31話「表象の法則」
少女が私の袖を引いたまま勢いよく足元を蹴る。
その瞬間、私達の足元が割れて砕け散った。まるで薄氷の上であったかのように大地は難なく崩壊していく。
私と少女は勢いよく落下していた。地面が砕けて出来た土塊と舗装された路面の破片と共に。それらは細かな破片へと変わり光の粒子へと崩壊して霧散していく。地面として振る舞っていたテクスチャとオブジェクトがその役割を放棄し消滅しているのだ。夢の世界という仮想領域の一部に、少女は穴をあけた。
私達は世界に空いた穴からその下の領域へと落下していた。
地面に空いた穴は、今ははるか頭上にあった。地表の穴からは曇り空が覗く。穴が徐々に小さく遠ざかっていくのが見え、距離の概念は存在しているのだと推測する。
少女は以前にもここへ侵入してみせた。夢の世界の裏側、管理者領域だ。
落ちていく先に底は見えず、周囲の景色は真っ白に染まっている。光の反射や色彩によって表現されているのではない、電子神経を介して脳が理解できるように表現された、本当に何の視覚情報も存在しない空間だ。物質や風景などを構築する為のデータが存在しない本来であれば足を踏み入れることの出来ない領域。仮想空間として認識こそできるが、管理者領域は世界ではないのだ。
私と少女の身体はいつの間にか空中で静止していた。何処までも続く真っ白な空間の中で、今位置する場所を空中と形容するのが正しいのか分からないが。
そもそも世界という概念から外れたこの場所に、地面や重力といった概念は存在しない。私の足の裏が何に触れていなくても、その結果を演算する仕組みがこの領域内には存在していない。
外部と通信を繋げようとするも拒絶された。私の現在座標も取得できない。
自らの存在がひどく曖昧で不安定なものだと錯覚しそうになる。
「ここが夢の世界の基盤か」
それは私でも麻木でも少女の声でもなかった。
声の方向へと抱えていた短機関銃を咄嗟に構える、それと同時に激しい衝撃を腕の中に感じた。突然の勢いに負け短機関銃を手から取りこぼす。落とした銃は勢いよく底へと向かって見えなくなった。
葉久慈氏の姿があった。その手には鞭のような物体を持っていたが跡形もなく消えていく。おそらく私に突如、一撃を与えてきた正体だ。
葉久慈氏はその足元に何も存在しないことに動揺する気配もなく、私達と同じように宙に浮いていた。笑みを浮かべ、そして昂ぶった声を上げる。
「この機会を待っていた」
葉久慈氏が手を払う。何も持っていなかったその手の中に気が付けば柄らしきものが握られていた。無の空間から何かを引きずりだすようにして手を引き抜く。何もない場所から、その手に引き抜かれて白刃が姿を現す。白金の剣が一振り、その手に握られた。
突如姿を現した凶器に私は構える。何もない場所から武器を生む、現実性を無視した悪夢じみた事象を正気のまま顕現させる。理性を保ったまま。
抱いていた懸念が確信に至る。葉久慈氏にはやはり明晰夢の才がある。
しかも私のものとは性質が違う、少女の明晰夢と同じ類だ。
疑いの余地はあった。葉久慈氏の夢の世界に対する適応能力はあまりにも高すぎた。体系化された論理的な思考とそれを表現する言語能力は夢の中の曖昧な無意識では実現するのは難しい。
そして何より、喫茶店の椅子の裏に私が貼ったステッカーは、一度剥がしたら貼り直せないものであるにも関わらず剥がされた気配がなかった。
葉久慈氏は私の補助を必要とせず、自分の力だけで約束の場所に来たということだ。夢の中で無意識を制御出来ているということになる。
夢の中で自由に振る舞う明晰夢の技術を葉久慈氏が有しているのは間違いない。
だが、そんな素振りの一切を隠し、事実を全て伏せて私に接触してきた。
少女が口調を強めて詰問する。
「あなた、夢に何をしたの。隠しても駄目だよ、ここでは嘘をつけない」
「なるほど、底に潜るほどに無意識の表出が顕著になるのか」
明晰夢は夢の中で振る舞う為の技術、無意識が顕現する夢の中でその本心を隠すための技術でもある。麻木が悩んだのは無意識の表出を飾り偽ることが困難であるからだった。
その事実を突きつけて少女は詰問する。
「みんなに悪夢を見せて何をするつもり?」
「別に彼らの悪夢などどうでもいい。この場所に、仮想世界の底に来る必要があった。この場所ならば他に逃げ場所は存在しないからだ。死、気絶、拘束、そういった概念から超越した存在を追い詰めるにはこの方法が最適だと考えた」
言葉の意味を理解する。
私達は本来夢の世界の外側には侵入出来ない。管理者権限を持った少女だけだ。だが、管理者領域より外側の領域は存在しない。夢の世界から管理者領域へと逃げ込む芸当はもう不可能だ。
少女が空けた穴を利用し同じ階層に位置することで、白磁氏の引き起こす事象は確立される。
「たとえ管理者権限を持っていたとしても、データを用いて仮想世界に顕現する仕組みは変わらない。この手は通じる筈だ」
葉久慈氏が少女へと迫った。何もない領域を蹴って少女のように推進力を得る。まるで矢の如く勢いよく飛び出す。
少女の周囲で突如水が湧き出して膜のように包み込む。しかし、葉久慈氏は具現化した剣でそれを躊躇いなく叩き切った。周囲に水飛沫が飛び散る。その一部は私にも触れるが濡れたという触覚情報が電子神経に通達されなかった。
葉久慈氏が少女の肩へと掴みかかる。少女に触れたその手が一気に変容した。肌が黒く淀み、境界線が揺らぎ、青白い電撃が弾ける。少女の腕を掴んだ箇所の景色が割れた液晶画面のように亀裂と位相が混ざる。データが滲み浸食し凝固の後に流出する。
「やはり物理接触に限るな」
少女の表情が歪んだ。苦痛の感情が悲鳴をあげる。
その悲鳴に合わせるようにして、この空間が突如崩壊しつつあった。真っ白な空間が砕けて流砂となり、その裏側から黒い虚無の空間が覗く。
世界が融解して流出していく中、無数の無秩序な情報で溢れていた。相互通信ではない、データによって構成されている私という存在、それを形作る境界を無視した強引な浸食。理路整然としていた電子空間の中で情報が無秩序な散乱を起こしている。
その中の一つ、座標情報の欠片を葉久慈氏は手で掴んだ。光景としては物理的に接触したと表現されたデータが、周囲に染み出すように私の電子神経に辿り着き同期する。内臓が暴れ回っていて吐き気がこみ上げる。身体情報の境界線を喪失する。理解も把握も出来ない事象が私の存在をかき乱す。
少女の悲鳴と共に世界は暗転した。
暗闇の中、麻木から送信されてきたデータの欠片を私は咄嗟に掴んだ。
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