7.轟く異変、静かなる
体術の講義は、実際に体を動かす訓練と、教書から学ぶ座学と2種類ある。これは戦闘科ならではであった。訓練は月、水、金曜日、座学は間の火、水、木曜が基本である。だが、訓練日が悪天候だった場合座学に急遽変わることもあった。その分、後日の座学の講義が訓練に変わったりもする。だから戦闘科生は、毎日訓練服も座学の教書も用意しておくのが基本だ。
現在1年生の訓練は走り込み、柔軟などで基礎体力の向上を図りつつ、戦闘に特化した動きを取り入れていく為に跳躍も教わっているところだ。確か7月頃から、柔術や剣道、弓道なども訓練していくらしい。
では体術の座学で何を学ぶのかといえば、
「つまり、首には弱点が集中しており――……、」
……こんな風に、物騒なことが当たり前に説かれる。
今は、人体の仕組みについて教わっているところだ。何となく初等学校の頃の保健体育を思い出す
(……うーん、こういうの、ほんと苦手……)
蒼は教書を手に唸りたい心境である。考えるよりも先に体が動くタイプだし、理論を詰め込まれても咄嗟にその知識を活かせる自信がない。もっとこう、難しい感じじゃなくて、父のように噛み砕いた説明が欲しい。
(お父さんに教えてもらうの、楽しかったなぁ)
蒼はしみじみと、父にあれこれ教え込まれた日々を思い出す。昔の蒼はもっと考えるのが苦手だったし、そうじゃなくても小さい子どもに説明するの自体、大変なことだったはずだ。今思い返してみても、父の説明が分からなくて嫌になった、という記憶がまるでなかった。
蒼が戦闘員を小さい頃から目指したがったのは、そういったこともあるのかもしれない。
「次のところから、
教師の言葉に、蒼ははっと顔を上げた。「はい」と返事をした
危ない危ない、と冷や汗をかきつつ、蒼はこそこそと教書のページをめくった。しかし、今友誼が読み上げているところがどこか見つけられない。蒼はせめて何ページかだけでも分からないだろうか、とついつい右隣に視線をさまよわせていた。
(……っていっても、
ほら、相変わらず講義とは関係ない分厚い本を開いている――と思っていた蒼は、
右隣の姫織は、何と真面目に教書を開いていたのだ。ノートも広げられていて、熱心に教師の言葉を書き込んでいるのが分かった。
(め、珍しいー……‼)
蒼は思わず、そんな姫織をまじまじと見つめてしまった。無論、それだけ堂々と顔ごと向けていれば、姫織だって視線に気が付く。ばちりと目が合い、姫織は大層機嫌悪そうな顔になった。蒼は、慌てて顔を戻す。何ページかは、とりあえず分かったし。
蒼は自分の教書でそのページを開きながら、やはりあの姫織でもこの先生は怖いのだろうか、と真面目に考える。体術の実技も座学も担当しているこの教師は、学校内で最も怖い先生だと有名だ。廊下で突如怒鳴り声が轟くことも珍しくないほどである。だがもう1人の問題児はというと、
(……今日もサボリなのね……)
空席になっている左側に目をやり、蒼は何とも言えない顔になってしまった。
思わずため息を吐いた、その時だった。
――……――――――――――――――――ッ‼
「……っ⁉」
突如湧き上がった『音』に、蒼は全身の血液が逆流しそうな感覚に襲われた。
銅鑼を耳元で叩き鳴らされたかのように響き渡る。全身に鳥肌が立つ。心臓を容赦なく鷲掴みにされたかのように、呼吸ができない。耳も、頭も、心臓も痛い。肌にびりびり痺れが走る。
「――どうした、
「……え……っ」
突如目の前に影が差し、蒼は顔を上げた。そこには、冴嶋がいた。だるまのようにぎょろりとした目と、視線が合う。
何故冴嶋がわざわざこちらにまで来たのだろう、何故これほど近い距離で目が合っているのだろう。そうぼんやりと思った蒼は、やっと自分が椅子を蹴って立ち上がってしまっていたことに気が付いた。教室中の視線が、蒼に集中している。
「……あ……」
渇いた声が、漏れた。ぐっしょりと、変な汗をかいていることに気が付く。教室を見渡し、それから、また冴嶋を見上げた。
「どうした」
冴嶋が、威圧するようにまた問いかけてきた。
『音』はまだ響いている。しかし、冴嶋の重く低く響く声に、少し、意識が引き戻されたような気がした。
――何故こんなにも容赦なく襲い来る『音』の中、みんなは平気でいられるのか。気持ち悪い違和感にめまいがするが、すぐに気が付いた。
(みんな、聞こえていないの⁉)
蒼は信じられない思いで、教室中をもう1度見渡した。自分だけが、これを感知しているというのか。
昔からそうだった。結界の中にいる微弱な邪気を捉えられるのは自分だけ。街の結界の外にいる妖が近付いてくる気配に反応するのも自分だけ。それらを感知して、楽しくてにこにこしても、怖くて泣きわめいても、周りにはわけが分からない。理解してくれたのは、
自分は他の人達より敏感らしい、というのが事実なのは頭では分かるが、蒼としては、今でもやはり実感が薄い。だからこうして直面する度に衝撃を受けるのだが、それにしても、『これ』に誰も、教師である冴嶋でさえ気付いていないなんて。
(ううん、今はそれどころじゃない……!)
『音』の方へ行かなくては。恐怖に近い念を抱きながらも、その衝動が湧き上がって、抑えられなかった。
「……すいません、ちょっと……、」
「何だ」
冴嶋はやはり、怖い。すぐ怒鳴ってくるし、怒鳴っていない時でも威圧的だ。しかしその声のお陰で今少し意識を持っていかれずに済んだ。そのことに勇気が湧いた蒼は、ままよと口を開いた。
「……お腹が痛いのでっ、トイレに行かせてくださいッ‼」
みんなに笑われながら、教室を後にする蒼を。
「……うそでしょう……」
他のクラスメイト達のように笑えないでいる人物が、確かにいた。
(……こっちの方だったはず……!)
『音』の正体を突き止めなくては。そんな衝動のままに、蒼はまだ講義中の廊下を走っていた。長く垂れた髪が、走りゆく風のままに流れていく。
冴嶋には「女がデカイ声で言うな‼」と喝を入れられたものの、教室を出ること自体は許可してくれた。案外いい人なのかもしれない。
しかし、そうしている間にあの『音』が徐々に弱まっていくのが感じられて、こうして今なりふりかまわず全力疾走している。銅鑼を鳴り響かせた後の、幾重にも重なる音の反響がだんだん小さくなっていく感じだ。
その反響している源目指して、蒼は走っていた。この校舎内じゃない。まず間違いなく外だ。蒼は焦れて、廊下の窓を開け離した。ここは3階。だが飛び降りられる。
迷うことなく窓枠へ足をかけた蒼は、校舎の外壁に沿って地面へと続く長いパイプに手をかけた。そうして2階部分まで降りて、宙に身を投げ出した。今は戦闘服ではなくて制服だが、どうせキュロットだし誰も見ていやしない。いつもなら軽やかに着地するところを、転がるような受け身の勢いのまままた走り抜ける。
『音』は更に弱くなっていた。焦燥感が、更に蒼の足を急かす。
(あぁもう、校舎が邪魔!)
まわり道をしなくてはならないではないか。学校内なのに何を言ってるんだかと李花が聞いたら呆れそうなことを考えながら、1番の近道を頭の中で割り出す。父から空間把握についても教わっていた。
その間にも、『音』はどんどん消えていく。聞こえなくなってしまう。焦る蒼の頭に、冷静な自分の声が、ふいに割り込んできた。
――でもこれ、本当に『音』なの?
その疑問に、蒼は足を止めないまま、速度を緩めないまま、頭が冴えていく感覚がした。
……確かにそうだ。銅鑼の響きを思わせる感覚に、『音』と認識していたけれど。
(……どちらかというと、『言葉』に近いような――……?)
そこまで考えた時、ふいに視界が開けた。校舎を抜けて、日なたに出たのだ。そしてそこが、蒼の目的地であった。
本当に何もない中庭だ。広々としてはいるけれど、ほとんど空き地に近い。文化祭の時期には、ここに木材などを放り込むことになるのだとか。しかし今は、地面を雑草が覆っている以外は、ほとんど何もない。
あの余韻は、もうほとんど残っていなかった。空気に溶けて、薄まっている。
「……絶対、ここが発生源だと思ったんだけどな……」
そこまで言って、もう限界だった。初めて晒されるとんでもない圧に、ここまでの全力疾走。さすがに疲れ切ってしまって、蒼がへなへなとその場に座り込もうとした、その時だった。
「っ!」
がっと腕を掴まれ、へたり込もうとしていた蒼は、その手に支えられる形になった。へっ、と間抜けな声を漏らし、腕が伸びてきた方向に無防備に顔を向けることになる。そこには、教室にはいなかった
(何で、風端君がここに?)
想定していなかった事態に、蒼は目をパチパチとさせるしかない。一鞘は何故か、切羽詰まった表情で蒼を見ている。2人はそのまま、じーっと見つめ合う形になってしまった。先に口を開いたのは一鞘の方だった。
「お前『ゴテン』か?」
「へっ?」
蒼はまたしても、間抜けな声を漏らすことしかできなかった。一鞘は、酷く真剣な顔で蒼の答えを待っている。いつも不機嫌そうにしている一鞘からは、想像できない表情だ。焦っているような、興奮しているような、緊張しているような。
「ごて……、ゴテン?」
それもあって混乱が深まり、余計にその単語を上手く変換できない。頭が疑問符だらけの蒼の様子に、一鞘は思いっきり怪訝な顔になった。
「ふざけてんのか?」
「えっ、いや、」
「わざわざこんなところまで来ておいて、まさかとぼける気なのか」
「えええ?」
問い詰めてくる鞘に、蒼の方がワケが分からない。一鞘はあのなぁ、と聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調になった。
「じゃあ、何でこんなとこまで来たんだよ。こんな講義中に、しかも今冴嶋の講義だろ」
(それは、物凄い気配がしたからで……、)
そう心の中で言い訳した蒼は、ふと気が付いて目の前の少年の顔をまじまじと見つめた。急に顔を覗き込まれた一鞘は、特に怯む様子もなく蒼の視線を受け止めている。まるで、蒼が何かを認めるのを待っているかのようだ。
……しかし蒼は、逆に一鞘に尋ねたいことができていた。
「……風端君も、気付いたの……?」
「はぁ?」
一鞘がまた、怪訝そうに眉をしかめた。しかし蒼は、それに頓着していられなかった。
「今、物凄い音が……ううん、言葉みたいなのが聞こえて、それで」
「お前何言ってんだ?」
「いやっ、だから、風端君もそれが聞こえたから、ここにいるんだよね?」
「はぁ……?」
一鞘の顔が、ますます意味が分からないと主張するものに変わっていった。しかし、蒼の表情を無遠慮に観察していた一鞘が、ふいに不機嫌さとは違うものに塗り替えられた。
「……お前……、」
キーンコーンカーンコーン――……。
一鞘が何事か言いかけたその時、講義終了を告げるチャイムの音が響き渡った。まるで一鞘の言葉を遮るように。校舎から、徐々に休み時間特有のざわめきが広がっていく。
ちっ、と一鞘が舌打ちして、蒼の腕を離してくれた。そういえば、ずっと腕を掴まれたままだった。蒼は戸惑って、一鞘を再び見上げた。
「あ、あの……?」
「……もういい」
そう言い捨てて、一鞘が蒼に背を向けた。そうやって会話を拒否されては、こちらからは何も言えない。蒼自身、何を言おうとしていたのかよく分かっていなかったし。
蒼を置いて、一鞘はどういうわけか、校舎には入らずに裏へとまわっていった。その背中を、ただ見送ることしかできない。
蒼の全身に突き刺さっていた『音』は、生徒たちのざわめきに呑まれて嘘のように消えていた。
「……ウソだろ……?」
そんなことあるのかよとつぶやく声もまた、誰に聞かれることもなく溶けていく。
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