第4話 世界最先端の蒸気機関


 大通りに出た。仕事服姿の婦人たちがレンガ通りを歩く。二人もしばらく黙々と歩く。明らかに修治郎の方が歩幅が狭い。蘭子は焦ったそうにしていたが、やがてゆっくりと歩幅を修治郎に合わせてこう聞いた。

「私に飲ませたい要求って、何なのですか?」

 修治郎は黙っていた。というより、言葉を話したくないという様子だ。じっと俯き、大人しく蘭子の後ろをついて行く。ちまちまと歩を進める。

 蘭子は諦めて、ゆっくりと修治郎の数歩先を行く。

 辿り着いたのは、赤いレンガに白縁の窓の立派な建物である。大通りに面した玄関を蘭子が叩くと、皺一つないブラウスを纏った案内係が出てきた。蘭子が修治郎の父親の名前を出すと、案内係は愛想のない顔で二人を中に通す。修治郎は蘭子の後ろで大人しく、案内係と共に暗い廊下を渡っていた。

 階段を下る、案内係は見えてきた扉を示しこちらですと一言残すと、無愛想に去っていった。

 深い木目の入った、こじんまりとした扉である。

 蘭子はゆっくりと階段を降り始めたが、修治郎は動こうとしない。仕方なく先に蘭子だけが扉に手を掛け、中に入った。

 そのまましばらくした後、中から出てきた蘭子が、大丈夫ですよと小さく声を掛けて修治郎の手を引いた。

 降りていく。扉を開けると同時に、二人を熱気が包み込んだ。

 蒸気である。

 青木家当主であり喜一郎、修治郎の父親である青木言は、半ば強引に二人の息子に留学を押し付けた。兄には自身の跡を継ぐ土台を心身に築く為、弟には持て余した才の使い道を探す為である。その時利用したツテが大手資産家で青木財閥とも提携を結んでいたハサウェイ家だ。

 資産家であるハサウェイ家は産業革命の発端である蒸気機関から最先端技術である電気工学を含めた、技師と名がつく職業を目指す海外学生の留学プログラムを独自に実施している。そして今回、言が是非と修治郎に勧めたのは、ハサウェイ家が抱え込む留学生技師を育成するアトリエの見学だった。

「僕の就学状況を知らずに呑気だな」

「私が旦那様に言い訳しているのです」

 蘭子は即座に返した。

 平らな天井に裸電球が無数に吊るされた、地下とは思えぬ広い空間だ。

 個別に用意された作業机に、背格好も肌の色も様々な学生たちが思い思い自身の世界に没頭している。机の位置もくっついていたり離れていたり、機材も資料もバラバラだったり、各自のとっ散らかった脳内が現れている。

 修治郎が着ていたインバネスを蘭子に投げつけた。

「暑い」

 蘭子はコートを腕にかけ、修治郎を見上げる。閉鎖的な空間になればなるほど元気を取り戻すのだろうか、先程の怯えっぷりが嘘のようである。

 二人はしばらく入り口で突っ立っていたが、幾ら待っても案内する人間が出てこない。どころか誰一人こちらを振り向きすらしない。二人と作業場の間に大きな硝子板が隔り、それ越しに眺めているような心地である。

「蘭子」

 何やら出どころの分からないギギギという機械音に飲まれぬよう、修治郎は声を張って問うた。

「何でしょう」

「あの親父は、手配をしたと書いていたよな」

「ええ。ハサウェイ家の方から案内役を一人手配したと書かれていました」

「先程の無愛想なメイドではないのか」

「いえ、何やらハサウェイ家のお嬢様らしくて……」

「当主の娘という意味かね」

「はい。提携相手のお坊ちゃまが見学に来るのだから、此方は娘を立ててお迎えすると、ハサウェイ家の当主様が仰っていたようですが」

 蘭子は辺りを見回す。アトリエ内には女性もちらほらと見えるが、全員が作業服を着ている。

「ここの学生は何も聞いていないのかね」

 蘭子は一瞬で察する。お前が聞いてこいという意味である。

「修治郎様、私に要求を飲ませたいのであれば、修治郎様が尋ねてください」

 修治郎は案の定不機嫌な顔をしたが、諦めてアトリエ内に歩を進めた。

 蘭子は、修治郎のブーツをじっと眺める。あの主人は靴を履くのも久しぶりの筈である。自分に要求を飲ませたいが為にこうも動くのかと、蘭子は今更気がついて妙な心地になる。

 修治郎はしばらくアトリエ内を歩き回った後、壁際の席に座る一人の学生の手元をじっと見つめた。蘭子には何のことやら分からない分厚い本を読みながら、手元の紙に何やら書き取っている。

 見つめて、動かない。

 蘭子も見守る。頑張ってくださいと、固唾を飲んで見守る。

 長い長い間。蘭子は喉が干上がりそうだった。緊張で何も言えないでいるのかしら、普通に突っ立っているように見えて、内心では先程のように怯えているのではないかしら、と次々と頭に浮かんでは溜まる。

 遂に蘭子は、修治郎の方に向け一歩を踏み出した。

 その時。

「君の専門は電気工学か」

 流暢な英語が滑り出た。蘭子は、それが何処か知らない方向から聞こえてきたような気がして、ぴたりと足を止めた。

 しかし紛れもなく、それは修治郎だった。

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