【8話・全て捨ててしまえたら(前編)】/あのにます

 私が水族館から家に戻ると、部屋の前に誰かが居るのが見えた。

 あの後、野乃花も麻希も戻ってくることはなく私は置き去りにされたまま。

 電話も通じずメッセージも無視されていた。

 野乃花が先に私の家に戻っていないかと、アパートの階段を駆け上がる。

 だが、そこに居たのは新菜だった。

 呆気に取られた私は、呼吸が荒いのもあって新菜に何も声をかけられなかった。

 新菜はいつもの様子で私に手を振ってくる。

「やっほー、って感じ」

「どうしたの、急に。来るなら連絡くれれば良かったのに」

「なんか急に会いたくなって。あれ、野乃花ちゃんは」

「……帰ったよ」

「そっかぁ」

 とりあえず新菜を家に上げた。

 彼女は近所に住んでいるというわけでもないし、突然家に来るとは急用だろうか。

 事前に連絡が無いというのも奇妙ではあった。

 新菜はしっかりとメイクもしてあり、突発的に私の家まで来たようには思えない。

 紅茶を淹れながら、私は新菜に聞く。

「どうかしたの、何かあった?」

「別に何があったわけでもないんだけどぉ……」

 新菜の言葉は曖昧であった。

 マグカップを両手に彼女の前に座る。

 意を決したように彼女は口を開いた。

「水族館に「いったんだよねぇ? どうだった?」

「私の話はどうでも良いよ」

 今まさに一番聞かれたくない事で、私は首を横に振る。

 野乃花との一件の事もあって、すぐに本題を切り出さない新菜に私は少し苛立ちを感じていた。

 新菜との取り留めのない会話をする気力が無かった。

「えぇー、聞かせてよぉ」

「用件は何」

「だから何でもないんだって。杏と野乃花ちゃんとのデートの結果を聞きたかっただけだよ」

 咄嗟に私は新菜の肩を掴んでいた。

 それは本当に無意識の行動であった。

 新菜が無邪気に言った言葉が、私の何処かを逆撫でした。

 野乃花が抱え込んだものを知ってしまったからこそ、その不用意な言葉が許せない自分がいた。

 私に肩を掴まれ怯えた顔を見せる新菜に、私は正気に戻る。

 慌てて手を放した。

「用がないなら帰って。野乃花の話は別に、今しなくてもいいでしょ」

「今、聞きたいの」

「何を言って……」

「私が来た理由ってそれだから」

「どういう意味なのかちゃんと説明して」

「野乃花ちゃんと何かあったのか、気になってしょうがなかったの」

 新菜の言葉の意味が分からず、私は虚を突かれる。

 チケットを貰ったのは新菜からである。

 受け取った時、今日の日付で野乃花と水族館に行くとは伝えてあった。

 けれども、だからといって新菜が私の部屋にいることとは繋がらなかった。

 返す言葉が見つからず私は黙り込む。

 そんな私を見て新菜が声を絞り出す。

「……何かあったの」

「別に。新菜には関係ない」

「ねぇ、あったの!?」

 新菜の声が響いて、何をそんなに必死になっているのか私は困惑するばかりであった。

 何を聞きたいのか私には理解できなかった。

 新菜は畳みかける。

「野乃花ちゃんは親戚の子なんかじゃないんでしょ!」

「何を言って」

「見てたら分かるよ! あの子は誰なの、杏は何をしたの」

 新菜は、私と野乃花の関係性が説明した通りのものでないと気が付いていた。

 確かに誤魔化しきれていないとは思っていたが、新菜もその事についてはもう言及しない事にしたものと思っていた。

 だが違った。

 それでも、私には分からない。

 新菜がそんなにも執着している理由が。

 答えることを渋った私に新菜が食い下がる。

「私に言えない様な事してたの、ねぇ!? 教えてよ!」

 新菜は恐らく、私が危惧していた様な勘違いをしているのだ。

 同性であったとしても。

 見知らぬ未成年の少女を家に泊めている、マイナスのイメージ通りの誤解をしているのであろう。

 全て間違いであるとは言い切れないのも確かではあったが。

 私は正直に、家出中であった野乃花を泊めていたという説明をしようとするも、新菜が私の言葉を遮って叫んだ。

「野乃花ちゃんの事が好きなの!?」

 それは。

 その言葉は。

 私の心の何処かへと、綺麗に収まっていった。

 突き刺さった様な言葉、その切っ先が向いた穴は既に開いていたかのように。

 私はようやく理解した。

 私が野乃花を放っておけなかった理由が。

 野乃花が執着した「アオト」という存在が、何故か私には煩わしく思えてしまった理由が。

 私であって私でない「アオト」という存在を、野乃花の前で切り離してしまいたくなった理由が。

 嗚呼、そうか。

 私が抱いていた感情はそう呼ぶべきものであったのか、と。

「ねぇ、教えてよ。杏は、女の子を好きなの? 好きになれるの?」

「……仮にそうだったとして、新菜には関係あること?」

 私の脳裏を麻希の言葉が過ってしまう。

 野乃花の事を思い出してしまう。

 異質だと見なされる事を、故に否定されてしまう事を、麻希は恐れた。

 彼女なりの価値観で野乃花を否定した。

 麻希の言った様な事が、起こり得る事であると、今さらになって私の中で実感へと変わる。

 新菜は私を否定するだろうか。

 その先の言葉を聞きたくなくて、それでも確かめたくて、私は新菜の次の言葉をじっと待つ。

「だって、そうだとしたら、私が諦めた意味が分からないよ」

「……え?」

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