第18話・魔将の腕

 鈴のような声音が夜闇に響く。それは短い宣言でありながら、朗々たる詠唱のよう。しかし同時にどこまでも災厄の臭いと共にある。



「重なれ我が影――」



 それは何へと訴える叫びなのか?ほとんどの者には分からないが、それでもその祈りは現実にこの世界へと侵食を開始する。人間と魔。その矛盾を否定し、遥かな高みへと合一させた。


 翠玉のようだった緑の瞳が赤へと染まる。

 表裏一体。対となる影が実体へと手を伸ばして、実相を帯び始めた。


 結果として訪れる冒涜的な光景。

 元が少女めいた華奢さであるスフェーンの腕が変貌を開始した。そう、腕である。先のサレイオスのように全体が魔神へと変わるのではなく、一部のみが変化していく。


 白魚のような指が、かつての腕と同じほどの太さに変わった。

 真白い肌が硬化し、漆黒へと染まる様は分かりやすく堕天を示す。しかし、これは墜落ではなく飛翔へと至る助走。違いは彼女が完全に魔性を乗りこなしていることのみ。

 それがどれほど恐るべきことなのか……語るまでもない。


 肥大化は止まらず、かつてこの地上を恐怖へと陥れた一角の姿が再臨する。

 かの腕こそは北を征した魔将が一柱の腕に他ならない。


 その悍ましさと同等に、勇壮な巨腕が轟音と共に地に打ち付けられた。

 背丈よりも巨大な両腕を地へと付けたその姿……少女像に腕が付いているのか? 腕に少女像が付いているのか? 判断に苦しむことだろう。


 南方に潜むという類人猿の一種のように、大地を手で踏みしめて・・・・・・・進撃を開始するのだ。

 融合体スフェーン……彼女こそは試作品にして最高傑作。

 類稀な適性をもってして魔将と完全なる融合を遂げた、新時代の人造兵器。その完成度は他の融合個体と比較するのもおこがましい。その暴威がこれからたった一人の人間へと向けられるのだ。


/


 先ほど戦ったサレイオスと同じ。何らかの方法で魔族と融合を果たし、その力を用いることのできる戦士……その戦闘能力の高さを先ほどまで体感していたクィネは敵手を侮る気はない。

 そもそもクィネには誰かを侮る気など毛頭ないのはいつも通りなのだが……特に今回は少しの油断もそぎ落とす必要があると認識していた。


 融合したと思われる魔族。腕のみのようだが、その姿を見た経験がセイフの中にも無い。

 そしてベースとなった本体であるスフェーンという名の女性……こちらも初見であることは言うまでも無いが……何より彼女に注意が必要だった。


 スフェーンは戦う存在に見えないからこそ、堕ちた剣聖は彼女を警戒している。

 華奢ながら強い……そうした英雄がいないわけではないが、スフェーンはそれらとも、かけ離れている。魔術を使うような雰囲気が無く、肌も戦う者には見えず。


 さて、どういった意外性を発揮してくれるのかとクィネは期待して止まない。


 轟音が響く。

 最初から加減なし――その言葉に偽り無く、腕を足のように使いながら魔の軍団長が迫ってきた。それも正面から、一直線に。



「はぁぁぁぁあああ!」



 気合とともに振るわれる豪腕。

 硬化した外殻が大地に打ち付けられる。響き渡る音も先ほどまでの比ではなく、まるで雷鳴のごとき音色を奏でた。これほど物騒な太鼓もそうはあるまい。


 異形の拳が地面にめり込むと、地がめくれ上がり衝撃が波のように伝播する。かつて地上を席巻した魔族の本領…身体能力の高さである。

 当たれば、どころか掠っただけで人間ならば即死するだろう一撃。


 しかし、クィネは人間でありながらもその域を踏み越えた者である。むざむざと食らうような真似はせず、回避に徹していた。

 常の彼を知るならば、その動きに違和感を覚えたことだろう。

 クィネはいつものような瀬戸際で避けるような動きではなく、派手に飛び回り大きく避けていた。



「なるほど。見たことも無い腕だ。これほどの威力もまた……」



 見たことが無い。そう続けようとした独り言を中断させるように、再びの拳。

 拳。拳。拳。拳!

 破壊の嵐のような連撃をかわしながらクィネはほくそ笑む。


 なるほど、確かに先の男とは違うらしい、と。

 先の男は中位魔神との合一を謳っていたが、この女はそれを上回る存在と一体化している。そして最も恐ろしいのは能力と技を一体化させている点にある。振り回されず、酔わず、その力を十全に発揮するのだ。

 

 クィネは今にもよだれを垂らすような凶相で、敵手に対応した。


/


 これが剣聖! これが英雄というものか!

 スフェーンは外に出さずとも、内心で凄まじい恐怖を味わっていた。


 それは先ほどまでの戦いでサレイオスが味わったモノと似てはいるが違う。不安からくる不条理に対する恐怖である。


 膂力、速度、つまりは性能という点においては剣聖はスフェーンという融合体に全く及んでいない。狩られるだけの獲物である。

 例えるならこれは猟犬と獅子の戦いだ。優れていて便利な存在であっても、単純な戦闘では獅子の一撃でケリが付く。

 だというのに、どれほど打ち込んでも当たらない。どれほど異界の腕を振るおうとも、勝利が磐石にならない。圧倒的に優れているはずのこちら側が、劣る側を前に崩れ落ちている姿しか想像できないでいた。



「だが、それでこそ―!」



 そもそも、自分を上回らなければ手駒に過ぎない。その思いと共にスフェーンは拳を振るう。

 この勝負はどちらに転ぼうとも、自分に損は無い。あの狂った価値観の前提によるもの、戦いの後に待つ結果のためである。


 しかし、その得がどれほどのモノになるかは不明だ。願わくば、ただそれだけで勝負が決まるような価値を今の敵、そして先の味方が持っていれば良い。


 当然のことながら、ただ闇雲に拳を振るうだけで勝てるなどとは思い上がってはいない。いいや、それで終わっては期待はずれ。そして、かつての剣聖は見事に期待に応えている。その伝説に違わぬ武威でいまだに健在。ならば次である。


 拳を地面に打ち付けて、楔とする。

 スフェーンは勝負に出た。

 

 ここまでスフェーンは腕による打撃のみを行ってきた。闇雲に攻めるしか能が無いと、見せ付けるために。そして、これまでの攻防から剣聖が攻撃を回避する際に、どれほどの距離を跳躍するかを測っていたのだ。


 土煙が消えるまでの僅かな、刹那にも満たないような間隙にスフェーンの蹴り・・がねじ込まれた。振り子のように、楔とした腕を傾げて距離を詰めた上で。


 ――目に見えて肥大化し、硬化した魔将の豪腕は誰が見ても凶器である。スフェーン自身にとってすらコレこそが最大の武器であるという自覚があるほどに。

 それを十分に見せ付ければ、相手には自然と侮りが現れる。

 スフェーンに対する侮りではない。腕以外の部分も強化されている、という事実を忘却してしまうのだ。


 スフェーンはできないのではなく、わざと一部分だけを変化させているに過ぎない。全ては一瞬に勝利を得るために。


 軍勢を相手にするならばともかくとして、個人を相手にするには魔将の腕は明らかに過剰である。人間など簡単に倒せるものだ。異形化していない部分でも、確実に殺せる。


 目の前に竜の顎が迫っているというのに、近くの短剣を気にすることのできる者などいない。

 腕に意識を向けさせておいてから、放たれる蹴撃は簡単な詐術のようなモノだが……勇者や英雄といった者ほど良くこの罠に嵌るのだ。


 人の間に生まれる英雄は、攻撃へと異常に特化している。魔族へと対抗するためだ。

 特に戦士型は防を回避に頼る傾向が生まれる。肉体からして別物の魔族と相対するに、堅牢な鎧であっても紙切れと大差がないのだから致し方ない。


 そこで優れた生存本能を、強力すぎる連撃で麻痺させておいて、復帰するまでの瞬きほどの時間を狙う。

 それこそがスフェーンの地味ながら必殺の動きである。


 異形化までしていなくとも、その蹴りは人間の肉程度なら切断・・してのける。

 土煙を両断していく脚。

 しかし、そこに剣聖の無残な死体は無かった。



「――これをかわす!?」

「蠍の毒針は小さいが、その恐ろしさは虎の牙と変わらぬ。当然だろう?」



 剣聖は単純に、敵を信じていた。

 きっと何らかの工夫を凝らして、自分を確実に討てる状況に持っていくだろうと。

 だから自分が無防備になるタイミングで、できるだけの回避行動……仰け反ってみただけ。恐るべきはその直感に賭けることのできる胆力。



「俺も貴方も、敵の脅威を再認識できたようだな。さて、続きと行こう。単純に泥仕合になりそうな気もするが……なに、それも楽しいぞ?」



 剣聖は相手の本質に近づいて笑った。



「同格以上の相手と戦った経験がないようで羨ましい。背筋が凍る感覚は癖になるからな」



 乱れた思い出が視界と重なり、ほんの一瞬それに浸った後でクィネは再び動き出した。

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