【2話・止まない夕立(前編)】/あのにます

 ふと目をさます。


 頭の中は冴えていて、二日酔いも無い。


 ベッドの傍らに置いたスマートフォンを手に取る。


 朝の七時を回った頃であった。


 今日の大学の講義は十時半からで、まだ二時間ほどの余裕があった。


 寝返りを打って、そこで、私は自分のベッドにもう一人寝ている事に気が付く。


 静かな寝息を立てる少女の存在をすっかり忘れていた。


 薄手の毛布で身体をくるみ丸くなって眠る野乃花の姿。


 まるで猫を思わせる。


 目が冴えてきてやっと昨晩の出来事を鮮明に思い出せた。


 そして何故こんな事をしたのかと昨晩の自分を問い詰めたくもあった。


 警察だとか冤罪だとか物騒な二文字が私の中で渦を巻く。


 それにしても。


 制服一つで家出をして、泊まる場所が無いから、と初めての援助交際に手を出す。


 野乃花との値観の違いを感じずには居られなかった。


 少々、思い切りが良すぎるのではなかろうか。


「何か、自棄になってんのかな」


 そんな呟きが口をついて出た。


 私の推察など知らぬ様子で野乃花は静かな寝息を立てていた。


 呼吸の度に華奢な肩が上下する。


 彼女を起こさない様にそっと、私は身を起こしてベッドを離れた。


 自分のベッドに見知らぬ他人が眠っている光景というのは、どうにも奇妙な感覚だった。


 洗濯機を回す為に洗面所へ向かうと、野乃花の制服が畳んで置いてあった。


 明るいところで改めて見ても、この辺りで見かけない制服である。


 地元の駅で家出をするやつもいないかと思い直す。


 シャワーを浴びて、朝食用の卵を焼いて、ようやっと今の状況が現実のものとして実感出来はじめる。


 油の跳ねる音が私を責め立てる様に聞こえた。


 家出少女を招き入れた事が、何かトラブルにならない事を祈るばかりであったし、そうなる前に出ていってもらわねばならぬ、とも思った。


「あの、おはようございます。アオトさん」


 控えめな、躊躇いがちの挨拶の言葉。


 私は振り返り、そうして野乃花の顔をまじまじと見た。


 寝癖の跳ねた細い髪は頬の辺りに絡んでいる。


 細い指でこする寝ぼけ眼と緩み切った頬が、野乃花を気の抜けた風貌にしていた。


 そんな彼女が、昨日しようとしていた事が脳裏を過る。


 彼女は勢いよく頭を下げた。


「あの、ありがとうございました。その、本当にアオトさんなんですね」


 彼女の声は少し上擦っていた。


 声のトーンから高揚しているのが分かった。


 彼女は私のファンであると言った。私の顔を見て気が付ける程には。


 個人での創作活動の為に付けた名前、「アオト」。


 そのハンドルネームをネット上でない場所で呼ばれることに違和感があった。


 私の名前の筈なのに異物感が拭えなかった。


 まるで他人の名のように聞こえる。


 目の前で私の事をアオトと呼ぶ彼女は、私が活動を辞めた事を知っているのだろうか。


 野乃花は楽しげな様子で言葉を続ける。


「あの、私。アオトさんのことすごい好きで、アオトさんの家に泊めて頂けたのが、すっごい嬉しくて」


 こういう事はもう辞めなよ、なんて言葉を私は呑み込んだ。


 彼女が述べる私への好意の言葉を止めさせる。


 背の低い丸テーブルの上にトーストと目玉焼きを置いて、野乃花に座るように促した。


 粉末スープを入れたマグカップに電気ケトルでお湯を注ぐ。


 珍しいものでもなかろうに、野乃花はそれを真剣に見つめていた。


 私はテーブルを挟んで野乃花の正面に座り、彼女を諭す月並みな言葉を探す。


「それを食べたら帰りなよ。何があったかしらないけどさ、家の人が心配してるよ」


 野乃花の顔は急に曇って、その顔を俯かせた。


 それがあまりにも分かり易く、先程まで上機嫌であった彼女との落差に罪悪感も抱いた。


「私はあの家に居ない方が良いんです」


 野乃花はそんな言葉を零す。


 彼女の言葉に違和感を覚えたのは、これが初めてではなかった。


 昨日の夜にも、自分を卑下する様な言葉を彼女は使った。


 野乃花という幼く見える少女を、非行が似つかわしくない少女を。


 家出という大きな決意をさせるだけの原因がそこにあるような気がした。


 だが、そこに踏み込めるほど、私は勇気も無謀さも持ち合わせていない。


 私は彼女の言葉を流して、別の事を問いかける。


「野乃花は何歳?」


「十四です。中学二年です」


 その見た目から中学生くらいであろうか、という私の予想は当たっていた。


 そう明言されて合点がいくところもあった。


 中学生の頃の私も、これくらいに子供っぽく、そして思慮に欠ける部分があっただろうかと。


 年齢を聞いて、私はより慎重に言葉を選ぶ。


「例え野乃花に危害を加えなかったとしても、未成年の他人を家に泊めると大変な事になるんだよ。もちろん、昨日の人みたいに君に害を加える人だっている」


「でも……」


「怖かったんだろ」


 私のその一言で、野乃花の顔は歪んで。


 唇を震わせ、眉尻を下げ、震える息を吐く。


 野乃花の瞳から涙が急に溢れたのは、抑え付けて隠していた感情が今の一瞬、零れてしまったのだろうと思った。


 私は、野乃花について何も知らない。


 一夜寝る場所を貸しただけ、彼女が抱え込んだその何かに、私は触れるつもりもない。


 それでも、昨晩彼女に触れた時に彼女が震えていたことだけは知っている。


 彼女が昨夜犯そうとした過ちは、彼女が本心から願ったものではないのだろう、と知っている。


「だから家に帰りな。犯罪に巻き込まれる可能性だってあるんだよ。みんながみんな善人じゃない」


 中学生の時、私はどうだっただろうかと少し思った。思いつめて飛び出して、人の善意を無防備に信じている様な少女であっただろうか、と。


 野乃花は涙を拭うと、深呼吸の混じった掠れた声で言う。


「でも、アオトさんは優しいですね」


「そんなんじゃないよ。それに……、今はアオトとして活動してないよ」


 その言葉は、自分でもどちらの意味で言ったのか分からなくなった。


 私の言葉に、野乃花は知ってます、と呟く。


 作品の発表も、Twitterもキャスも、何の音沙汰も無くなったと野乃花は指摘した。


 その通りであった。


 半年以上前から私は、アオトとしての活動は何一つ行っていなかった。


 私がそう言っても、野乃花は食い下がる。


「でも、それでも、アオトさんは私の理想なんです。ずっと理想の人なんです」


「だとしてもアオトは私自身じゃない。実際の私とは似ても似つかないよ」


 私はそう話を断ち切った。


 彼女の言葉が、それは決して負の言葉ではないと分かっていても、それでも私には針の様であった。


 今の私には、アオトへ向けられる言葉が受け止めきれなかった。


 野乃花は、いや他の誰もが知らない、私が歌を歌う事を辞めた理由がそうさせているのだ、と分かってる。


 私は引出しからお金を探し、2000千円を野乃花に渡す。


 交通費、と私は言った。野乃花の返事は聞かずに彼女の手に握らせる。


 そしてもう一度、野乃花に家に帰るように促す。


「私は大学行くからさ」


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