クルシェは殺すことにした
小柄宗
序章
細い月が夜空にかかり、皮肉気に笑みながら光を地上へと注いでいた。
月光を遮る建造物の陰の中に、二つの人影が佇立している。二、三階建ての建造物同士が作る細い路地で、その二人は睨み合っていた。
「いつか、こうなるとは思っていた。組織を裏切っていたことが露見して、お前のような奴が現れると……な」
そう言ったのは、影のうちで背の高い男の方だった。逞しい体格は闇の中でも圧迫を覚えるほどの力強さに満ちている。声音の渋さからして壮年に差しかかっていると思われた。
「……」
もう片方の若い男は沈黙を守っている。こちらは絵に描いたような中肉中背の男性であり、とても目前の男に貫録では敵っていない。その背には、なぜか
「だが、俺も簡単には死なない。お前を返り討ちにして、妻とどこまでも逃げてやるさ。覚悟しろよ。この首は安くないぞ!」
そう言いながら長身の男は懐に手を入れる。その手が引き出されたときには、闇にも重い光沢を放つ拳銃が握られていた。
若い男は、相手の戦意を目にして初めて反応を示す。それまで相手を見据えていた双眸が情けなく歪み、恐怖の表情を作った。胸の前に挙げられた両手は内心の動揺を反映して小刻みに震えている。
「違うっすよー! あんたの相手は俺じゃないんだってばー! ごめんなさーい!」
脱兎の如く逃走する若い男を見やり、その変貌ぶりに脱力した長身は肩を落としたが、彼の言葉から敵であることは間違っていないと読み取ると銃撃を開始した。
男の腕前は劣ってはいないが、出鼻を挫かれたせいでその狙いは精確性を欠いていた。弾丸は若い男から外れて、その周囲に夜目にも眩しい火花を散らす。
「嫌だ、死にたくねえ! こんなとこで死んでたまるか。俺は生き延びて、稼いで稼いで豪邸に暮らして、一生左団扇で暮らすんだ! クルシェ! ソナマナン! どこ
にいるんすかー⁉ 助けてくれー!」
喚きながら走る若い男の背嚢に銃弾が命中。若い男が衝撃で倒れこむと、長身の男がその隙に駆け寄って銃の狙いを定める。
「ひーー!」
自身に向けられる銃口の奥に死を見出し、若い男は叫び声を上げた。長身は敵を始末できる勝利の喜びから残忍な笑みを浮かべる。
そのとき、風切り音が鳴って反射的に長身が顔を前方の闇に向けた。
長身が後ろに飛び退きながら右腕を振り払うと、金属的な響きが上がり小型の刃物が路上に転がる。長身が拳銃で飛来した刃を撃ち落としたのだ。
闇の中から何者かの走る靴音が急速に近づき、その人物は倒れる若い男を飛び越し
て二人の間に着地した。若い男を背後に庇うように立ち塞がる。
「ク、クルシェ! 助けに来てくれたのか!」
救世主の来援に涙を浮かべつつ、若い男はその人物を見上げた。
クルシェ。年の頃は十七、十八歳ほどの少女だった。暗闇にも目立つ金色の長髪と、怜悧な茶瞳をしている。右手に片刃の短刀を持ち、切っ先を長身に向けていた。
「ソウイチ、この男が標的のヒュー・プラントね」
夜気に冴えた月明かりよりも冷えた声音でクルシェが問う。
「そうだよ。俺を殺そうとしたのが何よりの証拠だ!」
若い男、ソウイチが肯定すると、クルシェは茶色の目で標的を見据えた。
「ヒュー・プラント、あなたに恨みは無いけれど、あなたを殺す理由があるの。ここで死んでもらうわ」
「その若造といい、君のような小娘を寄越すとは、どうやら俺も見くびられているようだ。これなら、生き延びる可能性が出てきたな」
ヒューがその声音に勝ち誇った色を乗せて言い放った。
「一応、もう一人いるけれど、私だけで十分ということよ」
「それならば確かめてみるとしよう」
ヒューの腕がクルシェを照準しようと動くと、それに先んじてクルシェが行動を起こした。いつの間にか左手に持っていた刃物を投擲する。
ヒューが防ぐまでもなく身を反らして回避したが、その隙にクルシェは疾走してヒューに接近している。
走るクルシェへ続けざまにヒューが銃撃を浴びせるも、身を沈めながら左右への移動を織り交ぜたクルシェの肌に銃弾が食らいつくことはなかった。
「ひえー!」
石畳で弾ける火花に驚いたソウイチが上げる悲鳴を背にして、クルシェがヒューを自身の攻撃圏内に捉えた。
クルシェが横殴りに振るった短刀を辛うじてヒューが拳銃で受け止める。さすがに体格差があって膂力はヒューの方が上らしく、その顔には余裕が見えた。
またしてもクルシェがどこからか出したのか左手に握った刃を下から突き上げた。喉元に伸びる切っ先をヒューが咄嗟に交わした拍子に拳銃が暴発、一条の朱線が闇を割いて夜空に駆け上る。
ヒューが力押しでクルシェを突き放して彼我の距離を開けると、素早く射線上にクルシェを捕捉した。クルシェは体勢を立て直したばかりで回避まで手が回らない。
「お嬢さん、残念だったな。次の弾丸で君を撃ち抜くぜ。俺の勝ちだな」
「残念なのは、あなたの頭だと思うけれど……」
クルシェの言葉を受けて、ヒューが目を細める。続けて言い放った声には怒りの粒子が濃厚に含まれていた。
「ふうん? それは、どういう意味かな」
クルシェは背筋を伸ばしてヒューに面と向かって相対するようにして言う。
「自分の持っている銃の残弾も把握していない、お粗末なあなたの頭が、ということ。あなたの銃は大陸西部のアキサメ国の軍隊で正式採用されている〈血染めの守り人〉
「あ、それを事前に調べたのは俺なんすけどねー」
クルシェの言葉に割って入ったのは、ソウイチの能天気な声だった。
「さっきソウイチに向けて撃ったのが八発、私に撃ったのが四発、今無駄撃ちしたのが一発。あなたの相棒のお腹は、空っぽ」
「嘘だ!」
クルシェの声に反発するヒューの声が闇に空しく溶け込んだ。
「やってみる?」
試すようなクルシェの口調に促され、銃口を震わせながらヒューが引き金にかけた指に力を加える。
乾いた金属音が鳴り、ヒューの愛銃に残弾の無いことをその場の全員に告げた。
ヒューの愕然とした表情が恐怖に上塗りされ、その頬を風が撫でた。
クルシェの握った刃が鮮血の尾を引いて振り抜かれており、彼女はすでにヒューの後方へと駆け抜けている。
ヒューが反射的に首筋へと手をやると、そこには熱く濡れた感触があった。それが自身から漏れ出る生命そのものだと理解したとき、ヒューの瞳が死の暗黒を閉じ込めて空虚となった。
力を失ったヒューの身体が仰向けに倒れるのを、顔を半分だけ振り向けてクルシェは確認している。
そのまま油断なく近寄り、目を見開いたまま横たわるヒューが確かに息絶えているのを見て、やっと彼女は緊張を解いた。
「終わったわ」
「う、ういっす。零時二一分、完了確認しました」
クルシェはたった今の自身の凶行に興味を失ったように歩きだしていた。
「いや、さっきは危なかったなー。というか、それまでどこにいたんだよ」
クルシェの後をついて行きながらソウイチが尋ねる。
「どこにって、勝手にソウイチが横道に入っていったんでしょう。そのおかげで、ヒューを追い詰めることができたけれど」
「そうだろ? やっぱり、俺ってば役に立つ男なんだよなー!」
一人で頷いているソウイチの言葉には応えず、クルシェが別な話題を切り出す。
「ところで、あの人はどこにいるの」
自画自賛を無視されたソウイチは気を悪くした風もなくクルシェに向き直る。そのぞんざいな扱いが常のようでもあった。
「ソナマナンだろ? どこ行ったんだろうな。さっきまではいたんだけど。……お、来たんじゃないか」
ソウイチの言葉が終わらぬうちに遠くから靴音が響いてきた。その音が近づくと、華奢な体格をした女性の淡い輪郭が二人に向かって手を挙げている姿が見えた。
その女性の仕草がこの場にそぐわない緊張の欠けたものであったので、クルシェは思わず溜息を吐いた。
「おー。ここっす、ソナマナン。もう終わっちまいましたよ」
ソウイチがこれも片手を振って応じる横をクルシェは足早に通り過ぎる。
「まったく……」
呑気な二人を背にしてクルシェは同僚に対する最低限度の礼節を持って、続けようとした台詞を飲み込んだ。
役に立たないんだから、という言葉を。
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