8話「鼠、窮まることなく」
葉久慈氏がそう言った瞬間。
鳴り響いたのは轟音だった。
私達の会話を遮ったのは、鈍い低音。何かが破裂したかのようなくぐもった音。
店外から聞こえてきた音、その方角に私は視線を向ける。日常生活において聞き慣れない類の音だった、悪夢の可能性が脳裏を過る。
無数の悲鳴が上がり街中でどよめきが上がる。人波が大きく割れて人々は必死の形相で何かから逃げようとしていた。
その騒乱が異様な空気と緊張感をもたらす。状況の読めない中、逃げ惑う人混みに懸命に目を凝らす。
再び轟音が鳴り響いた。
逃げ惑う人の胸元から突如、赤い飛沫が飛び散った。後ろから何かに突き飛ばされたかのように、その身体は勢いよく宙に舞い地面に倒れる。
激しく崩れこんだその身体から溢れ出した液体が地面に赤い血だまりを作っていく。
銃声だ。連続して鳴り響くその音に人々のパニックは加速する。
周囲に響き渡る悲鳴とそれをかき消す銃声、飛び散り噴き上がる大量の血飛沫、人々は崩れ落ち死体となって地面に臥せる。
その悪夢じみた光景の中、たった一人だけが平然と歩みを進めていた。
逃げ惑う彼らが道を空けたその場所を、白髪の交じった初老の男がゆっくりと進んでくる。背は高く恰幅が良い。季節に合わない丈の長い黒の外套を深々と着こんでいる。
その骨ばった両手には二丁の拳銃があった。
男は目の前を横切った者を片っ端から撃ち抜いていった。足を止めぬまま視界を遮る邪魔な物を彼は排除していく。
銃刀法の存在する日本において有り得ない光景。夢の世界においても決して看過出来ない事態。
麻木から音声通信が入る、切羽詰まった大声が頭の中で響く。
「古澄ちゃん、危険だ。葉久慈さんを今すぐ離脱させて、古澄ちゃん自身も!」
「この悪夢を止めます」
「銃を持った相手に立ち向かうなんて、無理に決まってんじゃん!」
あの二丁拳銃の男が悪夢の原因だ。手にした拳銃で街中の人々を撃ち抜いていく光景を夢に見ている筈だ。
銃声が鳴る。
喫茶店の窓が割れ派手な音を立てて砕け散る。その破片が店内へと飛び散ると、銃撃に気が付いた客達は悲鳴が上げた。
店内にいた彼らの夢が一瞬で悪夢へと塗りつぶされる。
男と目が合ったような気がした。こちらに向かってきている。その視線にも足取りにも迷いはなく、私達を目的としているかのように思える。
夢での曖昧な意識の中で、意志も思考もおぼつかない筈で、しかし男はその殺意を私達に明確に向けていた。
夢の中での襲撃、葉久慈氏の言葉が俄かに現実味を帯びてきていた。
そんな夢が有り得るのか。発砲事件を起こすだけなら理解できる、だが葉久慈氏に対して明確な意志をもって攻撃する為に彼は如何様な夢を見ているというのか。
私は傍らの葉久慈氏に呼びかける。
「この場から離脱させます。夢の中とはいえ、死は目覚めの良いものではありません」
「あの男はどうする」
「この夢から覚醒させます」
「昨晩の少年のように?」
「夢の中から『揺さぶる』ことで、現実世界の意識に働きかけます。まずはあなたの目を醒まさせます」
夢の中で驚いた拍子に目を覚ます現象が存在するように、人の身体は夢の光景に対しても反射行動を起こす。それを利用する。
文字通り飛び起きるような「きっかけ」を夢の世界で起こすのだ。だが、私の説明に葉久慈氏は首を横に振った。
「駄目だ、目覚めてしまっては事態の犯人まで辿り着けない。あの男の目的も分からなくなる」
「私がこの悪夢を止めます。ですがあの男を止めるよりも先に、まずは夢から避難させるのが先です」
「依頼したのは護衛だ、この悪夢から目を背けるための手伝いではない」
「あなたが悪夢に巻き込まれるのを防げないかもしれません」
「足手まといになるつもりはない」
「意志の問題ではありません。夢の中では思い通りに自分の身体は動かせない、意志では無意識を制御できないからです。発砲している男を目撃して死の恐怖を感じた脳は冷静に判断を下せない。その恐怖も夢として反映されます」
誰もが一度は体験したことがある。
夢の中で身体を自由自在に動かせない感覚。まるで水中にいるかのような足取り、まともに立つこともままならない狂った平衡感覚。思い通りに動かぬ手では何も掴むことが出来ず、どれだけ走っても景色は進まない。
葉久慈氏を夢の中で確実に退避させるには夢から覚醒させるのが確実だった。
夢の中で死を体感すれば、精神的な負荷を強く受ける。葉久慈氏の夢もまた別の悪夢を生み出す可能性もある。
私は目の前で突然力強く両手を叩いてみせた。咄嗟の出来事に驚き目を醒ますことを期待したものだった。
だが、彼女は瞬き一つしなかった。戸惑いのない視線と強い口調で言う。
「私にとっての悪夢とは真実が分からないことだ。私はこの悪夢を見届ける必要がある」
「死も苦痛も現実には反映されません、ですがこの世界の現実そのものの感触はあなたに確実に痛みを体感させる、それは看過出来ません」
「構わない。君が悪夢を止めろ、私はそれを見届けると決めた」
その意思を曲げるには言葉も時間も足りないように思えた。
銃声が再度轟いた。
発射された銃弾がテラス席のテーブルに当たった。空を裂く音に遅れて鈍い音が鳴る。弾丸が跳ねる。店内に飛び込んできた跳弾が硝子を割った。天井に吊るされた装飾細やかな照明が弾け散って、破片が落ちる。
店内の客は惑いながら店の外へと我先にと飛び出していく。互いに押し合い踏みつけ合いながら必死に、それでも上手く走ることが叶わず陸の上で溺れているかのような振る舞いで。
先程よりも大きく銃声が聞こえた、男との距離が縮まっているのが分かる。拳銃の一般的な射程距離は約二十メートル。既に私達は射程圏内だ。
男は拳銃を構えたまま店内へと踏み込んでくる。不格好ながらも客達は何とか店外へと逃げおおせた、店内にはもはや私達しかいない。
男が狙っているのは私達であるということだ。
私は葉久慈氏の腕を引き寄せ店の奥まで走る。近くのテーブルを咄嗟に蹴り飛ばした。
勢いよく倒れたテーブルに反応して男は動いた。銃声が二度続きテーブルにひび割れた穴が開く。貫通した弾丸と共に破片が床に飛び散った。
私達はカウンターの陰へと滑り込む。その跡を追うように銃弾が床を穿つ。連続して放たれた銃弾が柱に当たる。先程よりも正確な着弾点。粉塵が舞い、カウンターに並んだ食器の類が降り注いできて葉久慈氏は咄嗟に頭を庇った。
私は懐に忍ばせた得物を指先の感触で再度確かめる。緊急時用の虎の子だ。拳銃を手にした相手には心許ないが、今使えるのはこれしかない。
思考しろ、状況を整理しろ、と私は自分自身に言い聞かせる。
私は物陰から男の手元を凝視し様子を伺う。
二丁拳銃とは随分と気障な装備だ。まずは、それを無力化する必要がある。
両手の拳銃はどちらも同じ銃種、特徴的な外観には覚えがある。
「麻木、私の視界情報を送ります。あの銃が私の思っている通りの銃種であるか解析してください」
「何の情報が欲しいの?」
「詳細なカタログスペックを」
夢の世界はあくまで現実を模した仮想領域だ。私の身体も埋め込んだ電子神経も、全ては妄想の産物。夢の世界にもネットや電波という概念は存在するが、仮想領域内で通用する想像だけだ。夢の中の私の電子神経から外部にネット接続することは当然出来ない。
麻木から返信されてきた解析結果で私は確信した。
塗装によって表現された表面の金属質の黒い光沢。グリップに施された滑り止めの為の模様、銃身に掘られた溝の数やハンマーの描く曲線の角度までも実物と一致している。実銃そのものの外見だ。
葉久慈氏が私に問う。
「それで、これからどうする」
「彼が持っている二丁の拳銃はFN社のものです。装弾数は十八発、57と呼ばれる銃弾を用いる口径です。材質に樹脂素材を多用して軽量化を果たし、世界各国の軍事機関に採用されている信頼性の高い拳銃です。映画やゲームで目にする機会も多く知名度もあります」
「それが一体なんだというんだ」
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