第7話

「隠しててごめん。俺たち、付き合ってるんだ」


 彼の言葉に、リビングが静まり返った。ひなたのしゃくりあげて泣く音だけが小さく響き渡る。

 きっと、喜ぶべき場面なのだろう。それでも僕はただ黙って俯いていた。詩音くんの顔を見るのが怖かった。ソファがギシっと音を立てる。振り向くとそこには、ガラス片が散らばる中に詩音くんが立っていた。


「そう、だったんだ。そうなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」


 彼は首を傾け、ふっと髪を揺らした。笑ったのだろうか。僕からでは表情は見えなかった。

 でも、その震えた声は彼の感情の全てを物語っていた。

 彼はそのまま部屋へと姿を消した。幸い、ガラスが刺さることはなかったようで血痕が増えることはなかったけれど、彼はそれよりも大きい痕を残していった。

 僕の隣を通り過ぎる時、彼は僕から顔を隠すように小さく俯いた。


 僕はその痕を、見過ごすことはできなかった。


「なんで」と僕は抱き合う彼らを鋭く睨む。

「もっと早く言ってたら、詩音くんはあそこまで傷つかなくても済んだのに」


 ひなたは僕の視線に気が付くとびくっと肩を震わせて、怯えるように一茶の後ろへ身を隠した。彼の後ろで不規則に揺れる赤茶の髪が腹立たしい。もとはと言えば、全部全部彼のせいだった。


「ひなた、詩音くんに好かれとるのわかってたやろ。なんで言わんかってん」

「っ……だって、えっと……」


 彼は震えた、消え入りそうな声で言葉を探す。強く一茶の袖を握る様子からは、今までもそうやって甘えてきたんだろうと容易に想像ができる。一茶はそんな彼に袖を離させたかと思えば、ぎゅっと強く彼の手を握った。


「ひなたんは悪くない。悪いのは俺だから」


 彼の声にはやっぱり芯があって、堂々としていた。俺が悪いと、そう言って庇うのが正義だとでもいうのだろうか。それがひなたのためとでもいうのだろうか。


「だって、もっとちゃんとひなたがわかりやすく拒んでれば詩音くんだってここまで好きには……」

「やめろ」と一茶は口を挟んだ。

「お前のこと、一番に考えてるのはいつもひなたんだっただろ」


 彼は強い口調のわりに、どこか悲しそうだった。彼の深い緑色の瞳が揺れる。ひなたはそれを心配してか、少し背伸びをして彼の顔を覗き込んだ。彼は顔を逸らすように彼に背を向けて、後ろ手に頭をポンポンした。


 ひなたは明らかに寂しそうな顔をしたが、彼が何かを小さく言いつけると大きく頷き、その場に座り込んだ。僕が言ったって何も言うことを聞かないで怪我までしたのに、一茶なら聞くんだ、と考える。

 一茶はリビングを出ようとして扉の前まで行ってから歩みを止めると、くるっとこっちへ振り返った。彼は泣いていた。


「体調悪い中ごめんな。ひなたんの足の処置と片付け終わったら全部話すから。部屋行って寝てて」


 僕は扉が閉まるのをただ見守った。

 一生懸命に笑顔を作る様子がなんとも痛々しかった。


 僕は馬鹿だった。

 涙を見なくちゃわからなかった。彼らもきっと彼らなりの事情があって。そんななかでも一茶は特に自分に気を遣ってくれていたのに。

 涙が溢れて止まらなくなる。三角に立てた膝に顔を埋める。真っ暗な世界に、ひなたの鼻を啜る音が響いていた。


 自分が泣かせていた。詩音くんも、ひなたも、一茶も。悪いのは僕だ。


 なのに。


 ふいに、隣から「よいしょ」と涙声で言葉が聞こえる。彼は隣に胡坐をかくと、サラサラの髪をふわふわ揺らして笑った。


「バレちゃった」


 彼はいつもと変わらぬ屈託のない笑顔を浮かべた。しかし溢れる涙は止まらなくて、悔しそうに袖で目を擦るのが印象的だった。

 改めて思う。僕が彼に敵うはずもないと。


「すまん。八つ当たりした」


 僕は再び膝へ顔を埋める。彼はどんな顔をしていたかはわからないけれど、優しく僕の背中を撫でた。


「俺も後悔してるよ。もっと早く詩音くんにちゃんと伝えてれば、楓はこんなに傷つかなかったよね。一茶も傷つけちゃったし。何やってんだろうね、俺」


 まるで独り言のようだった。時々上擦る声が心配で、僕は顔を上げる。

 彼は笑っていなかった。そのくせ子供のように泣きじゃくって悲劇を嘆くでもなく。その大きな瞳は真っすぐ、閉じた扉を見つめていた。表情が分からなかった。彼のこんな顔、僕は初めて見た。

 僕はついその横顔に目を奪われた。きれいだと思った。


 長い睫毛が下りた。次に瞳が姿を現した時、その瞳は僕を見ていた。


「俺、楓のこと大好きだよ。でも、楓は楓のこと好きじゃないみたいだったから心配になっちゃって」


 彼は笑顔を作ることすらせずに言った。彼の見たこともない大人びた表情は年相応で、とても普段の無邪気な彼とは重ならない。

 しかし、彼は急に記憶の中のひなたと重なるよう幼く表情を緩め、拗ねたように口を尖らせた。


「でもね、楓も楓なんだよ。最近全然家にいないし、ずっと疲れた顔してるし。大切な話なんてできる雰囲気じゃなかったもん」


 彼はそう言って組んでいた足を伸ばして忙しなくつま先をパタパタ動かした。彼のその様子に僕はどこか安心する。まるで、おいて行かれたようだったから。僕はそんな言い訳をする彼の肩へこぶしを当てて、軽く押し彼のバランスを崩す。ひなたは慌てて床へ手を突くと、全く加減なく同じように僕をこぶしで押し返した。わかりきっていた反応に僕はどこか安心を見つけていた。


 怒りの熱が冷めると、今度は他のことが気になってくる。

 全部話すと言った一茶の話は気になるし、かといって割れたガラスを放置しておくわけにもいかない。きっと明日にはまたひなたや詩音くんが踏んで怪我をするのは目に見えている。

 しかし、のんびり掃除して、ひなたの足の処置もして、なんてやっていたら日が暮れてしまう。今この間も詩音くんはきっと、部屋で一人で泣いているのだろう。僕はいてもたってもいられなくて重い腰を上げた。ひなたは首を傾げて僕を見上げた。


「やっぱりまだ体調悪い?俺部屋ついて行く?」

「ガラス片づけるだけやで。またひなたすぐ踏みそうやし」


 僕が少し意地悪を言うと、彼はやっぱり不服そうに「踏まないって」と年甲斐もなくふいと顔を背けた。このくらい、ガキくさいほうがひなたには似合っていると思う。

 ポンと彼の柔らかい髪の毛へ手を置くが、彼は無視を決め込んだようで微動だにしない。しかし、彼の耳はほんのりと赤く染まっていた。






 ガラス片を吸い込む掃除機がカラカラと音を立てる。スリッパなんて便利なものは家にはなかったが、靴下を履いていると足にガラスが刺さることもなく目に見えるものは全て処理できた。とはいえ、しばらくはここら辺を歩くときには注意した方がいいだろう。特に詩音くんとひなたにはきつく言っておこう。


 掃除している間、一茶は寝ていていいと何度も言ったが僕はそれをかわし続けた。部屋から戻ってきた一茶には既に涙の痕すら見当たらなかったが、それでも彼の泣き顔が頭から離れてはくれなかった。

 こんなくだらないことで罪滅ぼしをしようだなんて毛頭思ってはいない。けれど、黙っているのは僕自身が自分を許してはやれなかった。


 そうして掃除機の中のガラスも処理できた頃、気が付けばひなたの足の処置は終わっていて、カーペットへついた血痕もきれいさっぱり消え去っていた。


「楓、そこ座ってて。ココアでも入れるから」


 彼は仕事が終わって一息つく僕を見て、そう言ってキッチンへと消えた。ひなたも、言いつけられたように大人しくテーブルの前に正座して強くこぶしを握っている。一瞬、一茶を手伝いにキッチンへ行こうかとも思ったがひなたのそんな様を見せられると逆に不躾な気がして、僕は彼の向かいに腰を下ろした。

 ひなたは珍しく、僕に絡みに来ることもなくただ俯いている。僕もなんとなく元気に話す気分でもなくて意味もなくもみあげを弄ったり、音も発していないスマホを何度も確認したり。結局何だか気まずくて立てた膝に顔を埋めた。


 そうしていると、一茶はやっとココアを三つお盆にのせてキッチンから戻ってくる。彼はココアをテーブルに音もなく丁寧に並べると、迷いなくひなたの隣に腰を下ろして胡坐をかいた。

 一茶の深緑の瞳が僕を捉える。その鋭い瞳は一見怖く見えるけれど、彼はすぐにきりっとした眉を下げ項垂れるように頭を下げた。


「ごめんなさい」


 彼に続いて、慌ててひなたもカクンとぎこちなく頭を下げる。

 僕は別に、彼らに謝らせたいわけではない。僕は目の前に出されたココアを片手に、沈殿したものを溶かすようにくるくると中の液体をまわしながら言う。


「ええねん、謝んなや。余計惨めやわ」


 僕が笑うと二人とも頭を上げるが、何故かまっすぐ僕を見ようとはしなかった。まるで腫れもの扱いだ、と僕は思う。


「いきなり取り乱してすまんかった。ちょっと……八つ当たりしてもうた」


 僕は彼らに浅く頭を下げる。ひなたは慌てたようにぶんぶんと両手を振るが、一茶は少し締まった表情を緩めた。


「八つ当たりしてくれたんだ。それなら俺は嬉しいけどね」


 彼は少し安心した様にマグカップを片手で持ち上げココアを一口口へ含む。大好きな甘い味に満足したのか彼は満面の笑みを浮かべて「うまっ」といつもの調子で呟いた。

 そんな調子の戻った一茶を見てひなたも安心したのだろう。緊張した様に結ばれていた口元を緩めるとゆっくりとマグカップに手を伸ばす。しかし、それへ触れた瞬間「あちっ」と素早く手を引っ込めた。


「ひなたん、熱いよ」


 一茶はふっと笑って、一足遅く彼へ注意を喚起する。ひなたは「遅いよ」と文句を言いながらも今度はパーカーの袖を伸ばしてから、それ越しに両手でマグカップを持ち上げた。ふーふーと息を吹き付けるとココアが波打つ。

 僕もまた、それをみてまわしていたココアを口にした。それは程よく暖かくて美味しかった。僕には少し甘すぎるけれど。

 一茶は顔を上げると、僕をしっかり見据えた。


「じゃあ、楓。全部話すよ、俺たちのこと」


 ひなたが動きを止め、再び顔を伏せる。一茶はひなたの頭をぽんぽんと叩いた。


「俺がこいつと付き合いだしたのは、去年みんなでクリスマスパーティーした後。12月24日。いや、24時回ってたから25日か」

 

 彼はそう言って嬉しそうに目を細める。

 そんなに前からか、と僕は絶句した。それなら尚更、話す機会なんていくらでもあっただろうに。ついカップを握る手に力が入る。彼はそれを見て、すぐにハッとしてまた口を開いた。


「そ、それでさ……お前らにも話そうと思ったんだけどさ、その……」

 

 一茶が口ごもって目を泳がせる。話すと言ったのに今更、往生際が悪いと思いつい彼へ送る視線に熱がこもる。それでも尚口を開かない彼の代わりに口を開こうとしたとき、ふとひなたが顔を上げた。


「俺が言ったんだ、ちょっと待ってほしいって。理由はちょっと、言いたくないけど……とにかく、悪いのは俺だから。俺がごねてる間に詩音くんが俺のこと好きになって、余計に言えなくなっちゃった。ごめんなさい」


 彼は、威勢よく顔を上げたと思ったがすぐにしおらしくしょぼんと項垂れて両手で持ったココアを見つめながらぼそぼそと話す。ずるいと思う。こんな風に言われたら、責めようにも責められない。直前に、彼らの涙を見せられているから尚更だ。僕はぐっと奥歯を噛みしめた。


「ごめん」と一茶は声を震わせる。「俺が全部悪いんだよ……無理にひなたに言い寄ったから……ひなたを守る覚悟はあったのに、お前と詩音くんを傷つける覚悟なんてなくて……こうなるって、思わなかった。お前らのこと、全然見えてなかった……」


 深緑の瞳が零した水滴が落ちた。彼は袖を捲り、手が震えるほど強く力を入れて腕へ爪を立てる。隣のひなたはそれを止めることなく、両手で強く自分の服の裾を握り唇を噛んだ。

 止めてやりたいと思う。けれど、僕にはそれはできなかった。


「僕はええねん……でも、詩音くんが……」


 上手く声が出なかった。

 詩音くんは確かにひなたにひどいことをした。それでもそれとこれとは別で、責められずとも簡単に許してやることも難しかった。

 一茶が不意に身を乗り出して爪痕のついた手を伸ばし、僕の服の袖を握った。彼は俯いていて表情はわからない。けれど、テーブルにできていくいくつもの小さな水たまりが彼の感情を物語っていた

 彼はしばしの沈黙の後、小さく声を絞り出した。


「詩音くんを、支えてやってくれないかな……」


 それはむしろ、僕が望んでいたことだった。詩音くんを支えて、慰めてやりたかった。でも、と僕は思う。


「それは、僕には無理やで。詩音くんは僕からの支えなんて望んでへんもん」


 僕が首を振り自嘲気味に笑みを浮かべると、一茶は素早く顔を上げた。その表情は普段から目つきが悪いから、なんてことでは片づけられない程大きな怒りを感じた。


「そういうのやめろ。俺が今言っても説得力なんてないかもしれねぇけどさ、俺らはお前が思ってる以上にお前のこと大切に思ってるんだよ。ひなたも詩音くんも、最近のお前のことずっと心配してたんだぞ。気持ちは、わかるけど……」

「わからへんやん」と僕はつい話に口を挟む。「俺の気持ちなんて……目の前で詩音くんが嬉しそうにひなたに絡むん見せつけられる気持ちなんて、わかるはずないやん……」


 声が上ずった。感情的にならないように頑張っていたのに、ついまた目の前が涙でぼやける。しかし、一茶は腕で自分の涙を拭うと身を乗り出したまま僕を真っすぐに見つめた。


「俺はわかるよ。楓のことなら全部わかる。詩音くんのことだって、ひなたのことだって、全部」


 あくまでもひなたが一番のくせに何を、と思う。ひなたはそんな一茶の言葉を聞き、気まずそうにただ床を眺めていた。

 それでもその瞳はやけに真剣で、言葉を返す気にはなれなかった。返しても、彼が一歩も引かないのもわかっていた。


「わぁったよ。詩音くんを慰めてやればええんやろ」と僕はため息をつく。

「お前が嫌なら無理強いはしない。でも、詩音くんを救えるのはお前しかいないから。だから、お願いしたい……ごめんなさい」


 彼は気まずそうに目を伏せた。僕は、再び大きく息を吐いてから少し冷めたココアを飲み干し、音を立ててカップをテーブルへ置く。僕が腰を上げると、ひなたも一茶も同時に僕を見上げる。


「今度なんか奢れよ」


 僕が無理に笑みを作ると、一茶はふわりと微笑み頷いた。ひなたはやっぱり、ずっとどこか気まずそうに目を逸らした。


 強欲だと思う。ひなたを大切にしなくちゃいけないのにそれでいて僕も大切だといい、更には詩音くんのことまで大切にしようとするなんて。全員のことをわかっているなんていっているけれど、例え一茶であろうとそんなことがるはずもない。

 けれど、彼は本当にそうありたいのだろう。そういう仲間想いで、そして少し頑固な面が僕は嫌いではない。だから。

 仕方がないから手を貸してやろう、と僕は思う。そしてこれは、僕がひなたをしっかりと見ていなかったために起こった事件への罪滅ぼしでもある。






 リビングを出ると、廊下には詩音くんの鼻を啜る音が響いている。壁の薄さを気にしたことはなかったが、隠れて泣くこともできないのかと思うと不便さを感じた。

 これを聞いたのなら、確かにあそこまでしてでも僕に慰めの依頼をする一茶の気持ちにも頷ける。ふぅ、と息を吐いてから僕は彼の部屋の扉を叩いた。

 もちろん、返事はなかった。それもわかっていた。だから、僕は構わずにその部屋の扉を開ける。


「何しに来たの」


 彼は振り向くこともなく、お高そうなゲーミングチェアに丸くなって座ったまま低く声を上げた。僕はそんな彼の椅子の上から覗き込んで、そっと後ろから抱きしめた。彼が慌てて上を見ると、至近距離で目が合った。彼は慌てて涙で濡れた顔を逸らしてぽつりと呟く。


「一茶かと思った」

「一茶の方がよかった?」


 彼は首を横に振る。僕はそんな彼の頭を撫でてやる。出会ってから十数年、初めての体験だった。彼の髪の毛は少し硬かった。


「楓くんだって怒ってたくせに」

「それは、詩音くんが悪いもん」


 僕はふっと笑って言う。ひなたを襲った点に関しては擁護するつもりはない。しかし、それは彼にとって期待外れな回答だったようでひくっと嗚咽が聞こえてくる。


「俺のこと責めに来たの」

「ちゃうって」

「違わない。俺が悪いんだから、違うわけないじゃん」


 彼は椅子から降りると、僕のことを睨みつけた。


「出てって」

「無理」

「出てけよ!!」


 彼はいきなりそう声を荒らげ僕の腕を掴む。しかし、ハッと目を丸めるとすぐさまそれを引っ込め強く握り、大粒の涙を零した。


「ほんとに、もうやめて。楓くんにまで俺、手出したくない。一人にして……」


 彼もまた、ひなたと同じで素直な人だった。嫌いな人がいればすぐに顔にでるけれど、同様に好きな人にもまたわかりやすく愛情を表現するタイプだった。そうやって良くも悪くも本能に従って生きるところは、僕のあこがれだった。そんな人に、友達とはいえ大切にしてもらえるのはとても嬉しくて、いつしか好きになっていた。

 そう。僕は彼の、こういうところに惹かれたんだった。


 僕は、そんな彼を強く抱きしめた。


「僕は、詩音くんのことが好きやで。だから、大丈夫」


 それでも彼はいかにも不快そうに眉を顰めて、僕の肩を強く押し返した。離さないように粘ったけれど僕では詩音くんには勝てなくて、次の瞬間にはバランスを崩して床へ尻もちをつく。カーペットのおかげもあり痛くはなかった。むしろ、彼のその表情の方が心が痛かった。

 彼は深く傷ついた顔で僕を見ると、一歩後ずさる。背後にあったデスクに彼が手を突くと、緑色のキーボードがガシャっと大きな音を立てた。しかし、かなり値の張ったはずのそれに目も向けないで彼は叫んだ。


「嘘つくな……! ひなたの味方したくせに! 見損なったって言ったくせに! 出てけよ!」


 何を勘違いしているんだ、と思う。別に僕は、詩音くんを全肯定するマシーンではない。彼がやったことは悪いことだし、仕方がなかったで許されるべきことでもない。しかし。僕はゆっくりと立ち上がり、彼の元へ向かう。

 彼の行いがよくなかったのなら、謝ればいい。反省して、もうしなければいい。間違えを犯さない人間なんて、この世にはいないのだから。


「僕は本気やで。ずっと詩音くんがひなたを追いかけてんの見てて、苦しかった。ずっと好きやった。詩音くんがこっち見てくれるんなら、僕ひなたの代わりにだってなる」


 再び強く詩音くんを抱きしめる。今度は押し返されることもなかった。こんな場面であれど、大好きな彼に拒まれずにこんなことができてしまうのは夢みたいで、幸せだった。彼は、僕の背中に手をまわしてくれた。

 彼はとっても、暖かかった。


「なれるの、ひなたの代わりに」

 と彼は問う。


「詩音くんのためならなんだって出来る」

 と僕は彼の瞳を見つめた。


 彼の瞳の紫色が揺れた。いける。そう確信した。


「詩音くん、付き合ってください」


 しばしの沈黙が横たわる。

 しかし、次の瞬間彼は僕の後頭部へ手を当て強く引き寄せた。

 彼の唇は柔らかかった。ドキドキと高鳴る心臓が口から飛び出てくるんではないかと心配したが、彼は僕の頭を離さなかった。

 差し込まれた舌は遠慮なく僕の舌を絡めとった。

 力が抜けていく僕を、彼は強く抱きしめ支えてくれる。僕はこの瞬間のために、今まで頑張ってきたんだと、本気でそう思った。だから僕は、息が苦しくなっても決して離れなかった。口が離れたのは、僕が苦しくなった十数秒後だった。

 口が離れると、お互いの口をつなぐ銀の糸がプツンと切れた。頭がぼーっとして、思考が追い付かない。彼はそんな僕をの肩へ顔を埋め、小さく呟いた。


「好きだよ」


 それでも僕は、幸せだった。

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