10話「事象の質感」
私の呼びかけは届かず、届く筈もなく、男だったものは雄叫びを上げた。
床に零れた大量の血だまりの上で、男は変身を遂げた姿を私の前に現した。
男の姿は既に無数の機関銃に覆い尽くされている。辛うじて全体の輪郭は人型を保ってはいるが、もはや無機物の塊と形容すべきであった。腕や脚に見えるそれは機関銃を束ねたもので、弾帯が折り重なって胴体を覆う。
重なり合った機関銃の隙間から男の顔が僅かに見える。苦悶に満ちた表情でありながら、その瞳には光がなく感情を読み取れない。視線は絶えず右往左往を繰り返して焦点が定まっていない。 だが、敵意は確実に存在した。機関銃の銃身が唸りを上げて徐々に回転を始める。まるで蛇が鎌首をもたげるような動きで私へ銃口を向ける。
男を止めるには強制的に覚醒させるしかない。悪夢に呑みこまれた精神は錯綜状態にある。多少の動揺や衝撃では届かない、より強烈で致命的な事象をぶつけるしかない。
機関銃からの一斉掃射が始まるその直前、私は意を決して一気に踏み込んだ。
機関銃が動き出し、けたたましい音が空気を震わせ、私の鼓膜を叩く。
明晰夢では撃たれた事象は否定できない、私の身体に無数の穴が空く光景は想像したくもない。
寸前まで私がいた場所に大量の銃弾が一斉に撃ち込まれた。舞い上がった瓦礫は一瞬で砂塵と化す。
私は既に無数の銃身をかいくぐって、その懐へと飛び込んでいた。握ったナイフを思い切り振りかぶる。
銃身の隙間、その下に存在している筈の男の身体を想定して、喉元を狙って躊躇いなく刃を突き立てる。
刺し込んだ刃はあっさりと奥まで到達した。手の平に残るのは柔らかい肉を切り裂いた感覚。感触を想起させるデータが電子神経によって、私の脳内に一つの実感を鮮明に描き出す。
私は今、人の喉を割いたのだと。夢の中でも体感したくない経験だった。
機関銃の塊の奥へと刃先が深く沈んでいく。その下に存在する男の肉体を切り裂いて。赤黒い血液が銃身の隙間から漏れ出すと、機関銃を伝って滝のように零れ落ちていく。
微かに覗く彼の瞳と目が合った。切り裂かれた喉からは、粘液が絡みついた呻き声と呼気の成り損ないが漏れ出る。
男の死がこの夢の中で事象として顕現する。
持ち主の死によって制御を失った機関銃が、明後日の方向へ向けて轟音と弾丸を吐き出し続けていた。
店内の壁や床が激しく損壊している。幾つもの派手な傷跡が事象となっていく。店内の装飾や設備は瓦礫の山へと成り果てている。
私はナイフを手放して声を絞り出す。
「大丈夫です、死にはしない。悪い夢から醒めるだけ」
私の言葉と共に、機関銃の塊から男の身体は抜け落ちた。そのまま床に転がる。その顔からは生気が失われ、床上の血だまりに転がる身体は死体と呼ぶに相応しい。
死という概念を認識した脳は強烈な衝撃を受ける。今、現実で目を覚ましたことだろう。その五感で、現実そのものの死を体感した筈だ。
男から察知できる電子通信の反応は微弱な物となっている。
喉元に刺さったままのナイフ、僅かに覗く刃には肉片がこびりつき、露わになった筋肉は鮮やかな赤色を示す。
事態が収束したことを察して葉久慈氏が物陰から姿を現した。
私の側で葉久慈氏は床に臥せた男の死体を眺める。凄惨な光景に目を背けるかと思いきや、彼女は瞬き一つしない。一時たりとも目を離すまいという強い意志の存在が見て取れる。
「現実世界で起こり得ない事象を観測した時、人の精神は強い負荷を受けます。自身の生み出した悪夢によっても、それは同じです。悪化した精神状態は更に狂気を加速させる」
錯乱した無意識が悪夢を生み加速させる。それは悪夢の持ち主だけでなく、観測した側の精神にも負荷をかける。これによって生じた精神状態の悪化は、更なる悪夢の発生と加速の原因となる。
悪夢の連鎖だ。
何処かで阻止しなければ拡大は続く。夢の世界全てを阿鼻叫喚の地獄絵図に変えてしまう。
かつて私と麻木は考えた。
他者の夢に干渉することで、その方向性を左右出来るのではないかと。夢の中から目を醒まさせることが出来るのではないかと。
その仮定は正しかった。事象を構築するデータの観測と分析を行うことによって悪夢の持ち主を発見し、夢の中から起床を促す。私達が行ってきたのはそういう活動だ。
「私は明晰夢の技術によって夢の中でも自由に振る舞い、それを用いて他者の夢に干渉します。悪夢を止めることが出来る、もっとも、これが成功であったとは言えませんが」
崩壊した店内と夥しい流血の跡、未だ騒然としたままの街と人々。悲鳴と慟哭が重なって、遠くでは警報の音が鳴っている。この場所に警察が押し寄せてくる前に退散した方が良さそうであった。
この光景によって次の悪夢が発生する気配はない、だがもっと早く止める方法があったのではないかと私は思う。
「この男が意図的に悪夢を発生させたかどうか分かるか?」
「途中から心神耗弱の状態であったのは間違いありません。意図的に振る舞えていたとはとても」
男に真意を問いただすことは出来なかった。
これが葉久慈氏に対する攻撃であったのならば、その原因を確かめる必要があった。
話にあった謎の少女とやらの存在も周囲には確認できない。私たちが巻き込まれたこの悪夢に、葉久慈氏を狙った何らかの意図や裏があったのかは不明のままだ。
だが、葉久慈氏はこの結果に満足そうな表情を見せる。
「まぁいい。あんな危険な衝動を野放しにしてはいけないだろう、止めることが最優先だ」
「危険な衝動?」
「夢が無意識の顕現であるならば、あの化け物は彼の有していた危険な思想を体現しているに他ならない」
男の死体は徐々に半透明に変わり、跡形もなく消滅していく。夢から醒めたことで夢の世界との接続が途絶えたのだ。
むせ返るような血の臭いと足元に広がる血の海だけが、未だこの世界における事象として存在し続けていた。
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