第8話 インディアンジョーク
「召使いさんの名前は?」
アンシュの目線がこちらに向けられていることに気づいた蘭子は、早足で歩み寄って頭を下げた。
「ランコ・ウザキと申します」
「ランコとシュウは、どうしてこのアトリエに? ハサウェイのお嬢様とケンカしに来たの?」
蘭子は即座に返す。
「とんでもありません。修治郎様はロンドン留学中の勉強の一環としてこのアトリエに見学に来たのです」
「勉強? ならシュウ、いずれここで勉強するの?」
「いえ、そういうわけでは……修治郎様のご実家は、ハサウェイ家と提携関係を持っています。その関係で、今日は見学をさせてもらうつもりだったのです」
とはいえ、案内人はさっき修治郎が追い払ってしまったところである。
アンシュは何の悪気もない目でこう言った。
「それって、ハサウェイが取引相手ってことだよね。あんなことしちゃって大丈夫なの?」
蘭子は黙り込んだ。当の修治郎は知らん顔で、分かりやすくアンシュから目を逸らす。
「あのお嬢様、脳みそはロバみたいにすかすかだけど、やれることは何でもするから」
無邪気な声で飛んできた悪口に、蘭子も修治郎もしばらく固まった。やがて蘭子が申し訳程度の声を絞り出す。
「確かに、ありのままをハサウェイ家の当主様に報告されるのはとてもまずいですね……」
蘭子は腹を括る。元々このお坊っちゃまを外に連れ出したのは自分である。そのことに今更後悔はない。
「僕が悪いような言い方はよせ」
「いえ、紛れもなく貴方のせいだと思うのですが……」
否、自分が止めるべきだったのだ。常人よりも遥かに精神が未熟で子供っぽいこのお坊っちゃまを外に連れ出したからには、自分が彼にもう少し我慢を教えるべきだったのだ。
蘭子ははっきりと、修治郎の目を見て言った。
「修治郎様。例え修治郎様にとって気に入らない相手であっても、もう少し耐えることを覚えてください。陰口は陰で言ってください」
「何だね、君が僕を連れ出したというのに」
「連れ出されて不機嫌だからといって、それを提携先のお嬢様にぶつけていいとはなりません」
お互いしばらく黙って睨み合っていたが、ためらうことなくアンシュが割り入った。
「シュウ、これ見て」
アンシュは右手にチラシを握っていた。二人に見えるように丁寧に広げる。
「僕達みたいな、ロンドンに住むアジア系の移民や留学生が、定期的に集まる会合だよ。誰でも好きな時に来ていいんだ。シュウとランコも、よかったら今度来なよ」
唐突な招待に二人が顔を見合わせると、アンシュはこう付け足した。
「留学生には、実家に帰ったら大金持ちって人も多いよ。例えハサウェイのツテを失ったとしても、ここで新しいツテを作ればいい。シュウも勉強だけじゃなくて、きっとその辺りも期待されて留学しているんじゃないの?」
どうやら、彼なりの気遣いらしかった。ツテを失うこと大前提ですかという言葉を蘭子は飲み込む。
「そういうのは、僕より兄さんの方が向いている」
「僕はシュウに来て欲しい。みんなが繋がりを作る為に来ているわけじゃない。ここのアトリエのみんなもよく来るけど、ほとんど今自分がやっている勉強の話か、ハサウェイのお嬢様の悪口だよ。あとね、お菓子もみんな持ってきてくれる。みんないろんな国に住んでるから、いろんな国のお菓子が食べられるよ」
「僕に何を期待している?」
アンシュは、不思議そうに修治郎を見つめた。
「期待ってどういう意味?」
「何故僕である必要がある」
「僕が話したいからだよ」
何の裏もない無邪気な声だった。修治郎はとたんにばつが悪そうに俯く。
蘭子はおずおずと手を挙げた。
「それって、私も参加してよろしいのでしょうか」
「当然だよ。日本人は見たことないから、どんな話でもみんなすっごく面白がって聞いてくれると思う。それに、ランコの英語は全然下手なんかじゃない」
蘭子は、自然と上がった声で修治郎に話しかけていた。
「ねえ修治郎様、一緒に行きましょうよ」
「君の魂胆が見え見えで嫌になるね」
修治郎は唐突に日本語に切り替える。何やらにやついた表情だ。
「それに、約束を忘れたのか。君が僕に妙なことを押しつけるだけ、後から君への要求が大きくなるだけだ。機嫌の悪い僕がどんな無理難題をふっかけるか分からないじゃあないか」
蘭子も日本語ではっきりと答える。
「勿論。何でも致します」
修治郎はすぐさま笑顔を引っ込めて、不満げに蘭子を見た。アンシュは何食わぬ顔で、やがて一言。
「どういう意味?」
修治郎と蘭子は、お互い真顔を突き合わせる。先に口を開いたのは修治郎だった。
「次の会合はいつだね」
蘭子は目を見張った。
「一番近いのだと日曜日だよ。この日じゃなくても、毎週水曜日と日曜日にやってる。場所は――」
修治郎は黙々と、最後まで聞き終えるとこう言った。
「僕は、交渉は得意ではない。よってできれば君と、君が今作っているものの話をしたい。あの精巧な図がハサウェイのプログラムのものではないとよく分かったからな」
アンシュは口の端をほんの少しだけ引き上げて返す。
「資産家が用意してくれるものはハコだけだなんて、常識だよ」
そう言って、長い指で小さく四角形を作った。
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