『3話・さざなみのいとまに』/ぷろとこる


 涼香さんの告白の言葉に私はしどろもどろになるばかりであった。

「え、それって、どういう……」

「何度も言わせないでよ。それより、奈子ちゃんは私のことどう思っているのかなぁって」

 囁きと蠱惑的な笑みを涼香さんは見せた。

 私の手には気が付けば、彼女の白い手が触れていた。

 細く白い指が妖艶に誘うように絡んだ。

「私なら奈子ちゃんに寂しい思いさせないのに」

 涼香さんの長い睫毛の奥にある瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

 それを見て脳裏を過るのはあの大学生の顔だった。

 空音は私と一緒にいる意味を理解しているのだろうか。

 今も私の事を考えていてくれるのだろうか。

 あの子にとって私は何なのだろうか。

「どう?」

 涼香さんの笑みが今までで一番魅力的に見えた。

 私を誘う共犯者、悪戯を考える子供の様な無邪気だけれども企み顔の、矛盾した笑み。

 たくさんの異性に言い寄られて来た涼香さんは自分の武器を理解しているようで。

 テーブルに肘をついて腕で強調した胸やスカートで組んだ足。

 大きく開いたブラウスの襟元からは白い肌のみならず谷間の線が覗く。

 それは意図的で確信的で、彼女の言動に初めて裏が見えた気がした。

「たまには息抜きしてもいいんじゃない?」

 吐く言葉は甘い誘惑で、どんな言葉が効果的であるのか推し測っているようにも思えた。

 それらは私を官能的に誘う。

 彼女にとってはきっと遊び。

 女性同士という物珍しさにつられて試してみたいだけの彼女の好奇心。

 誰かと寝ることを愉しみとしている人間なのだ彼女はきっと。

「私、東雲さんの事好きよ」

 そうわかっていても私は乗ってしまった。

 絡められた指に誘われて。

 いけない遊びに。

 飲み屋を出て歓楽街へと足を踏み入れる。

 客寄せの声が煩わしい。

 今から二人で何処に向かうのかを理解していないような不躾なそれに雰囲気を壊されてしまいそうで。

 行き交う浮ついた声達に責められているような心苦しさがあって、けれど涼香さんが絡めてくる手がそれを忘れさせる。

 その指先から感じる感触が私の全身に触れているような錯覚、肌に指が触れる度に身体の内側から熱が湧き上がってくる。

 額に汗をかくほど、私はのぼせていた。

 頬に熱を帯びるほど、私は緊張していた。

 彼女に触れられたいような、そんな感覚が身の内を焦がした。

 心臓が昂っていて、彼女に対する好意が敬愛だったのか性愛だったのか分からなくなる。

「慣れてるんですか、こういうの」

「あんまりそういうこと聞かないの」

 涼香さんはそう言いながら私の手を引いた。

 歓楽街ですれ違う視線が気になった。

 いつもより見られている気がした。

 私達が今からホテルに行って身体を重ねるなんて誰も思いもしない筈なのに、いつもより多く向けられる視線の全てが咎めているように感じられて。

「女の子とも何度か経験したことがあるよ。何ていうのかな、みんな可愛かったから良いかなぁって」

 涼香さんは私の耳元で囁く。

「分かるんだよね。奈子ちゃんみたいに、私のことを気にしてる女の子の目が何となく。男の人もだけど、女の子もね」

 その言葉に私は気が付く。

 いつもより多く向けられる視線は私に対してではないのだと。

 隣にいる人間に、他の人よりも魅力的に見える存在に、羨望と愛欲の入り混じった視線が向けられているのだと気が付いた。

 涼香さんの様な魅力的で上の階層にいるような人に私は今選ばれたのだと、そんな人に選ばれるような存在であったのだと。

 それが私の価値を担保しているような気がした。

 優越感と安心感が私の背を押した。

 少し暗くなった区画。

 街の喧騒が遠くに聞こえ、自ずと口数は減っていた。

 ホテルの入口が見えた。

 来訪者の姿を隠すため、正面口にはレンガ調の高い壁と小さな噴水があった。

 私は深く息を吸い、足を止めぬように自分の爪先に目を落とす。

 その瞬間。

 まるで、何かを見抜かれたように私のスマホが着信音を鳴らした。

 二人の間の静寂を裂くように陽気な音楽が流れる。

 それは空音からの着信音だった。

 迷いながら、気まずさを感じながら、私は通話に出る。

 通話口の向こうで纏まらない言葉が並ぶ。

 早口で辿たどしい。

 何か焦っているのは分かる。

「パパが!」

 上手く言葉にできなかった揺らいだ声を吹き飛ばそうとするかのように、一際大きな声で空音はそう叫ぶ。

「パパが倒れたって」




 地元有数の土建会社「矢木沢建設」、その創業者かつ現社長の八木沢努氏の一人娘が空音である。

 私の地元の小さなコミュニティでは、それは大きな意味を持っていた。

 矢木沢努氏の権力は町長選挙の結果にも影響を及ぼすというのは暗黙の了解であったし、狭い町では貴重な金と人が動く場所であった。

 それは大人達の間だけでなく子供達の間でも何となく嗅ぎ取れるもので、故にその娘には自ずと視線や友愛や世辞が集まった。

 けれど当の一人娘は変わり者でちょっとズレてると有名で、だから私も空音の存在は知り合う以前から認識していた。

「水、買っといたよ。あと何も食べてないでしょ」

 私はトートバッグからスーパーのレジ袋を取り出す。

 中には冷たいペットボトルの水とクッキーが入っている。

 空音は気落ちした様子を露わに、力なく頷いた。

 その顔には疲れと心の重荷が滲み出ていた。

 新幹線の車窓からは広大な田んぼと民家が点在する様子が延々と続いている。

 目に映る静かで穏やかで開けた景色は、逆にどこにも逃げ道のない閉塞感が感じられて息苦しかった。

 意気消沈とした空音から何とか聞き出せたのは父が倒れたという連絡があったということだけだ。

 故に私と空音は生まれ育った町に向かっていた。

 人口約二万人。

 東北新幹線で上野駅から約二時間と、到着駅から車で一時間。

 それが私達の故郷。

 五年前に私達が逃げ出した町。

 今でも鮮明に覚えているその情景を脳裏に浮かべながら、私は無言で空音の手を握っていた。

 彼女の手は冷え切っていて白い肌がより白ざめて見えた。

 親が倒れたと聞かされて空音は何を思ったのだろうか。

 空音の父である努氏は今年で六十三歳、空音の母は病気で死別している。

 学生時代に彼女の母が亡くなったのを切っ掛けに、空音はこの街を出たいと強く訴えるようになった。

 哀しい思い出がこびりついた町から逃げ出そうとするように。

 あの時、私は空音の言葉に乗って、彼女を連れだした。

 甘味を口にして少し落ち着いたのか空音は私に言う。

「武本君って覚えてる?」

「まぁ」

 地元の同級生の名前が出てきて私は頷く。

「急に電話があって」

 東京に上京して以来まともに連絡を取っていなかったが、倒れたということで急に空音宛てに電話が来たそうだ。

 同級生の武本は矢木沢努氏が社長を務める矢木沢建設に就職したらしく、その武本から連絡が来たらしい。

 社長が倒れたという一大事に、出奔した娘に連絡を取るのは当たり前のことだろうか。

 私は空音に問い返す。

「そっか。他に何か聞いた?」

「いいえ。武本君の方も慌ただしい様子だったから」

「そう、心配だね」

 まだ武本の連絡先は残ってたんだ、という言葉を私は飲み込んだ。

 目的の駅に到着した。

 苦労しながら小型のキャリーケースを荷台から下す。

 新幹線を降りて、長いホームと階段を往く。

 駅の中のコンビニとお土産の売店は閑散としていた。

 タクシーを探そうとすると声をかけられる。

「空音!」

 空音と名前を呼ぶのは、髪の短い肌の焼けた男だった。

 年齢は私達と変わらないくらいに見える、紺色のジャンパーに下はスラックスとくたびれた革靴姿だった。

 黒のミニバンを駅前のロータリーに停めていて、明らかに私達を待っていた様子だった。

 誰だ、と訝しむ私に男は気さくな態度で言う。

「雰囲気変わっていないから直ぐ分かったよ」

 その口振りと笑った時の目じりから記憶がふと蘇る。

 彼が件の武本だと私は気が付いた。

「東雲だよな? 矢木沢と一緒だったんだな。乗れよ、病院まで連れてくからさ」

 私は空音の方を見る。

 武本が来るのを知っていたのかと小声で聞く。

「何時の新幹線で帰るかは言ってたから」

 どこか申し訳なさそうに空音は言った。

 私は空音の手首を掴んで武本に言う。

「分かった、ありがとう。お願いします」

「気にすんなって」

 乗り込んだ車内はタバコの臭いが染みついていた。

 空のペットボトルがドリンクホルダーに刺さったまま灰皿代わりになっていた。

 エンジンをかけて車が走り出すと、バックミラーから吊り下げられた芳香剤が揺れた。

「東京に行ってからもう五年くらい経ってるよな。俺はこっちで高校を出てすぐ矢木沢建設に就職して。それからずっとこっちだ」

 標準語と少しズレたイントネーションに私は曖昧に頷いた。

 クラスメイトではあったが殆ど会話したことがない。

 昔も今も彼を苦手な人種だと思う。

 別に悪い人間だとかではないのだ。

 車内の趣味だとかバイタリティ溢れる人間特有の距離感だとか、そういうものを私が苦手としているのもある。

 でも一番の原因は別だった。

「空音も元気だったか。病院まではすぐだからさ、辛抱してくれよ」

 武本は一時期空音と恋人関係だったことがある。

 空音にとって彼との関係がどれくらいの意味を持っていたのかは分からないが、自他ともに恋人関係であったのは確かだった。

 この地元を飛び出した時に空音は彼に相談すらしなかった。

 選ばなかった。

 だから今はなんの意味がないと理解していても

 だがその過去がどうしても気になって仕方がなかった。

 記憶の底にある風景と目の前を通り過ぎていく町並みが重なっていく。

 車の中で電話が鳴った。

 武本がハンドルを握ったまま電話に出ると、すぐに彼は驚いた様子で大声を漏らす。

「え、退院した!?」

 彼の言葉が車内に響き渡って私は困惑してその横顔に目をやった。

 乱暴なハンドルさばきで車を側道に突っ込ませて、強引にUターンで切り返した。

 来ていた道をまた戻る形だ。

 困惑する私達に彼はアクセルを踏み込みながら言う。

「社長、会社に戻ったって」

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