルシストだったのか」

 今度は三拍ほど空けて笑い声がした。

「ええー、そんなぁ。ま、そーだね。でも自分の嫌いなところいっぱいだな」

 もう一度帯刀の方を向く。すると帯刀は背中を向けた。

「もういいか。おやすみなさい、唯都くん」

 僕は手を戻して帯刀に再び背を向ける。

「おやすみ」

 そう言って考えたのはあの温かな気持ちの原因は何かということだった。

 僕もこいつも孤独を抱えていた。僕は帯刀に誘われなきゃ今日は独りだった。だが、よく考えたらそれは帯刀も同じである。僕は好んで一人でいるのもあるし、結果としてそうなってしまったとも言える。僕からすれば僕の孤独に何も不思議なところは無かった。帯刀は違う。帯刀は一見友達が多いようだが、僕と放課後に会うのはなぜだろうと思っていた。帯刀には代わりが利かないという無二の親友はいないのだろうか。今日だって、本当に僕しか誘えなかったのなら。そもそも大晦日のような日に独りになり得るというのは、やはり普段からそういう家庭環境であったと推測するしかない。僕も然りだけど。

 僕らは表向きの性格は正反対のようである。しかし底流のところで似通っている。独りに慣れているという性質だ。独りが怖くないよう装っているという方が適当か。帯刀は友達がそれなりにいる。恐らく家族も賑やかだろう。だから表面的な孤独は無い。だが、心の奥で繋がっていないという影を抱え込んでいて、長いことそれが続いたから影の存在を忘れてしまったのかもしれない。僕は孤独を積極的に受け入れようとしている。だから孤独の苦しみの面に鈍感であろうとしていたのではないか。お互いに孤独の痛みを無視している。だから温かい。二人でいるとおかしいくらい心地良かった。本当は痛かった。きっと帯刀との時間を孤独の癒しとしていた。

 これでもちょっとは感謝しているんだ。帯刀はどうだろうか。僕は力になれているか。もう眠ろう。そうすればあっという間に時間が通り過ぎて朝が来る。疲れているはずだし、すぐ眠りに就けるだろう。すぅすぅと帯刀の寝息が部屋に響く。

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