第38話 殺し屋さんの虫よけ事情
夏は虫が多い。
辺りが静まり返る夜になると、ただでさえ気になる虫たちの存在はより意識してしまう。
「……ねむれないです」
そんな夏の虫の代表ともいえる存在が、一人の少女を―――
耳元で羽音を鳴らし、人間の血を求めて忍び寄るモノ。
そう、
「人が寝てる間に血を吸いに来たのでしょうが、こうも回りでうろちょろされると眠るに眠れないですよ……」
彼女は殺し屋である。それも日本最強と称されるほどの。
そして殺し屋が別組織に雇われた殺し屋に狙われる事などよくあることで、寝てる間に襲われても反撃できるよう、彩芽は幼い頃から訓練を積んでいた。
そんな彼女は、寝てる間に何かが近づいてくる気配を感じると、ほとんど条件反射で意識が覚醒するようになっていたのだ。
たとえそれが、ただ血を吸いに来た蚊であってもだ。
「無視しようとしても、嫌でも目が覚めてしまいます……これは決着をつけるしか無いようですね……」
蚊取りマットをつければいいのだが、あいにく中身の薬剤を切らしていたため今は使えなかった。
だが、もはやそんな事を言っていられる場合ではない。もうそろそろ日付が変わりそうなのだ。
(明日の午後は仕事の予定がありますから早めに寝ておきたかったんですが……。蚊のせいでこんな時間まで眠れませんでした)
寝ぼけながら殺し屋稼業をしていては、攻撃の狙いが逸れたりして任務が長引く危険性がある。スピードが大事な仕事でそれは大変よくない。
「……という訳で、すみませんがご退場願いますです。……まあ虫には人間の事情なんて知った事ではないかもですが」
小声でそう呟く彩芽は、枕元に置いていた抜き身のナイフを手に取った。
枕元にナイフを常備しておくなど女子高生的には全くもってよろしくないのだが、殺し屋として生きている彩芽には当たり前の事でもあった。
そんな彼女は電灯を点けないまま、暗闇に目を凝らしてナイフを構える。
数は3匹。不規則に宙を舞っているが、ここは天井のある室内だ。3匹程度、空を飛べない彩芽でも確実に葬れる。
「すみませんですが、これも安眠の為……!」
いい加減寝たい殺し屋は、音も無く床を駆けて得物を振りかざす。
* * *
小さくすばしっこい3匹の相手に苦戦しながらもなんとか退治した彩芽は、蚊の
自分でとどめをさした蚊を埋葬するなど、傍からすればなかなかの奇行に見えるだろう。それが任務なら顔色一つ変えずに命を奪う殺し屋の行動だと知る者ならばなおさら。
だが、彩芽は自分で殺した蚊をそのままにしておくのもどうかと思って、わざわざ埋めに来ていたのだ。彼女はある意味では、全ての命を平等に見ているのだろう。
月明かりと自分の目を頼りに庭を歩く彩芽は、やがていい場所を見つけ、そこにしゃがみ込んだ。
持ってきたスコップで穴を掘り、そこに蚊の亡骸を埋める。しばし手を合わせていた彩芽は、やがて立ち上がった。
「ちょっと目が覚めちゃいました……。少し散歩でもしましょうかね」
スコップをしまって、大きな音を立てないように戸締りをする。
中三の冬まで一人暮らしだった彩芽だが、今は死神の少女エンデと
そうして、パジャマ姿のまま彩芽は夜道を歩く。
エンデが見たら、せめて簡単にでも着替えて行けと小言を言われるだろうが、人通りの少ない山のふもとを歩くのだから、と彩芽は着替えずに来ていた。
「夜はいいですね。ここは都会と違って星も見えますし」
職業柄、夜に出歩く事が多いからか、静まり返った夜道は彩芽の心に安らぎを与えてくれる。
今は夜すらも暑い夏だが、こうして風のあたる外にでると案外すずしいものだ。
「ちょっと虫が気になりますが、虫よけスプレーをかけたので大丈夫なはずです。たぶん」
そんな頼りない呟きと共に散歩をする彩芽だが、ふとその『気配』に気が付いて歩みを止めた。
そんな彩芽を見てか、聞き覚えのない声が彩芽の耳に届いた。
「やはり気づくか……さすが、日本最強と言われるだけの事はある」
そんな声が聞こえたのは、彩芽の左後ろから。ちょうど山の茂みの中からだった。
彩芽は声の主の姿を確認する事なく、パジャマの内側に忍ばせていたナイフを無言で即座に投げつけた。
「あっぶない!!いきなり殺そうとするなよ!」
せめて登場の時間くらいは与えてくれると思っていたのか、声の主は慌てたように出て来た。
真っ黒なスーツを着た若い男性だった。ナイフは避けたのか、その体に傷はない。
当然だが知り合いではない。
だが、その歩き方、その立ち振る舞いから見て、何者なのかは彩芽には一目で分かった。
「同業者、ですか……。せっかくの気持ちいい散歩が台無しです」
「こっちは仕事だからな。ついでにお前の人生も台無しにさせてもらおうか」
「はぁ……虫よけスプレーの効かない虫は面倒ですね……」
彩芽は一言そう呟くと、どこからともなく二本目のナイフを取り出す。
「フフフ……未成年の少女の身で日本最強と呼ばれるお前とは一度手合わせしたいと思ってい―――」
「ねむいのでさっさとさようならです」
彩芽は男の話を最後まで聞かず、一気に懐に潜り込んだ。
「―――ッ!?」
「よいこは寝る時間ですよ」
ありえないほどの速度で空を切るナイフは、月明かりを反射しながら男に迫った―――
* * *
「やべぇ、ゲームしてたら日ぃまたいじまった……」
ゲームのし過ぎで目が痛い、とうなる死神少女エンデは、12時を過ぎた辺りで部屋から這い出て来た。
そして水を飲もうとキッチンへ向かって歩いていた所で、玄関からそっと入って来た人影を見つけた。彩芽のものだった。
「ん、アヤメ?どっか行ってたのか?」
「眠れなかったのでちょっと散歩を」
「散歩か……って血なまぐさっ!ホント何して来たんだよおい!」
何食わぬ顔で玄関に上がる彩芽の着るパジャマには、よく見ると本来ないはずの赤い模様が付いていた。
「とりあえずシャワー入れ!血の臭いがパジャマに移るぞ!」
彩芽をシャワールームへ誘導しながら、パジャマの上着を脱がせて洗濯機に放り込むエンデ。素早い一連の動きを見ながら、眠そうな彩芽はもにょもにょと呟いた。
「人間退治は蚊より楽でしたよ、エンデさん。蚊取りマットがあって人間取りマットがないのも納得です」
「そんな報告いらねえから体流してこい!」
適度な運動をこなしたからか徐々に眠気が襲って来たらしい彩芽を、慣れた手つきで介抱するエンデ。
殺し屋と死神のとある一夜は、そんな風に過ぎていった。
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