第37話

 部屋に、カチカチとマウスのクリック音が響く。大きなヘッドホンをつけた詩音くんの視線の先のディスプレイでは、次々と青白い顔をしたゾンビたちが倒れていくのが見えた。それも、尋常ではない量。きっと、ゲームも後半に差し掛かっているのだろう。さっきまでは上機嫌に緩んでいた詩音くんの口元は、固く結ばれていた。なのに。

 ディスプレイを見つめていた彼の瞳が、一瞬僕へ向いた。


「なしたん」


 声が届かないことは分かっているのに、つい声をかける。もちろん、彼からの反応はなくすぐにその紫色の瞳はゾンビの方へ向き直った。

 はぁ。ため息が一つ漏れる。あんなに人の失恋を喜んでおいて、詩音くんが僕に構ってくれるわけでもないのか。

 てっきり、少しは妬いてくれたのかと思ったけれど。彼の場合は少し違う。ただの、友達への独占欲なのかもしれない。仲のいい友達が他の人と楽しそうにしていたら、少しモヤモヤするようなあれだ。もちろん、だからといって今更文句はないけれど。


 今朝、枕元におきっぱなしにした指輪を手に取る。相変わらず詩音くんの趣味が全開なそのデザインが愛おしくて、僕はそれを強く握りこんだ。


「可愛い」


 詩音くんがふと呟いた。視線を向けると、いつの間にかヘッドホンを外した詩音くんと視線が合った。

 詩音くんの手元には、珍しく弱いお酒が一つ。ツンと美味しそうなレモンの香りを漂わせるそれを気に飲み干した彼は、少し赤らんだ頬を緩めて肘置きに頬杖をついた。


「それ、わざとおいてったでしょ」


 詩音くんが僕の握りこんだ拳に指を指す。


「そら、つけていかれへんやろ」


 僕は握りこんだ拳を開き、少し暖かくなった指輪を右手の薬指へ通しながら笑った。


「浮気者」


 詩音くんは僕をそう非難したけれど、その表情はとても穏やかだった。

 詩音くんだって、と。そう言い返そうとしたとき、彼の背後のディスプレイの画面が切り替わる。ヘッドホンから少しだけ溢れる音で彼も気づいたのだろう。瞬時にディスプレイへ向き直った詩音くんは、僕を横目に見てかぼそっとと小さく呟きヘッドホンをつけなおした。


「ごめんね、一か月も経ったら構えると思うから」


 大方、ゲームの中でオンラインイベントかなにかでもやっているのだろう。でも。別に、そんなことは期待していない。彼にゲームをやめてほしいわけじゃないし。僕はただ、僕を見てほしかっただけだ。


「はいはい」


 再びゲームの世界へ没頭する彼を尻目に、適当に返事をして僕は部屋を後にした。






 廊下を少し歩いて、とある扉の前に立ち止まる。普段ならノックをしてドアノブを捻るところだが、きっとあいつなら。そう思って僕は、ノックもなしにそのまま扉を引いた。


「あれ、楓じゃん」


 ベッドで寝転んでいた彼が、赤茶の髪を揺らして勢いよく振り返る。しかし。その隣には想定外のもう一人の姿があった。


「なに、詩音くんに怒られて逃げてきたの?」


 ひなたのとなりでのっそりと体を起こした一茶が、冷たい声を僕に投げる。やっぱり、勘違いされている。僕はわざとハッと笑って指輪を摩った。


「あほか。あんなんで怒られるんなら初めからあんなことしてへんよ」


 言っていて、胸が締め付けられるような感覚が苦しい。それでも、今笑顔を崩したら泣いてしまいそうだ。だから僕はまるで何も気にしていない風にテーブルの前に腰を降ろした。


「詩音くんは優しいから、お前相手に怒れないだけだろ」と一茶は眉をひそめる。

「ちゃうよ」と僕は彼の言葉を真っ向から否定した。


 はぁ、と大きなため息が部屋へ響く。ひなたが怒れる一茶の背中を擦って「まぁまぁ」と甘い声で宥めると、再び彼の口から力なくため息が漏れた。

 ふと、随分前の詩音くんと一茶の喧嘩を思い出す。ひなたがいなかったら、今度は僕が一茶に胸倉を掴まれる番だったかもしれない。思わず肩を竦めて一茶の顔を盗み見ると、彼は呆れたように眉を下げてふっと笑った。


「別に、楓に手上げたりはしねぇよ。ぶっ飛ばしてやりてぇのは心の中でとどめておくから」


 再び、ヒュンと心臓が跳ねあがる。全然安心できないどころか、余計に一茶が怖くなった。しかし、ひなたは勇気があるのかただの阿呆なのか、そんな恐ろしいことを言う一茶の肩へ頭を乗せて甘えるようにすり寄って髪を指で摘まみ上げて引っ張った。

 そんなひなたへ向き直った一茶の瞳は、案外見開いたら普通サイズなんだなぁ、と思う程度には丸まっていた。


「楓は悪くないよ」とひなたは言った。

「んなわけねぇだろ」と一茶がすぐに鋭い瞳に戻る。

「ほんとだって」


 ひなたは口を尖らせて一茶の肩を離れると、「ね?」と首を傾げて僕へ同意を求める。その普段は決してしないあざとい仕草に、案外こいつも策士だなぁと妙に感心しながら彼の言葉を首肯した。


「うん。詩音くんが本気で僕のこと好きやったら、こんなことしぃひんもん」

「好きだろ、お前のこと」


 一茶は、僕の手元に視線を向けて反論する。なるほど、と思う。僕は指にはめた指輪を外し、彼に見えやすいように掲げた。


「フェイクやねん、これ。一茶があまりに詩音くん怒るから。だから、こうしたら一茶もさすがに信じるやろ?」


 ひなたが、僕の言葉を聞いてなんとも言えない悲痛な表情を見せる。それがなんだか申し訳なくて、つい撫でてやりたくなった。しかし。その役割を担うはずの一茶は対照的に、ひなたには目もくれずにむっと眉間に皺を寄せた。


「詩音くんはそこまで酷いやつじゃねぇよ」


 ついこの間まであんなに喧嘩していたくせに、と思う。ふざけるなって。楓を傷つけるなって。なのに。一茶はもう、僕の味方になってはくれなかった。


「お前さぁ」


 一茶がベッドを降りて、僕に詰め寄る。僕は思わず大切な指輪を引っ込めて身構えた。彼は僕の隣で腕を組んで僕を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。


「少し卑屈すぎるんじゃねぇの? もっと自信持てよ」


 自信なんて。そんなの、言われなくても持っている。でも。ひなたがそれにはこくんと首を縦に振るものだから、思わず口を噤んだ。

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