第7話 クルシェは殺すことにした。
その夜、クルシェは自宅の窓際で頬杖を突いていた。
クルシェが住んでいるのは路地裏に面した集合住宅の一室である。十二階建ての九階角部屋という特段良い部屋でもない。
この部屋はクルシェの住居であり、幼少期から長年フリードと暮らしてきた場所でもある。そうは言ってもフリードは殺し屋という身分の男であったため、数ヶ月おきに拠点を替えていたらしく、クルシェが彼と過ごした時間はそれほど多くは無い。
家のなかはそう広くなく、玄関を入ると短い廊下があり台所と一体化した広間に通じている。廊下には二つの扉が面していて、浴室と手洗いに繋がる。
広間に接する部屋はそれぞれフリードの書斎とクルシェの居室となっており、もう一つの小部屋は納戸として使用している。
クルシェもフリードも物欲には縁遠いため、居間には調度品はほとんどない。古びた茶色の革製の長椅子と本棚、それと食器を収納している棚があるだけである。
簡素な住居であるもののクルシェの几帳面な性格もあって室内に埃っぽさは微塵もない。その清潔さが逆説的に生活感の無さを際立たせてもいたが。
「……」
内心の懊悩を色濃く含んだ溜息を吐き、クルシェは窓越しに夜空を見上げた。
昼間にスカイエから斡旋された〈月猟会〉若頭クオンを殺す依頼をクルシェは受諾しようと考えている。
その理由は自分でも判然としていない。いつも通りの依頼だからなのか、フリードの敵討ちのつもりなのか。
クルシェに戦い方を教えたのはフリードとはいえ、彼自身は敵討ちなど望みなどしないだろう。それどころか、クルシェがフリードの真似をして殺し屋をしていることを知ったならば、死者の国で苦い顔をしているに違いない。
クルシェとフリードは親子という名目で同居していたが、血の繋がった関係ではなく、あくまでクルシェはフリードの養子である。
クルシェの一番古い記憶は、血塗れで倒れ伏す大人達のなかで呆然としている自分をフリードが見下ろしている姿だった。
元々フリードは長身の男であり、幼少期の自分からすれば天を突くような大男に見えたものだ。フリードの享年は三八歳だったから、あのときのフリードは二十代中盤ほどだっただろう。
男にしては前髪と襟足が長く、灰色の髪に半分隠れた茶色の瞳には困惑と動揺を浮かべていた。
クルシェが黙って彼を見上げ、フリードが黙然と彼女を見下ろす時間が過ぎた。恐らくはほんの十数秒だったのだろうが、クルシェにとっては長い時間だった。
不意にフリードが声を発した。
「死にたくなければ、俺と一緒に来い。悪いようにはしない」
そう言ってフリードは手を差し出した。クルシェはその手をとって歩き出した。不思議と恐れはなかった。これからはこの男と一緒に生きていくのだろうという予感だけがあったのだ。
その後、少しの時間が経ってフリードに連れられたクルシェがいたのは〈白鴉屋〉だった。そのときのクルシェはもちろんのことスカイエなど知らなかった。
クルシェが成長した現在に至ってもスカイエに親しみこそすれ、彼女を軽んじたり甘えたりする様子が無いのは、このときの記憶がこびりついているからだろう。
穏やかなスカイエが怒りを露わにしている姿を目にするのはクルシェにとってそれが最初で最後のことだった。柳眉を逆立てたスカイエが腕を組んでフリードを睨み、フリードは長身を縮めるように肩をすぼめて立ち尽くしていた。
このときクルシェはフリードの後ろで二人のやり取りを盗み見ている。
「フリード。どうして、このようなことを?」
「すまない。こんなことはもう二度としない。今回は見逃してくれ」
「私は、どうして、と聞いているのだけれど?」
「……に、……ていたんだ」
俯いて答えたフリードの言葉はクルシェの記憶からは抜け落ちている。
ただ、その一言を聞いたスカイエは、フリードの後ろにいるクルシェを苦渋に満ちた表情で眺めた。
……追憶はそこで途切れてクルシェは意識を現在に戻した。
夜の闇を映し、通りを挟んだ対面の建物の明かりを背景にしている窓から、半透明の少女が無表情にクルシェを見返している。
その少女は無言で語っていた。
殺し屋というフリードの商売とスカイエの憤りを考えると、そこから導き出される答えは一つしかない。
二人が出会ったあのとき、フリードは殺しの依頼を請けており、その標的はクルシェだったのだ。それがクルシェを手にかける寸前、フリードは心変わりして彼女を見逃したどころか、そのままクルシェの養父となった。
なぜフリードがその選択をしたのか、クルシェには分からない。他の同業者であったら廃業せざるを得ない失態だ。それでもフリードが殺し屋を続けられていたのは、スカイエとの個人的な交誼があったからである。
だが、やはりその一件でスカイエにも大きな借りができたようだ。結局、フリードは殺し屋として仕事を続け、最期は〈月猟会〉という強敵と戦って死んでいった。
フリードは殺し屋の仕事中にクルシェを拾い、殺し屋として死んだ男だ。
他の人間からすれば、これまで他人を殺してきた男に自分の順番が回ってきたに過ぎない。だが、クルシェにとっては……。
やるんでしょ?
窓に映った無表情な少女は瞳でそう言っていた。
クルシェは感情の薄い双眸で少女を睨み返す。
あなたに言われるまでもないわ。
クルシェは窓を開けて半透明の少女を視界から消し去った。晩秋の冴えた夜気がクルシェの頬を撫でながら室内に流れ込む。
空気が澄んで輝きを増している星々と月を眺めてクルシェは決意した。
こうしてクルシェは、養父の仇を殺すことにした。
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