第2話 理由

「お待たせ。うんうん、少し顔色もよくなったわね」


 部屋に入ってきたのはカイと同じ年頃の、人なつこそうな赤髪の女性だった。彼女の持つトレイからは、美味しそうな匂いがただよってくる。

 彼女は全体的には細身の印象だが、ゆったりとした服のせいか、少しお腹がふっくらしているように見える。


「彼女はヘレナ。俺の自慢のかみさんだ。もともと修道院で看護の手伝いをしていた人でな、ショーン、君の手当ては主に彼女がしてくれたんだ」


 あとから部屋に入ってきたカイが、彼女を紹介してくれた。ヘレナはトレイをサイドテーブルに載せて、ショーンに微笑みかける。


「ヘレナ、ありがとう」

「どういたしまして。お口に合うかどうかわからないけど、このスープを飲んでみて」


 そう言いながら彼女は、ショーンにカップを差し出した。少し褐色かっしょくがかった乳白色のあたたかい液体がそこに入っている。優しい香りが食欲をそそる。


「火傷をしない程度に冷ましたつもりだけれど、ゆっくり飲んでね。急に食べたらお腹がびっくりしちゃうからね」


 ショーンはカップに口をつけ、スープを一口含んでみた。甘い。塩気と甘味が絶妙に混ざり合い、そこにミルクのまろやかさと初めて感じる何かの出汁だしの旨味が加わる。さらに、ほんの少しの獣臭さと強めの香草の香りがスパイスを加えている。


「……おいしい」


 ショーンはスープを飲み込むと、無表情につぶやいた。無表情でも、その言葉にいつわりはない。それはヘレナにも伝わったようだ。少し心配そうだった彼女の表情が、ぱっと明るくなる。


「よかった! 香草でできるだけ消すようにしてるけど、獣臭さが苦手な人もいるから、ちょっとだけ心配だったんだ。熊のにおいは独特だからね」


 ショーンはスープをまた一口すすり、じっくり味わってから飲み込んだ。少しとろみのついたスープは舌に旨味を残して胃へと流れていく。ゆっくりと、確実に、熱が移動していくのを感じた。身体が内側から温まっていく。


「美味いだろ? うちのかみさんは料理上手なんだ」

「カイの猟の腕もいいからね。獲物の処理がうまくなきゃ、美味おいしく調理するのも難しいんだから」


 そんな二人のやりとりを聞きながら、ショーンは少しずつスープを飲んだ。


「ごめんね、ショーン。キミの身体の様子を見たら、ずいぶん食べていなかったみたいだから、今回は具をほとんど入れてこなかったの。いきなり固形物を入れちゃうと、身体がびっくりして全部吐き出しちゃうことがあるんだ。量も少なめだけど、最初はこれで我慢してね」


 申し訳なさそうな彼女の言葉に、ショーンはこくりとうなずいた。最後の一口をゆっくりと飲み干し、少年はヘレナにカップを返す。


「ごちそうさま。おいしかった。……ありがとう」


 無表情のままぎこちなく感謝を伝えてくる少年に、ヘレナとカイが微笑みかける。


「よし! 残さず食べられたな。偉いぞ。また少し横になって眠っておけ」


 そう言いながら、カイがショーンをゆっくりと横たえた。傷の痛みに、少年の顔がゆがむ。カイの表情も曇った。


「痛むか。無理もない……。今はとにかく休め」

「そうね。今大事なのは休息と栄養。お昼寝の時間よ。私たちは隣の部屋にいるから、何かあったら遠慮なく呼んでね」


 そう言って少し心配そうな笑顔をショーンに向けると、二人はトレイとカップを持って部屋を出ていった。


 彼らは危険な存在ではなさそうだ。警戒心が完全に解けた訳ではないが、少なくとも今回は彼らのおかげで生命をつなぐことができた。そこには感謝している。

 静かになった部屋で、ショーンはベッドから近くの窓の外を見た。明るい冬枯れの森だが、枝先に芽吹きの気配を感じる。

 久しぶりの食事のおかげだろうか? いや、それだけではない。安心感もあるのだろう。少年はすぐに微睡まどろみ、いつしか眠りに落ちていた。


 ***


「おい! 大丈夫か?!」


 気がつくと、部屋の入り口にカイの顔があった。ひどく心配そうに少年を見ている。

 夕暮れも近いのだろう。部屋は眠りに落ちる前より薄暗い。


尋常じんじょうじゃない叫び声が聞こえたんで飛んできたんだが……とりあえず、今さっきここで何かが起こったって訳ではなさそうだな」


 部屋を一通り見回しながら、カイは少しほっとした表情を見せた。


「怖い夢でも見たのか?」

「……わからない。でも、すごく、怖かった……そんな気がする」


 ゆっくりと近づいてくるカイに、ショーンは無表情のまま正直に答えた。本当にわからない。覚えていないのだ。

 ただ、怖かった記憶だけはある。早鐘を打っている自分の胸の鼓動こどうも、それを裏付けている。


「そうか……」


 カイは真剣な表情になると、ベッドのそばに置かれた丸椅子に腰掛けた。


「いや、今のうなされ方、少し気になってな」


 神妙な面持ちのカイ。うつむきがちに何か迷っている様子に見える。そんな彼を、ショーンは静かに見つめていた。


「いや、今だけじゃない。君はここに来てからずっと、ひどくうなされ続けている。……ショーン、君に何があった?」


 カイは顔を上げ、まっすぐにショーンを見る。


「最初は傷の痛みや熱にうなされていると思った。けど違う。あのうなされ方は、戦場でよく見た光景に近い。地獄を見てきた者たちの姿に重なるんだ」


 カイの真剣な眼差しが不意に揺らいだ。一度深く息を吐いて瞑目めいもくし、俯いて軽くかぶりを振る。


「いずれ聞かなきゃならないと思っていたことだ。本当はもう少し、傷がよくなってから聞こうと思っていたんだが……一人で抱え込んで心が壊れた人間を、今まで嫌というほど見てきた。このままでは、君の心が取り返しのつかないほど壊れてしまう……そんな気がしてならないんだ」


 カイが再び顔を上げショーンを見ると、少年は軽く首をかしげていた。無表情な少年の眼差しが、カイには心を失いかけたかつての戦友たちの目に見える。カイは表情をゆるめ、寂しげに微笑んだ。


「すまん。まだ出会ったばかりの素性もわからん人間に、そんな話をするのは気が引けるだろう。話したくなければ、今は話さなくていい。ただ、これだけは先に聞かせてくれ。帰る場所はあるのか?」


 カイの言葉に、ショーンはまぶたを閉じて静かに首を横に振った。ここがどこなのかも、故郷がどこにあるのかも少年にはわからない。それにあの状況では、もし帰れたとしても悲惨な光景を目にするだけだろう。


「そうか………すまん。余計なことをいた」


 言いながら、カイは立ち上がる。そしてなぐさめるように、少年のくせのない美しい銀髪を、大きな手で優しくでてくれた。その手のぬくもりが、ショーンの身体の奥底から何かを呼び起こす。


「また、少し休むといい。眠れそうか? 眠れなければ、温かいミルクでも用意――」

「あの、カイ。なんで助けてくれるの?」


 ショーンは無表情のままカイをまっすぐに見た。カイの手が止まる。


「さっき『素性のわからん人間』って言ってたけど、カイとヘレナから見れば、それは……んっ!」


 痛みに顔を歪めながら自力で起き上がろうとするショーン。カイはそんな彼を抱き起こし、枕を背に当てて座らせてくれた。


「理由が必要か? ……放っておけるわけ、ないだろう」


 カイは穏やかな口調で言う。


「猟師以外はまず行かないような山奥で、血まみれになった少年が倒れていた。軽装で、周りに仲間がいる気配もない。まだ息はあるが、放っておけば確実に死ぬ」


 カイはショーンの両肩を後ろから支えながら、静かに、穏やかに言葉を続けた。


「そんな状況で、見なかったことにして立ち去るなど、俺にはできなかった。……俺も、もうすぐ親になる予定だ。だから余計にそう思ったのかもしれないが……苦しげな君が自分の子のように思えて、生きてほしいと願った。いてもたってもいられなかった。ただ、それだけだ」


 カイの言葉がショーンの中に染みこんでくる。胸の奥があたたかい。

 カイの腕の微かな震えが肩に伝わってくる。本気で自分を思ってくれている……ショーンはそう感じていた。


「ありがとう。話す。何が起こったか。聞いて……くれる?」


 カイの思いに応えたい。気づいたらショーンはこう告げていた。

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