第8話 味

「カイ、雨がくる」


 獲物を引きずりながらカイが斜面を登りはじめようとしたときのこと。振り返ると、ショーンが斜面で立ち止まり、真剣な眼差しで空を見上げていた。少年の声にカイも足を止め、新芽がふくらみつつある木々の隙間からわずかに見える空を振り仰いだ。

 言われてみれば、なかなか複雑な風が吹いている。太陽の光が雲にさえぎられたためか、昼をまわったばかりだというのに、先ほどまでより辺りの空気が僅かに冷えていた。斜面の上からは、冷えた風がやってくる。その一方で、斜面を昇る風はほんのり生ぬるく、湿っぽい。

 森の匂いが濃くなってきた。くるくると旋回しながら、鷹らしき鳥がぐんぐんと空に昇っていくのが見える。風が複雑にぶつかり合い、強い上昇気流を作っているのだ。

 まだ青い空も見えているが、すでに雲がいくつも生まれていた。しかも、彼らのいる斜面の上に浮かぶ数多あまたの雲は、底の色が短時間で白から灰色に変わり、さらに色を濃くしてきている。これは雲が急速に育っている証だ。背後の山から流れてくる雲も、どんどん大きく高くなっていく。そしてその雲の上には、青空との境界線がわからないほどに崩れた、霧のような雲まで広がりはじめた。雨ではない。雪雲だ。


「これは……まずいな。ショーン、予定変更だ。俺は鹿を背負っていく。君には、こいつを背負うのに邪魔になる俺の荷物を頼みたい」


 カイは急いで背負っていた荷物を下ろし、ショーンに託した。自身に結んでいたロープを解き、背負いやすいように鹿の脚を縛りなおす。垂れ下がった鹿の首が背中で暴れすぎないよう、可哀想だが首を胴側に曲げ、余ったロープで軽く巻いて固定した。そして鹿を背負い、残ったロープをたすき掛けの要領で巻きつけて、鹿と自身が離れないように縛る。


 ショーンは預かった荷物を背負った。ずっしりと重い。油断すれば押しつぶされてしまいそうな重さを、膝下で感じ続けている。今ちょっと肩を押されれば、斜面を転げ落ちる自信が少年にはあった。


「ショーン、重いだろうが、歩けるな」

「うん。歩ける」


 少年は無表情に答えた。けれどその声から、いつもより緊張していることがうかがえる。

 ここは斜面こそきついものの、幸い彼らの家からは一番近い罠だ。急いで歩けば三十分足らずで帰り着ける。


「登りは急ぐ。だが、降りるときは焦るな。たぶん、降るなら吹雪になる。膝をやられて動けなくなったら、吹雪に巻き込まれて死ぬ。大丈夫、おそらく降る前に帰り着ける。急いでも冷静に、慎重にな」


 そう言いながら、カイは力強く微笑んだ。その笑顔は、緊張した面持ちの少年を安心させた。




 二人は無事、本格的に天気が崩れる前に家まで帰り着いた。

 昨日と同じように、獲ってきた鹿を家の脇の渓流で洗い、そのまま流れに沈めて冷やす。その作業をしているときに、カイは鹿の肉の一部を自身の小指ほどの大きさだけ切り取り、ショーンに差し出した。


「食べてみろ」


 ショーンは肉を受け取り、躊躇ためらいなく口に運ぶ。少年はその肉を、じっくりと噛みしめながら味わった。洗い流した血のにおいが過ぎたあとに、動物の肉という印象ではない青臭い植物の香りが後味として残る。


「どうだ?」

「……草の味がする」


 少年の言葉を聞いて、カイは満足げに微笑んだ。


「そうだな。彼らは草や木の芽や皮を食べて育つ。その味は、彼女が食べた植物の味なんだ」

「なんか、不思議。料理すると肉だなって感じるのに。あのとき、まだ生きたいって声が聞こえた。こうしてぼくが食べれば、この子もぼくの一部になって生きられるのかな……」

「声? ショーン、君は……」


 そのとき、白いものがショーンの手の上に落ちてきた。少年の手に触れると、それはけて水の粒になる。


「冷たい……これは、氷?」

「とうとう降りはじめたな。もしかして、ショーンは雪、初めてか?」

「これが、雪……精霊たちが一度だけ手に出して見せてくれてから知ってはいたけど、空から落ちてくる雪は初めて見る」


 そう言いながら、少年は空を見上げた。

 谷間の広場にある彼らの家からは、空は一部しか見えない。黒に近い鈍色の空から、灰色がかった綿ぼこりのようなものがいくつも落ちはじめるのが見えた。けれどそれらは、地上近づく落ちると白く見え、地面に落ちれば融けて見えなくなる。


「冬の終わりが近づいたな。湿った、重い雪だ。ショーン、一度家に入ってあたたまろう。もう少し雪の様子を見てから、猪の解体作業に入るか決めよう」


 言いながら、カイはショーンの肩にそっと触れた。少年の肩は、助けた当初よりずっとしっかりと筋肉がつき、がっしりとしてきた印象を受ける。

 二人はヘレナの待つ家へと入っていった。



 暖炉のそばに、ヘレナが小さなテーブルと丸椅子を用意してくれていた。温かいミルクを受け取り、ショーンは丸椅子に腰かける。飲みながら暖炉であたたまっていると、外はすっかり吹雪となっていた。窓の景色は真っ白で、すぐ隣にあるはずの作業小屋すら見えはしない。ショーンはただ静かに、降りしきる雪を眺めていた。


「こりゃ、しばらく外には出られんな。ショーン、疲れただろう。今のうちに少し眠っておけ」


 丸椅子に座っているショーンに背後から歩み寄りながら、カイが声をかける。ショーンは飲みかけのカップをテーブルに置き、少し不思議そうに首を傾げながらカイを振り返った。


「大丈夫。そんなに疲れてない」

「そうか? だが……ちょっと触るぞ」


 言葉とともにカイの両手がショーンの両肩にしっかりと乗せられる。とたんに走る、肩から腰にかけてのずっしりと鋭い痛み。声こそ出さなかったものの、ショーンは息を詰め、痛みに身体をこわばらせた。自分の傷が癒えきっていないことを思い知らされる。


「すまん。痛かっただろ。だいぶたくましくはなったが、君の身体はまだ万全とは言えない。休めるときに休むのも、君の大事な仕事だ」


 カイの手が緩み、ショーンの肩と背中を愛おしそうにさすった。あたたかい。まるでその熱に溶けていくように、不思議なほどに痛みがすうっと薄れていく。


「カイ、ありがとう。痛み、落ち着いた」

「作業できそうになったら起こす。君には、今はしっかり休んでおいてほしいんだ」

「わかった。眠れるかどうかはわからないけど……」


 ショーンは肩に乗ったカイの手に自分の手を重ねた。カイの手はやはり、あたたかい。固く、少し荒れた肌。無骨でしっかりとした大きな手だ。


「カイの手、優しいな……」


 予想外の少年の言葉に、カイは顔を紅潮させた。それこそ、ボンッという効果音が出そうなほどに一気に。


「なんだろう。安心する。ベッドに入る前に、もう少しだけ触っていてもいい?」

「お、おう……」


 明らかに狼狽うろたえたカイの声。それに構う様子もなく、ショーンは身体の向きを少し変え、自分の肩に乗っているカイの右手を左手で愛おしそうにでた。

 荒れてザラザラとした肌。がっしりとした骨格。無骨な印象のカイの手はところどころタコができ、固くなっている箇所も多いはずだ。そんな優しさとは対極にあるだろう印象の手のどこに、少年が優しさを感じているのかはカイにはわからない。


「ありがとう、カイ」


 カイの右手を両手で包むように持ち上げ、自身の肩から下ろしたショーン。そのままその手を頬に当て、穏やかにまぶたを閉じる。

 されるがままにしながら、カイはなんとも複雑な気持ちを抱いた。

 この子は優しい。優しすぎる。この子自身が生き抜くためとはいえ、動物の声まで聞こえるらしいこの子に、動物のみならず人の生命までをも奪うすべを自分は教え込もうとしている。この罪悪感。そして、今感じている少年の体温……柔らかな頬の、少し熱いくらいの心地よいぬくもりに、我が子に感じるような愛おしさと憐憫れんびんとを感じる。

 何故、女神はこの子を選んだのか。こんなに心優しい少年に、世界なんて大きなものの未来を背負わせたのか。理由はわかるような気もするが、具体的に言葉にできるほど明瞭には見えない。

 奇麗事だけでは生きていけない。それは痛いほど知りながら、心のどこかでこれ以上この子を汚したくないと願う自分がいる。


 突然、ショーンの身体が揺らいだ。カイは慌てて少年を支える。

 少年の顔が赤い。頬が熱いと感じたのも当然だ。どうやら熱を出していたらしい。身体を冷やし過ぎたか。カイは気づいてやれなかったことを悔やんだ。


「ショーン、大丈夫か? 今日はもういい。君はゆっくり休んでくれ」

「うん」


 カイはふらつくショーンを抱き上げようとした。


「少し待って。ミルク、全部飲んでから眠りたい」

「わかった。急がなくていいから、飲んだらゆっくり休もうな」


 ショーンは再びカップを手に取り、残りのミルクを味わった。外の雪と同じように白いミルクは、まだほんのりと温かく、僅かに草の味がする。生命の連なりを舌で感じているようで、少年にはそれがとても甘く思えた。

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