【6話・指先が触れる距離で(前編)】/あのにます

 翌朝。

 目を覚ましてきた野乃花は、その目の周りを真っ赤に腫れさせていた。

 私はキッチンでお湯を沸かしていた。

 寝室から出てきた野乃花は気まずい様子で、目を逸らしながら聞き取れない言葉を口にする。

 それを制して、私は野乃花を座らせる。

 彼女と私の分のティーカップを並べて、紅茶を注いだ。

 湯気の先を目で追いながら、言葉をゆっくりと探す。

「無理に話せとは言わないけど」

 話してくれれば、とは思う。そう付け加える。

「私が話したら、アオトさんの事も話してくれますか」

「何を聞きたいの」

「何で歌う事を辞めたのですか」

 野乃花の問いに、私は迷う。

 どんな言葉で取り繕っても、その本質を誤魔化せそうになかったから。

 それでも、私は、「いずれは」と返事をした。

 その言葉で満足したのかは分からないが、野乃花は紅茶に口をつけてから、たどたどしくではあるが語り出す。

「麻希さんという社会人の従妹がいるんです。下宿の様な形で麻希さんの家に住んでいます。その人が、その、女性だっていうのは分かっているんですけど、それでも」

 麻希という名前には、何度か触れる機会があった。

  野乃花の携帯に、野乃花の寝言に、名前しか知らぬその女性の影を感じていた。

 一つ頷いて、次の言葉が出ない野乃花に私は助け船を出す。

「好きになったんだね」

「……はい」

「女性を好きになるという事が、変な事だとは分かっています。憧れとか友情とか、そういった感情との混同でもないと分かっています」

 年不相応とも言える言葉と視点は、彼女の性格故のものであろうか。

 中学生という年齢で、その感情を理解できるものなのだろうか。

 同性を好きになるという事が不自然であるとされていることを、自身の抱えた感情が不自然であるとされているものであると。

 それ位の年齢であれば、友情や憧れといった感情と恋愛という感情の境界が曖昧であろう。

 それでも野乃花ははっきりと断言した。

 野乃花のそんな性格であるから、きっと、彼女は傷付いたのだ。

 様々なモノを抱え込んでしまったのだ。

 そんなことはないと、何も変じゃないと、そう寄り添うような言葉を語るのは簡単だった。

 けれど今、必要なのはそれでない気がして私は言葉を変える。

「それでも、私は麻希さんに告白したんです。でも」

「でも」

「駄目だって、言われちゃって。そんなのおかしいって」

 野乃花はそう言って笑った。

 それが、精一杯の強がりであるのは聞かずとも分かった。

「それで頭が真っ白になってしまって、麻希さんの家を飛び出して」

 本当は、もっと、強い言葉だったのではないだろうか。

 野乃花が傷付くような態度であったのではないだろうか。

 まるで自分を全て捨ててしまおうとするくらいに、追い詰めてしまう程に。

 それでも、麻希という女性の反応を、私は咎めることが出来るだろうか。

 私にはそんな経験がない、故に分からない。

 私が言えるのは、判断の基準に出来るのは、世間一般の常識と感性だけであった。

 同性を好きになってしまう事、それは確かに世間においては異質なのだろう。

 世間は、何の悪気もなく、その事を咎めてしまうこともあるだろう。

 その感情に寄り添えるだけの余地が、今の社会に備わっているだろうか。

 正しく向き合えているだろうか。

 きっと、それは不可能なのだ。

 此処にいる私が、その為の答えを、今持ち合わせていないように。

 野乃花は、その現実を知っていた。

 大人びた感性故に持ち合わせていた。

 けれども、相反するものを抱え込んでいて、その狭間であがいたのだ。

 そして彼女はそのどちらかを選べなかった。

「行くアテもなくて、前に配信でアオトさんが住んでいる駅名を言っていたので、何となく電車に乗りました」

 そうして、偶然にも私と出会ったのだ。

 思い詰めて、自棄になって、自分の価値を歪な形でも認めてもらいたくて。

 何と答えたものか、と私が言葉に迷っていると野乃花の携帯電話がなった。

 通知画面を見て、野乃花は呟いた。

「麻希さんです」

「家出していることは、誰かに説明してあるの?」

「いえ……」

「ちょっと、貸して」

 我ながら思い切った行動だと言ってから思った。だが退けもしなかった。

 野乃花の携帯を受け取って、私は電話に出た。

 スピーカーの向こうで若い女性の声がした。

 麻希の年齢は聞いていないが社会人と野乃花は言っていた。

 私が想像していたよりも、ずっと高く若い声である。

 電話が通じた事に彼女の声は興奮気味であったが、私の返事の声を聞いて、訝しむような声色に変わった。

「私、秋穂戸-あいおと-と言います。野乃花さんの、その、友達です」

「野乃花はそちらにお邪魔しているのでしょうか」

「私の家に泊まっています。」

「迷惑になっていますよね。野乃花に代わって下さい、直ぐに帰らせますので」

「あの、……とりあえず野乃花さんは無事です、私も大丈夫です。だから、少しだけ時間をあげてください」

 そう言って、私はスピーカーの向こうの言葉を聞かずに電話を切った。

 つい、言葉が口をついて出てしまった。

 私から携帯電話を受け取った野乃花が、私の顔をまじまじと見つめていた。

 私は少し照れくさくなって、視線を逸らして言う。

「なんていうか、その。気持ちの整理が付くまで、家に居ても良いから」

「本当ですか」

「無理に出ていく方が、私としても困る」

「やっぱりアオトさんは優しいですね。私の知っている通りです」

 野乃花が嬉しそうにそう言った。その言葉に私は何処か釈然としない気持ちを抱えてしまう。

 「アオト」と呼ばれたせいだと思った。

 それでも、私は「アオト」である、とも思った。

 相反した感情だった。

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