第五十八話 ジュノ編 ~命の灯が消える時~

 フロイドはリューザの肩から飛び降りると、血だまりの前で喉を鳴らす。ナハトはその間もゴボゴボと苦しみながら吐血を続ける。全身血塗れになるその目を覆いたくなるような悲惨な様子にリューザは、『死』がすぐ隣にまで迫っているような感覚を覚える。


 そんなことがあってはならない。ナハトは村の勇士、人望によって討伐隊を束ねるただ一人の人物なのだ。彼がいなくては何も始まらない、彼が村を導いている。


 リューザは震えながらしゃがみ込むと、小瓶を頭陀袋から手探りで取り出す。


 小瓶に入っている樹液はもう容器の半分もない。彼の傷の大きさを推定するに、恐らくこれでは不十分だ。内臓にも深く傷がついていることだろう。


「だめだ……」


 突然ナハトが声を出してリューザはハッと彼の方を見遣る。すると、彼がリューザの方へと視線を向けているのだ。意識はあるようだが、既に虫の息だ。


「ナハトさん……どうか喋らないで安静にしていて下さい! 大丈夫、直ぐに治りますから!」 


 リューザは瓶の栓を抜こうとするも、手元が震えて覚束ない。


「ゼンブの樹液……か。どんな傷痍しょういも忽ち医するという稀薬きやく……」


「そうです。ナハトさんはここで命を落としてはいけないんですよ! 討伐隊、そして村の全員があなたを心の支えにしているんです……。ナハトさんがいなくなったら一体誰が村のみんなを導くんですか!」


 必死でナハトに向けて強く訴えかけるが、ナハトはそれを否定するように首を横に軽く振る。


「どんな名薬だろうと致命傷は治せないさ……。狼目、肺を的確に突いてきたんだ。すまないな……こんな不甲斐ない……隊長で……」


「そんなこと……」


 リューザは瞼を震わせながら言葉を詰まらせる。


「村の皆には……すまないことをした……無論お前たちにもだ。俺が死んで、村の奴らは、きっと葛藤することだろう……その時は……お前があいつらの背中を押してやってくれ……。どうか……頼まれてはくれまいか……」


「はい……」


 リューザは噛みしめるように答える。彼の命の灯は吹いて消えてしまいそうなほどに弱弱しい。これは彼の遺言だ。一言一句たりとも聞き逃すことは許されない。

 すると、再びナハトは口を開いた。


「それと、最後に一つだけ……聞いてくれるか……」


 いつの間にか、森を覆っていた霧は消え去り、陽光がリューザの元へ差し込んでいた。彼はナハトの言葉に無言でうなずく。


「お前、いつか、敵であろうが……殺められない……と言っていたな……。俺もそう……だった……。犠牲を一切出さずに……皆が助かる方法を求めていた……。……俺はそれを選べなかった……村のためと言えば聞こえはいいが、そのせいで……俺は罪のない狼たちを幾多と葬ってしまった……すっかり無情なものになり下がってしまったよ……。優しさだけじゃ……救えるものも救えなくなる……が……ただの理想だけの……空理空論……ってわけでもない……。それが……人間ってもんだろ……?」


 ナハトは余力を振り絞り、口が途切れないように言葉を絶え間なく紡いでいく。明るかった彼の瞳は、その光を失っていた。激痛で意識が飛んでしまいそうなのを必死で耐えながらリューザに語り掛けているのだろう。


「だが……それを決して逃げたり……諦めたりする理由にはするな……。誇りを失っても……戦い続けて……生き残るんだ……。守りたいものがあるなら……怖気づくな……。お前は自分で思っているほど……弱い人間じゃない……」


 それは村の皆ではなく、他でもないリューザ自身に向けられた言葉だった。

 今のリューザは脆くて弱い。今しがたの激戦を見てリューザはそのことを、これまで以上に実感することになった。あの戦いに加わったところで結局は手も足も出ずに完膚なきまでに叩きのめされていたことだろう。


 自分をナハトと比べることなんてとても烏滸おこがましいことだが、リューザは彼の姿を見て自身の惨めさに打ちひしがれていた。


 だからこそ、彼に自身の弱さを否定されるのはリューザにとって、全くもって慮外なことであった。彼が何を思ってそう言ったのかリューザにはわからない。しかし、そのことを問う時間はもう残されてはいないようだった。


 嗚咽おえつを漏らしながらリューザは答える。


「勿論です……。必ず……必ず……ブレダのことを守り抜いて見せます」


 その言葉を聞いたナハトは安堵したように目を閉じた。


 その様子を見てリューザはそっと目を瞑る。死に触れることなど、フエラの村では何度も経験していたが、こんな風になんの前触れもない死を経験することなど村では一度もなかった。必ず、人の死に際して、心の準備をしたり、あるいは死後に惜別の念を抱いたり、そんなリューザにとっての『当然』がここではまるで通用しない。


 思えば、この村に来て以来、人の死を何度も目にすることとなったが、こんなに穏やかな気持ちになれたのは初めてだった。ナハトの言葉のおかげなのだろうか。もしかしたら、彼なりにリューザを狂乱に陥れないよう励まそうとしてくれていたのかもしれない。


 リューザはそっと目を開く。


 目の先にあるのは、もはやあの村を先導していた勇士ではなく魂を失ったただの器だ。しかし、血にけがれながらも、その端正なる顔は逞しく、橙色の髪は美しい。苦痛の表情の一つも浮かべていない。彼は死に際ですらも強くあろうとした、というのだろうか。


 暫くの間、リューザはその亡骸を茫然と想いを馳せるように見つめていた。





「おい! リューザ! ……そこにいるのは、ナハト……なのか……」


 顔を上げると一驚を喫したドンガが、気が抜けたように棒立ちでそこに佇んでいた。そして、気が付けば辺りには先程の閃光に気が付いてか隊の者が次々とその場に現れる。皆、倒れたナハトの姿を見て状況を確信したようで、苦悶の表情を浮かべ、時折嘆き声が聞こえる。


「ナハトさん……どうして……」


 リューザの直ぐ隣まで歩み寄ってきたクレルがその場に膝から倒れこむ。瞳には涙を浮かべ、その顔は普段の早熟した様子からは考えられないほどに幼い、まだ十歳の少年の表情だった。小さな身体を顫動せんどうさせ、悲痛の声を漏らす。


 そんな彼の顔が愛おしくなってリューザは、何も言わずにそっと抱きしめる。すると、震えは少しずつ収まっていくのを肌で感じられた。


「一度、村へ戻ろう……この状況では討伐隊の士気に関わる……」


 皆が、各々哀しみに暮れる中、ドンガは至って冷静な様子で的確に指示を出す。そう言うと彼は踵を返して村の方角へと一人歩き始める。それを追うようにして他の討伐隊のメンバーも村へと足を向ける。


 泣き崩れたクレルを背負うと、フロイドを肩に乗せてリューザも彼らの後に続いた。


 しかし、リューザにはドンガのその声に哀愁を感じられずにはいられなかったのだった。

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