紅の神子

第1話


 その女性の夢を見るのは幼い頃から何度もあった。


 特に奇異な夢というわけじゃない。


 ただ物心ついたときから、もしかしたらそれ以前から、同じ夢を繰り返し見ているというだけで。


 長い金髪の女性が湖に立って、こちらを見ている。


 ただそれだけの夢。


 西洋の戦装束というのだろうか。


 どうみても戦士が身に付けそうな服を着ているが、女の人だというのはすぐにわかる。


 そのくらいはっきりした美貌の持ち主だったから。


 その女性は繰り返し繰り返し透(とおる)に呼びかけてくる。


「トール。トール」


 そう繰り返し呟く。


「どうしてトールって呼ぶの? 俺は透だよ。トールじゃない。それとも俺じゃない違う人を呼んでるの?」


 呼ばれるたびに夢の中の透は律儀にそう返している。


 だが、彼女が答えてくれたことはない。


 まるで壊れた映像みたいに繰り返し「トール。トール」と囁くだけで。




 ピピピ、ピピピ。




 耳障りな音が聞こえてきて、とっさに枕元に手を伸ばす。


 カチリと音がして耳障りな音は聞こえなくなった。


 夢の光景が遠のいていく。


 涙が頬を伝っていくのを感じ、夢を忘れようと寝返りを打った。


「兄さんっ!! 起きてっ!!」


 ガバアと勢いをつけて、なにかが身体の上におぶさってきた。


「暁(あきら)。もうすこし寝かせてくれよ。まだ休みだろ?」


 こんな真似をするのはこの弟しかいない。


 透より頭もいいし運動だってできる。


 透からみれば羨ましいくらい女の子にだってモテるくせに、どうしてこの弟は透の後ばかり追いかけてくるんだか。


 13にもなってブラコン……。


 慕ってくれるのは嬉しいが、兄ちゃんはおまえの将来が心配だぞ?


 そんなことを思っているとは夢にも思っていないのか。


 暁はこんなことではメゲない。


「なに言ってるのっ!! 昨日から学校始まってるよっ!? 入学したばかりの高校で初遅刻するつもりっ!?」


「そうだったっ!!」


 その声を聞いて飛び起きた。


 忘れていた。


 学校は昨日から始まっていたんだ。


 今日から初授業で透は新入生だというのに、いきなり遅刻はできない。


 慌ててベッドから飛び下りる。


 自然、振り落とされる格好になった暁が、不満そうな眼で見ていたが気にしない。


 そんな暇はないからだ。


 透は睡眠大好き少年なので、必然的に目覚ましのアラームは、登校時間にギリギリ間に合うようにセットされている。


 すこしでも寝過ごすと遅刻の危機なのだ。


 焦って服を着替えていると、暁がポーと赤くなって見上げているのが目に入った。


「なに赤くなってるんだ、暁?」


 首を傾げて問いかける。


 暁は途端に真っ赤になった。


「ううん。兄さんってホントに綺麗だなあと思って」


「おまえさ、何度言ったらそれが男に対する褒め言葉じゃないって理解してくれるんだ? ホントに頭いいのか、おまえ?」


 なんだか呆れてしまって急ぐ気持ちが削がれた。


 パジャマを脱いでシャツに袖を通す。


 その間も暁の視線が逸らされることはなかった。


 いつものことだ。


 暁は本当に透に懐いてくれているので、着替えているときも部屋を出ていかないし、大抵赤い顔で見上げている。


 透は認めたくはないが女顔だ。


 街に私服で出ると大抵女の子に間違われる。


 酷いときなどは女の子のモデルとしてスカウトされたり、同じ男からナンパされる始末。


 こういうナリなのが悪いのだと諦めるしかない。


 暁は小さな頃から筋金入りのブラコンだ。


 透を慕うあまりに起こした数々の問題行動を思い出す。


「おまえさあ、暁」


「なに、兄さん?」


「彼女作れば? できないってわけじゃないんだろ?」


 さりげなく話題を振れば、暁は一気に不機嫌さをMAXにした。


 どうしてこの話題になると、突然、機嫌が悪くなるのかな。


「彼女なんていらないよ」


「欲しいって思わないのか、おまえ?」


「思わないよ!!」


 座り込んでいたはずが、立ち上がって反論してから、暁はハッと息を飲んだ。


「もしかして兄さんは欲しいの、彼女?」


 問いかける声が震えている。


 どうしてかなと思いながら頷いた。


「そりゃ俺だって健康な高校生男子だからな。可愛い彼女は欲しいよ」


「兄さんには彼女なんていらないよ!!」


「なんでおまえが決めつけるんだよ?」


 着替え終わって軽く額を小突く。


 暁は顔を赤くした。


「でも、兄さんは女の子にはモテないでしょ?」


「だれのせいだよ?」


 思わず恨みがましい声になった。


 確かに透は女の子にモテるタイプじゃない。


 下手をすれば百合カップルにみられかねないからだ。


 女の子同士みたいな友情は向けられても、恋愛感情を向けられることはない。


 たまにそうなりそうな娘がいても、透が家に連れてきたりするとアウト。


 普段は八方美人とまで言いたくなるほど、だれにでも愛想がいいはずの暁が、透が女の子を連れてくると、途端に意地悪大魔王に変身するからだ。


 暁に苛め抜かれて大抵の娘は逃げ出してしまう。


 悲しいことに女の子に限った反応ではないのが困りものだ。


 男友達を連れてきても、同じ反応をみせるのである。


 お陰で透は小学校を卒業する頃には、家には男も女も連れ込まなくなった。


 どう考えても透の彼女作りを遠ざけている原因は暁である。


 そこまで執着されれば、普通、兄弟関係もおかしくなりそうだが、透と暁は仲の良い兄弟のままだった。


 少しは遠慮があったかもしれない。


 暁はこの水無瀬家の実子だが、透はそうじゃない。


 1歳のときに施設からもらわれてきた養子だ。


 当時この水無瀬家には子供がいなくて、長いあいだ子供に恵まれなかった両親は、相談して孤児院から子供を引き取ることにした。


 最初は赤ん坊を望んでいたらしいが、赤ん坊を望む親は予想以上に多く困難。


 そんなとき孤児院で遊んでいる透を見かけて一目惚れしたのだと両親は話す。


 孤児院で遊んでいる姿を一目みて、あの子を引き取りたいととっさにふたり揃って思ったのだと。


 あれこそが運命の出逢いだと、ふたりは口を揃える。


 1年後ふたりには待望の子供が生まれたが、透に対する愛情が目減りすることはなかった。


 以来、透は実子の暁とも変わらぬ待遇で子供として愛されている。


 だから、暁に対しても遠慮があったかもしれない。


 暁がどんなワガママを言っても透が怒らないのは……。


 ここまで考えて「ま。考えすぎか」と透は結論を出した。


 透は根っからのポジティブ思考で、こういう考え方が長続きしたことがない。


 透が孤児院育ちだと周囲は知らない。


 別に言い触らしたりしないが、隠しているわけでもないのに、周囲の友達はだれひとり気づかない。


 そのくらい透には暗さを感じさせる要素がなかった。


 両親に愛されて育った明るい子供にしか見えない。


『なんとかなる』


 それが透の思考の中心にある。


 暗くネガティブに考えるのは透の趣味じゃない。


 暁が可愛い。


 それでいいじゃないかと透は結論付けた。


「兄さん、怒ってた?」


 暁がおそるおそる言ってくる。


 これだからこの弟は嫌えないと透は苦笑した。


「怒ってないよ。それより暁も支度しないと遅れるよ」


「はーい」


 答えて暁が部屋から出ていく。


 クローゼットの姿見を透は振り向いた。


 その眼には涙の跡がある。


 暁は気付いただろうか。


 透があの夢を見ていたことを。


「さ。急ごう」


 それだけを呟いて透はクローゼットを閉めた。

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