第一章 異世界のへそで多様な文化に触れる。交易都市ウェルデン30日間の旅
1-1 長い夏休みの始まり
長い夏休みが始まった。
定期試験が終わり、安心とともに疲労がどっと溢れてきたせいか、気力というものが一切湧いてこない。気付けば眠って一日を過ごし、夏休み初日である今日はすでに陽が沈もうとしていた。
大学生というのはひどく時間を持て余す存在である。特に僕のようにサークルにも所属せず、休日に出かけるような友人もおらず、かと言って必要以上に勉学に励むわけでもない人間は、二か月以上ある長期休暇は生き地獄と言っても過言ではないほどの暇に襲われる。
もちろん全くやることがないわけではない。部屋の隅に積み重なった本たちを消化しなくてはいけないし、配信サイトで途中まで見たアニメの続きも見なくてはいけない。長い休載から復活した漫画を最初から読み直したり、話題の死にゲーも少しやったまま放置してしまっていた。
しかし、それらの娯楽はどれも必要に駆られるものではない。いざ何をしてもいいと言われてしまうと、なかなか手が出ないものなのだ。結局適度に学校へ行ったり、仕事をしたり、そういう日常があることで、娯楽という非日常を楽しむことができるのだと思う。
――とにかく何かしなくては。
御託ばかり並べていても仕方ないので、僕はとりあえず外に出かけることにした。冷蔵庫に腐っていない安全なものが何も入っていなかったので、夕飯を買いに行くことにする。
見慣れすぎて記号化した街並みを目でさらいながら、近くのコンビニへと向かう。
今のアパートは築十年ほどの可もなく不可もない八畳ワンルームだった。大学から近いという一点のみで選んだにしては、そこそこ綺麗で部屋の使い勝手もよく気に入っている。家賃は全額親に頼りきりだが、そこまで迷惑をかけるような金額じゃないのも良い。
ただ、周囲が閑静な住宅街ということもあり、近くに買い物ができるような店がないのが難点だった。最寄りのコンビニも歩いて五分ほど、スーパーなどはさらに五分歩いて駅前の商店街まで行かないとない。都心にほど近い街にしてこの不便さは微妙にストレスだった。
ということで五分ほど歩いて最寄りのコンビニまで辿り着いたのだが、雑誌コーナーで目に入ったコミック雑誌を見て、今日が好きな漫画の最新刊発売日であることを思い出す。
――夕飯は後にして、先に本屋に行くか。
そう思い直し、コンビニに入る手前で踵を返して商店街の方に向かった。
ちょうど夕飯時だからか、商店街は賑わいを見せていた。若干人酔いで気分が悪くなりながら、なるべく道の端の方を歩いていく。
新刊以外に買うものがなかったかと、スマホで自分のメモを見返した。本屋に行くと、大抵買うべきものを忘れていて、帰ってからあれも買えばよかったと後悔するのだ。ちょうどそれで買い忘れた小説があったのを思い出し、それも買おうとメモに追加しておく。
「……痛っ!」
そんな風にスマホに目を落とし、考え事に脳を割いていたせいで、目の前に現れた看板に気付かず思い切り頭をぶつけた。首から上が思い切り吹き飛ばされたような感覚があった。慌てて顔を触って取れていないことを確認する。何とか無事のようだ。
じんじんと痛む額の辺りを抑えながら、落としたスマホを拾って顔を上げる。どうやら道の端を歩きすぎていたせいで、建物から突き出していたお店の看板にぶつかったらしい。こっちは大ダメージを受けたというのに、その看板は屁でもないといった様子で依然として目の前に立ち塞がっている。
何しているんだと自分に呆れながら、痛みをこらえて先に進もうとした。ところが、何となく目をやった看板の内容に僕はもう一度足を止めてしまった。
「ITB……。どこかで見たような……」
僕はぼんやりとした記憶を掘り返し、その見覚えのあるロゴを検索にかける。そして数日前に見たあるチラシのことを思い出した。
『アルバイト緊急募集! 体験したことのない“異世界”への旅を体験できるレアバイト!』
そんなことを書かれたチラシに、確かこれと同じロゴが入っていた。ポストに入ったチラシの束に紛れ込んでいて、捨てるときに何となく目についたのだった。
今時アルバイトの募集をチラシでするというのは珍しい。中身を読むとどうやら旅行代理店のバイトという特殊な内容のようだった。事務所内での雑務に加え、実際に旅行への同行も行えるので、旅行が好きな人におすすめと書かれていた。
何より気になったのは、『時給一万円』というありえない触れ込みだった。絶対にやばいバイトだと思いながらチラシを捨てたのを思い出す。
もっと危険な香りのする店なのだろうと思っていたのだが、商店街のど真ん中に、しかも堂々と看板を出しているので少し驚いた。そして同時に、よくない好奇心が心をくすぐる。
「入ってみる、か……?」
いざ目の前にしてみると、どうしてもどんな店なのか気になってしまった。普段ならばそんな冒険をするような人間ではないので、不思議と吸い寄せられる感覚に襲われる。
看板に書かれた赤い矢印に従って、少し薄暗い階段をのぼっていく。
その先に見える赤いの鉄の扉は、昔憧れたファンタジー小説に出てくる布張りの本に似ている気がした。
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