第六話「こおりがし」③

しばらく歩いて行くと、小さく見えていた小屋が大きく見えてくる。歩いている最中は終始無言だったので胃がキリキリとなりそうだった。流石に依頼者に会う前にこの雰囲気をどうにかした方が良いよなぁ、と考えて思いついた言葉を口に出してみた。


「左寺さん、いつもと違ったよね」


「……しばらくは、あの人に近付かない方がいいかも」


「え? でも火糸糸ちゃん、嬉しそうにしてたじゃん」


「うん、最初はね。でも、あの目はおかしいよ。絶対に」


そっか、と曖昧に反応をしてしまった。確かに彼女の目は私ではない誰かを見ていた。まさに、彼女が許せないと思っている人を見ているかのように。あの目で見つめられたら人は動けなくなると言うことを知った。今まで楽しく話をしていた火糸糸ちゃんが感じ取ったくらい、彼女は、左寺さんはおかしくなっている。


「ほら、着いたよ。どうする? 自分でノックする?」


「……うん」


話している間に現れたドア。洋風の作りになっているようで、お伽話に出て来そうな木の家。風が私とドアの間にふわりと流れ、花の匂いによって緊張が少し軽くなる。大丈夫、大丈夫。今の私は独りじゃないのだから。


コンコンコン、と三回ノックする。木で出来ているであろうドアは良い音がした。すると、中から「はーい」と男性の声が。これが依頼者の、叔父さんの声かどうかは分からない。生きている間では数回しか会ったことがないのだ。


「す、すみません。遠野遣人さんの依頼を遂行しに参りました」


震えるけれど、ドアの向こうに聞こえるように声を張る。しかし、先程聞こえた声は反応しなくなった。もしかして、場所を間違えた?それとも、居留守を使っている?向こうは自分が『綴野つづるのあい』だと分かって様子を見ているのだろうか。嫌な事ばかりが頭の中を駆け巡っていると、ゴンッと鈍い音が中からした。


「え。今、凄い音しなかった?」


「した、ね……」


ドタドタと聞こえてくる室内の音は恐らく本人で間違いないのだろう。私が考えていた様子ではないだろうと思い少しホッとする。一瞬騒がしくなったのだが、すぐに静けさが戻った。なかなか開かないドアを見つめる事数分、かちゃりとドアがゆっくりと開いた。


「愛ちゃん、かい?」


「……はい」


少し開いたドアから聞こえたのは、微かに緊張しているのが伝わってくる声。懐かしい名前を呼ばれたと同時に、自分の名前が大嫌いだったことを思い出す。私が返事をすると、ギィっと音を立てて開くドアの先に私より十センチほど高い男性が立っていた。あぁ、思い出した。確かに彼は叔父さんだ。親戚中でたらい回しにされた私に唯一優しく声をかけてくれた人。


「久しぶり、だね。あ、暑いだろうから中へどうぞ」


「はーい。お邪魔しまーす」


「ちょ、火糸糸ちゃん!」


目をあちこちに向けている彼は私と目を合わせようか悩んでいるようだ。彼なりに気を使ってくれたのだろうが、そんな親切を踏みにじるようにしてズカズカと中へ入って行く火糸糸ちゃん、いつも彼女はマイペースだが、今回は意図的に空気を読んでいない気がして冷や汗が出る。しかし、そんな彼女に対して叔父さんは「大丈夫だよ」と微笑んでいた。


「ふーん、意外と綺麗にしてるんだね。……これ、中国語?」


「あぁ、そうだよ。知っているのかい?」


「まぁね。一応、大学で少し勉強してたから」


淡々と話を進める彼女はジッと机の上を見つめている。そういえば親戚の誰かが言っていた。叔父さんは中国語の通訳をしているから、家を空けている事が多い。私が引き取られた時から数度しか会っていないのはそのせいだったのか。おずおずと中へ入る私は部屋の中を見渡す。ベッドと机、椅子、あとは特に何も置いていない。机の上にあるペン立てくらいだろうか。


「で、依頼内容だけど」


「はい」


「心艮に、謝りたいって?」


「うん、そうだよ」


「今更? なに、懺悔でもするつもり?」


鼻で笑うようにし、まくし立てるような言い方をする火糸糸ちゃんは机の上に向けていた視線を叔父さんに向ける。ドア付近で立っている私は彼の近くに立っているので、彼女の目付きがいつもと違うことに気がつく。睨みつけるだけでなく、明らかに相手に対して敵意を向けているのだ。彼女がこんなことをするとは思わなかった私は「か、火糸糸ちゃん……」と彼女の名前を呼ぶことしか出来ない。


「そう、だね。今更謝罪なんて意味ないかもしれない。懺悔したいのかもしれない。それでも愛ちゃんに謝りたく……」


「は? ふざけてんの?」


「……」


「この子が、心艮が一体どんな思いをして現世を生きて来たのか、あんたに分かるの? おっさんのエゴで謝られた心艮はどんな気持ちでそれを聞いていると思う? なぁ! 答えろよ!」


胸ぐらを掴んだ彼女のツインテールが激しく揺れた。履いているヒールの音がした時にはあっという間に間合いに詰め寄り、叔父さんを激しく揺らす。声を荒げると室内でビリビリと響き渡っているのを感じた。感情的になっている火糸糸ちゃんの名前を呼ぼうとすると、「……って」と声が聞こえた。


「……僕だって、許されると思っていないよ。もっと、早く気づいていれば、もっと家に帰れたのなら。もっと……寄り添えたら、この子は死ななかったんじゃないかって。何度も、何度も思ったんだよっ……」


胸ぐらを掴まれたまま彼は真っ直ぐに見つめ返して涙を流していた。頬を伝って流れる雫を見た火糸糸ちゃんは少し怯んだ。死んでから、後悔する。私達に依頼してくる人達はそんな人ばかりだ。でも、どうにかして前を向きたいから相談している。きっと叔父さんも同じなのだろう。


「火糸糸ちゃん、ありがとう」


「……」


「もう、大丈夫だから」


心の底から出た言葉だった。『大丈夫』。今まで何度も自分に言い聞かせて来た言葉。生きている間も、死んだ後も同じように繰り返し使い古した言葉。でも、今日の意味は違う。私の代わりにたくさん怒ってくれた彼女に対してのお礼と、「私はもう平気だよ」の意味の『大丈夫』。ジッと見つめている彼女は「……分かった」と小さく返事をしてゆっくりと丁寧に手を離した。私は叔父さんの方へ体を向け、「遠野遣人さん」と呼ぶ。


「……はい」


「早速、依頼を遂行して頂いてもよろしいですか?」


「……お願い、します」


スゥッと息をゆっくり吸い、深く吐く。彼の行動から見て、私と同じように緊張しているのだろう。なにせ、自分の知らない間に死んでしまった姪っ子が目の前にいるのだから。外から聞こえる風の音が微かに聞こえて来て、部屋の静けさを強調させるようだ。


「愛ちゃん。何も出来なくて、ごめんなさい」


「……」


「無責任な事をして、本当にごめんなさい」


言い切った彼は深々と頭を下げた。人のつむじを見たのはいつぶりだろうか。生前、毎日のように自分のつむじを見せていたのだから、不思議な感覚だ。若干鼻声になっている彼の声は深く深く後悔している声。私が何か言うまで顔を上げるつもりのない様子なのだが、私は自分の気持ちをどう形容するか悩んだ。彼を、許せるのか。頭の中でただそれだけがぐるぐると回っている。


「許す許さないは、心艮の自由だよ」


「え?」


「謝ったから『はい、許します』が通じるのは小学生まででしょ。てか、小学生でも謝られても許したくない事あるだろうし」


木製の椅子の背もたれに寄りかかっている火糸糸ちゃんはあっさりと言った。私にとって難しい問題をいとも簡単に解いてしまう彼女はいつも通りに戻っている。過激な姿はどこへ消えたのか、ギィギィと椅子を揺らしていた。


「ほら、心艮の気持ちを言うんだよ。そうしないとそのおっさん、立ちくらみで倒れるよ?」


ケタケタと笑っている火糸糸ちゃんはすっかり第三者の立場へ戻っている。二人で話している間もずっと頭を下げているので「顔を上げてください」と伝えた。ゆっくりと腰を真っ直ぐにした後、彼の顔は変わらず眉尻を下げっぱなしだ。


「……ごめんなさい。今の私には、あなたを受け入れることが出来ません」


「……そう、だよな。都合が良すぎる、よなぁ」


ぽろり、ぽろりと流れて行く雫は木造の部屋の床にシミを作っては消えを繰り返す。都合が良すぎるのも、それでも彼が私に謝りたいと思っているのも理解している。頭では、理解しているのだ。ただ心が追いつかない。黒くモヤモヤとした雲が心の中で残っている。


「そうそう、都合が良すぎるのよ。あんたみたいな奴のために『死んでも許さない』って言葉があるくらいなんだから」


軽い口調で言う彼女は座ったまま自身の髪を触っている。くるくると手で回しながら爪を見ているのを見ると、相手にすることに飽きたらしい。その言葉を聞いた時にどう言葉を出すのが正解なのか分からなくなった。シワシワの手でズボンをギュッと握り締めている彼に何と声をかければ良いのか。悩みに悩んだ末出た答えは、自分でも驚いた。



「また、遊びに来てもいいですか?」


「……え?」


「今は許せなくても、きっと未来の私なら出来るかもしれないから。死んだ後でも良ければ、話をしませんか?」


これが今の私に出来る精一杯の対応。全てを水に流して、なんてことは出来ない。だって、もう死んじゃっているのだから。でも、死んでからこそ向き合える事もある。乗り越えるのにはまだまだ時間を要するだろうけど、彼の姿勢を無駄にはしたくないと思ったのだ。


「本当、お人好しだねぇ」と心底皮肉に言う友達の言葉が耳にチクチクと刺さる。苦笑いしている私は何も言うことが出来ない。実際にお人好しだし、前までの私だったら絶対にありえないこと。しかし、こうなったのも死んでから出会った人に影響されたからこんなことを言えたのだ。もちろん、その中に火糸糸ちゃんも入っている。


「そ、そんなっ……俺は、何もしてなくてっ……」


「これから、してください。叔父さんの見て来た世界を、本の世界しか知らない私に教えてください」


声も手も震えている叔父さん、もとい遠野遣人さん。彼が見て来た世界と私が見て来た世界はあまりにも違いすぎる。『綴野愛』として二度と見ることは出来ないかもしれないけれど。死んでから知っても良いじゃない。それからでもきっと、遅くないはず。


「う、うぁっ……あり、がとうっ……」


木の床にたくさんのシミが出来ていく。止まらない彼の涙は溢れるばかりで、ボタボタと音がする程だった。拭いても拭いても零れ落ちる雫を見て、初めて心の底から微笑むことが出来た気がした。





「はーぁ。ほんっと今回は疲れたよ……」


「ごめんね、付き合わせちゃって」


「それは別にいいの。私が好きでやっているんだから。それより……何なの、この量の報告書は!」


バサァっと机の上に山積みになっていた書類を放り投げる火糸糸ちゃん。「ちょっと、止めてよ」と諌めつつ、床に落ちた書類を一枚一枚拾い上げた。叔父さんと和解(?)をした後、また遊びに来る事を約束して地獄へと戻ったのだが、そこに待ち受けていたのは大量の書類と報告書。


その一番上に置かれていた一枚のメモには『これ、全部よろしく! 私、しばらく忙しいから! 十五夜より』と書かれていたのだ。それを見た私はため息を吐き、火糸糸ちゃんは烈火の如くキレ散らかしていた。


「で、次いつ遊びに行くのよ」


「え?」


「あの叔父さんの所よ。流石に私は遊びにはついて行かないからねぇ」


「うん、分かってるよ。なるべく早くに行けたらいいなぁって思ってる」


「そ。まぁいいんじゃない? てか、それよりも今はこの書類の山をどうにかしないといけないんだから!」


ドンっと勢いよく机を叩いた彼女。痛かったのか、握った拳を少し摩っている。これを書き切らない限り私達に自由はなさそうだ。今回はイレギュラーの中でも更にイレギュラーが起こったので膨大の量の書類になったとか。十五夜さんと会うことはなかったけど、他の職員さんから叔父さんについて少し話を聞いた。


私が死んだ後、仕事中だった彼は急いで日本に戻ろうとしたらしい。全ての仕事をキャンセルし叔母さんに電話した所、私に渡すように言っていたお金を渡していなかったことが発覚。激怒した叔父さんは電話越しで怒鳴り散らしたらしいが、その後会うことはなかったのだ。その電話の後に飛行機に乗り、その飛行機が墜落したのだから。叔父さんは叔父さんなりに私を守ってくれていたのだと、今更ながら知った。


「もう少し早く知りたかったなぁ」


「本当よ! こんなにも書く物があるなんて!」


「そうじゃないんだけど……まぁ、いっか」


「良くないわよ! さっさと終わらせる!」


うおおおおと逞しい声を出してペンを走らせる彼女を見て「ふふっ」と笑いがこみ上げて来た。独りでは決して乗り越える事の出来なかった過去。生きている時には知らなかった感情や体験を死んだ後にしているなんて、どんな皮肉だろうか。それでも、今を楽しく生活しているのならば死んでも良かったのかもしれない。

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