キッチンにさよならを

「キッチンにさよならを・上」

 私がガラスのショーケースの中からフォールディングナイフをうやうやしく取り出すと、客である老紳士は感嘆の溜め息を吐いた。厚手の柔らかい布にそれを包みショーケースの上に静かに置く。老紳士は両手に白の手袋をすると、そのナイフを彼の目の高さまで持ち上げた。手の平に収まる位のその柄は、焦げ茶色の木製であり、表面には丹念にニスが塗られて滑らかな煌めき湛えている。柄の中から顔を出した幅の広い刃は、鈍い銀色をしていて、触れれば指すら簡単に切り落としてしまいそうな鋭さをちらつかせていた。


 老紳士は何度かそれを手の平の上で転がし、細部をじっと見つめ、そして静かにショーケースの上に置いた。布越しに触れた硬い音が静かに鳴る。


 このフォールディングナイフは今から八十年以上も前に造られたヴィンテージ品であり、保存状態も非常に良い。そんな私のセールストークを遮って彼は一言、「買おう」と言った。


 私が一ケ月生活していける位の金額の「骨董品」を、その老紳士は躊躇う事なく買い上げていった。そんな彼の背中を見送る私に、店の奥から店主が声をかけてくる。


「なんだ、売れたのに釈然としない顔をして。何が売れたんだ?」


「零年代のフォールディングナイフあったじゃないですか、あれです」


「二十一世紀の幕開けを感じさせる、っていう宣伝文句が良かったんだろ」


 私の勤め先である骨董品店の店長は五十歳手前の中年男性である。私よりも背が低く、スキンヘッドにしているその姿は中々に小悪党らしく。この人相では客商売には向かん、として私が雇われた次第である。


 彼が数年前に立ち上げた、この骨董品店には様々な人が訪れる。毎日のようにそんな彼等の相手をしているわけだが、未だ私にはこの店で買い物をしていく気持ちが分からない。今から八十年前に造られたフォールディングナイフなど、わざわざ買っていく理由があるだろうか。もっとも、骨董品のナイフ以上に得体の知れない商品などこの店には幾らでもあるのだが。


 この骨董品店は店長の匙加減一つで何でも取り扱う。駅前の繁華街の隅、二十坪ほどの狭い店内には、所狭しと得体の知れない骨董品達がひしめき合っている。店構えからして異様だと分かるからか、訪れる客も「分かっている」人間しか来ない。


 例えば、コンセントだとかいう端子に有線接続する電灯だとか、今や紛争地域くらいでしか見ないガソリン車のパーツだとか、とにかく今の私達の生活には欠片も必要のない物に価値を見出せる人間だ。それがかつて価値を持っていた時代すら私は知らない。


 ショーケースの一部に空きが出来たので、店長が店の奥から別の骨董品を持ってきた。陳列をしながら、彼は先程の会話の続きを口にする。


「あの年齢だとフォールディングナイフって物に哀愁を感じることの出来る世代だろう」


「何に使うんですか、あれ」


「その話をするなら、丁度いいから昼飯にするか」


「はぁ」


 店の奥に事務所兼物置の手狭な部屋がある。使い終わった梱包材がそこら中に落ちていて居心地は決して良くないが、そこで昼を食べるのも休憩するのも慣れた。


 フードセンターから毎食配送されてくる昼食のセットを机の上に拡げる。抗菌処理が施された樹脂製の白い容器全体は綺麗にパッキングされており、運搬時には適切な温度で管理が行われている。今日の中身は中華風で、青椒肉絲だとか春巻きだとかが、中仕切りに区切られた枠の中で綺麗に陳列している。私が箸をつけると店長が語り出した。


「あの手のフォールディングナイフの用途は幾つかあるが、一般的なのは外での使用だな。折り畳みってのは持ち運ぶ為にあるわけだ」


「何を切るんですか、あれで」


「肉とかだよ」


「肉?」


「お前みたいな若い人間には想像も付かないだろうが、三十年位前にはな」


 店長の昼食は気が付けば既に半分が消えていた。その口が大きいのか、それとも殆ど咀嚼していないのか、少なくともよく味わっていないのは確かだ。とにかく彼は、昼食を勢いよく片付けながら話を続ける。


「フードセンターから毎日毎食、全ての食事が配給されるのが当たり前になるなんて、俺がガキの頃には考えもしなかった」


 私にとっては、この手元にあるパッキングされた料理の方が当たり前だった。


 フードセンターと呼ばれる官民連携施設から、毎日三食全ての食事が全国民に配給されている。徹底的に品質管理された工場で、大規模生産され、パッキングされて各自治体、各企業、各家庭、各個人に運ばれてくるのだ。これ以外に、私は食事を入手する手段を知らない。


「食事をする為に、それまで誰もが料理って事をしていた。自分で肉や野菜なんかを刃物で刻んで、それに火を通し、然るべき味を付ける。それが当たり前だったんだ。だから好む好まざる関係なく大体の人間は料理っていう行為に関わっていた」


 勿論知識としてはフードセンターによる完全供給制度までの歴史を知っている。それ以前の時代は、各個人の手で食事を用意しなければならなかったという事は知っている。


 それでも私にとっての食事とは、工場で製造されて毎日滞りなく届けられる物だという認識がある。あのフォールディングナイフが使われる光景が、自分で料理というものをする環境が、私にはそのイメージが湧かない。現在、工場生産されているそれらの工程を行える設備が各家庭の何処にあったというのだろうか。私の素朴な疑問に店長は笑う。


「昔の家にはな、キッチンって言って火を起こせて水を使える場所があったんだよ」


「各個人で行うのは不衛生じゃなかったんですか? 安全面も気になりますし。それに、各個人で健康に必要な栄養素を全て計算出来たとも思えません、不健康じゃないでしょうか」


「そりゃ今の『給食センター』に比べりゃな、そういう点は全てが劣っていただろうさ。それでも殆どの人間は、それで上手くやっていたんだ」


 給食センターという聞き慣れない単語が出てきたが、私がその意味を問い返す前に店長は言葉を続ける。


「あの手のフォールディングナイフは、外で料理をしたい人間が好んで使ってた。山の中なんかでな、あのナイフで食材を切って、火を起こしてな」


 外で、しかも山中なんて場所で。自分の口に入れる物に手を加えるというのは、酷く不衛生な事に感じられた。


 今、私達が日頃食べているものは。徹底的に品質管理をされ、厳密な検査をされ、厳重にパッキングをされた、安全で清潔なものだ。それが当たり前であり、それが食事の正しい姿だと私は思っている。


 骨董品を買いに来たあの老紳士は店長の言う様な時代を経験している筈だった。私と違って、あのフォールディングナイフで料理をする事に嫌悪感を覚えない人間のだろうか。


 植物樹脂素材でパッケージされた飲料水を一気に飲み干し、店長はどこか寂し気に言った。


「食事っていうのは、もっと違う意味の持つ行為だったんだよ」


 店長の言葉の意味が分からないまま食事を終えて店番に戻る。午後になると一人の客がやってきた。


 この店を訪れるには珍しい若い女性である。歳は二十代前半くらいだろうか、私と大差ないように見える。綺麗に結った長い髪が印象的だった。


 彼女は狭い店内を興味津々といった様子で何度も眺め回し、そうして暫く行ったり来たりを繰り返した後に私のいるカウンターに来た。店内に並んでいる年代物の電気製品だとか、奇妙な形の情報端末だとか、そういったものを見るのと同じような奇異の目で彼女は私を見た。


 何かお探しですか、と私は微笑み問い掛ける。彼女は私と違ってガラクタ紛いの骨董品に価値を見いだせる人間なのだろうか。彼女はショーケースの中身に隈無く視線をやってから再び私を見つめてくる。


「店長さんですか?」


「いえ、雇われですよ」


「ごめんなさい。お若いので、つい驚いてしまって」


「よく言われます。宜しければ、店長を呼んできましょうか」


「いえ、心配だとかそういうわけじゃないんです。むしろ少し安心しました」


 本心の様で彼女は笑顔を造る。


古い時代の物に価値を見いだせる人間は、年寄りばかりとも限らない。それを「お洒落」と捉えて生活様式やファッションの一部に取り入れる人もいる。ただ、そういう趣味の人間は、もっと煌びやかで清潔感のある店に行くのだ。


この店はそういった趣味で着飾るには少々方向性が違う。もっとジャンクで、思い切りガラクタな物ばかりだ。


 今のちょっとしたやり取りで気が緩んだのか、彼女は本題を切り出してくる。


「実は探している物がありまして」


「表に無くても奥に仕舞ってある物も御座いますし、ツテを辿って探し出してくる事も出来ますので、何なりと」


「調理器具を探しているのです。家庭用の」


「調理器具ですか」


「なんで、と思われるかもしれませんが」


 そもそも骨董品店で買い物をする客に理由など求めてはいけない。必要なくても欲しい、彼等はそんな不合理な感情で来るのだ。


 しかし、家庭用の調理器具を求めてきた客は初めてだった。そもそも家庭用の調理器具というものを私は見たこともない。家庭で料理をする、という文化自体が遠い時代の物である。


 これは店長を呼ぶしかなさそうだ、と私が思案していると彼女は取り繕うように語り出す。


「料理をしてみたいと思いまして」


「ご自分で、ですか」


「はい。その、奇妙に思われるのは分かっているのですが」


 私は口ではそれを否定したが内心では頷いていた。奇異であると同時に、とても危険で不衛生な事だとも思う。そもそも自分で料理を行うという事自体、上手くイメージし切れていない。店長に言わせれば私達の世代の方がおかしいのかもしれないが。


料理というものを個人で行っていた、そんな時代を知らない私達にとって極めて理解し難い行為である。フードセンターから毎日毎食、何の滞りも不具合もなく、パッキングされた食事セットが送られてくる。工場で安全清潔に製造された食事を何の苦労もなく受け取ることが出来る。健康的な生活を送るために計算された完璧な食事を、だ。それが今の時代の当たり前である。


 しかし、彼女はそんな時代にありながら自分で料理をしてみたいという。


 私は裏にいる店長を呼んだ。調理器具を探している客が来たと言うと、楽し気な笑みを浮かべて表に出てくる。在庫に調理器具の類は無いらしいが、しかし店長は用意してみようと応える。


「知り合いにツテがありますから探してみましょう」


「本当ですか」


 店長が自信満々に答えるので、彼女は期待に満ちた表情をして帰っていた。客のいなくなった店内で私は聞く。


「家庭用の調理器具なんてもの何処から見つけてくるつもりですか」


「アテはあるんだよ。昔は探すまでも無かったんだが」


「各家庭に調理器具があった時代ですか」


 喪われた時代とでも言うべきだろうか。今の住宅には、その為の作業スペースすら無い。


「とはいえ、昼飯の時にああは言ったがよ。ある日みんなが一斉に料理ってものを辞めたわけじゃない。そもそも家庭内から家事というものが徐々に消えつつあった時代だった。家事のアウトソーシングってやつだな。マーケットに行けば調理済みの食品が山ほど売っていて、それを買う事で全て済ませていた人だって大勢居た。だからこそ、自分で料理をしない時代の到来にそれほど抵抗が無かったのさ」


「手間だった事が楽になるに越した事はないと思うんですけど」


「まぁ楽にはなったな。フードセンターから毎食、決められた決めた健康的なメニューが送られてくる。それを楽だと、時代の進歩だと、そう捉えることは否定しないさ」


 それ以前の時代の事を私は知らないが、その労力を外注に出した事を私は至極当然な流れだと思った。それでも、店長の言葉は何処か棘が混じる。


「この住所に行ってみてくれ。調理器具が手に入るかもしれない」


 その言葉と共に店長から渡された住所に私は首を傾げた。買い付けに行け、という意味なのだろうが頼まれる事自体初めてである。今まで何の「イロハ」も教わっていないのだが。


 そんな私の反論を制する様に彼は口角を上げて笑う。


「ぼちぼち覚えていっても良い頃合いだろう? 習うより慣れろってやつだな」

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