第十三話 藤枝の宿 日影兵衛
日影兵衛の様子がおかしい。
岡部宿をから出発してからなんの変わりもないように様に見えたが、幾分ふらついている気がする。
刀が沢山入った
いつもならそれを背負ったまま誰よりも速く走ることが出来る日影兵衛がである。
りんは日影兵衛の横まで進んで彼の顔を見た。
全ったく覇気が無く、青白い顔をしていた。
「永山様、前田様、日影様の様子が変です」と慌ててふたりに声をかける。ふたりは一番後方で、何やら話をしていた。
「え、なんだ」とふたりは日影兵衛のもとまで駆け寄った。日影殿の様子はふたりが見ても明らかにおかしかった。
「……問題ない。さっさと大井川を越えるぞ」
日影兵衛の言葉には全く力というものが感じられなかった。
「まさか、あれか」
「それ以外に心当たりはありません」
前田主水と永山宗之介は顔を見合わせて言った。
「あの……あれって何ですか」そういうりんの言葉には返答せずに、永山宗之介がおまじないだと言っていた赤い布越しに日影兵衛の腕を握る。
軽く握っただけなのに、日影兵衛は「つぉっ」と
永山宗之介はそれを見て、赤い布を取り去り日影兵衛の袖を
「これは……毒を受けたか、破傷風か、丹毒か」と永山宗之介が顔を蒼くして言った。
「傷口が浅くて出血が少ないのを甘くみてしまった」前田主水も表情を変える。
その傷は皮膚を赤くして膿を持ち発熱している。永山宗之介は日陰兵衛が手を振りはなそうとするのを押さえつけ、額に手を当てる。「熱がある。しかし唇を青くしているのは……日影殿、悪寒や関節の痛みは。
日影兵衛は黙ってしまった。
「丹毒かもしれません。ともかく傷を洗って消毒せねば」永山宗之介は日影兵衛の背負子と荷物を取り除けると、前田主水が「藤枝宿だな。儂が背負う。おりん殿、おたけ殿、ついてこれるか」と言いながら弱々しく抵抗する日影兵衛を背負って駆け出した。
永山宗之介の言葉にただ事ではないと感じたりんとたけは慌てて前田主水の後を追う。
藤枝宿に入って直ぐに一軒の旅籠が目に入った。
『志太温泉から温泉を直送、温泉気分が味わえます』というのぼりがひときわ目立っていたのだ。
すぐ横にある立て看板には『神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復、冷え性、打ち身、五十肩、慢性消化器病、切り傷、やけど、慢性皮ふ病、痔疾、慢性婦人病』などと書かれている。
それも見ずに「温泉か、傷に良いかもしれん」と前田主水はその旅籠に駆け込んだ。
「おたけ殿、済まないが寝床の用意を。おりん殿は日影殿の旅装を解くのを手伝っ……おおう」
前田主水は背後から突き飛ばされた。
「黙れ。そのくらい自分で出来る」
背負われていた日影兵衛が突き飛ばした勢いで立ち上がる。
彼をじっと見つめる三人。
自分の旅装を外そうとした日影兵衛はそのまま倒れ込み、床に激しく頭をぶつけた。
「あああ、日影様」
「言わんこっちゃない。おたけ殿、寝床の準備は」
「ちょ、ちょっと待って、もう少し」
前田主水とりんは日影兵衛を楽な姿にし、たけは
そこへ荷物を拾って来た永山宗之介が部屋に入ってきた。
「放置しておくと日影殿は無茶をする」と前田主水が言うそばから「さっさと大井川を越えるのだ」と日影兵衛が無理に身体をおこし、か細い声で言い出す。
「何を言ってるんです。この後は小夜の中山を越えなければならないのですよ。そんな身体で行ける道ではありません。とにかく医者に行きましょう」
「医者は嫌だ」
「へ」聞き間違えかと前田主水。
「だから医者などには行きたくないと言っておる」
「この
「あの……日影様、もしかして医者にかかるのが怖いのですか」とりんは日影兵衛の顔を覗き込む。
「そ、そんな訳があるか。医者なら村上源内を呼べ」
「村上様は小田原ですよ」
「……俺のことは放っていてくれ。少し休めば調子など直ぐにもどる。医者には行かん。行くのは大井川だ」
残る四人は顔を見合わせる。
「何でそこまで医者に行きたくないのですか。もしかして、怖いとか」たけが聞いてみる。
「こ、怖くなどない。必要ないから行かんのだ」
それを聞いてりんが「昔何かあったのでしょうか。私を村上様の所へ連れて行ってくれた時は平気そうでしたが」
「他人は良くても自分が見てもらうのは嫌なのか」
前田主水がそう言うと「黙れ」と日影兵衛はまたか細い声を出す。今の日影兵衛はちっとも怖くない。
「しょうがないですね。おたけ殿とおりん殿は日影殿を寝かしつけて見張っていてください。前田殿、薬と他に必要な物を買いに行きましょう」
永山宗之介がそう言うと、前田主水は無理矢理日影兵衛を寝かしつけて「この
りんは寝転がされた日影兵衛の赤い布と晒に手をかけた。
「やめろおりん、それで十分なのだ」
「傷口をきれいにしないと」
「おりん、
「主の身の回りのお世話をするのも私の役目ですから」
そう言っていきなりまだ張り付いていた晒をべりりと引き剥がす。
「……ふんぬ」みっともない真似は見せられないと歯を食いしばっていた日影兵衛はなんとも言えない声を出す。
「おりんちゃん、お湯をいただいて来ましたよ」と、たけが水桶を持ってきた。
「あの、おたけさん。日影様が動かないように押さえつけてくれませんか」
「え、いいけど……」とおたけは日影兵衛の肩を抑える。
「……おたけさん、今回はお許ししますので、馬乗りになってでも少しも動けない様にお願いします」
「お許しするって何のお許し」そう言いながらたけは日影兵衛を
「おたけ、はしたない。やめろぅおお」
りんが傷口を拭い始めたのである。
「血は出ていないけど、膿が溜まってますね」
「や、やめろ、
りんにとって、弱っている日影兵衛など敵ではなかった。
そこへ前田主水と永山宗之介が腕いっぱいに荷物を抱えて戻ってきた。
「……おたけ様、何ですかその格好は」
「そんなこといいから、早く消毒と薬を」
「まむし酒と富岡屋秘伝の「きつね
きつね膏薬とは昔きつねにいたずらされた富岡屋がそのきつねに罰を与えた所、傷によく効く妙薬とその配合を教えて貰って許してやったのだが、この薬がよく効くと評判になったものである。
まむし酒は普通の焼酎よりは殺菌効果が高いので、大抵どこの家にもあるものだ。
「りん殿、これを」と言ってまむし酒と膏薬を渡す。
「ちょっと待て」
そう言う日影兵衛を無視して、りんはまむし酒を染み込ませた布で傷口を拭い始めた。
「……んつ」と声を出してもがく日影兵衛。
「こんな具合なんですよ」と、おたけが永山宗之介に言う。りんは消毒を終え膏薬を塗ると、きれいな晒を傷口に巻いた。
「ではこの薬を。おりん殿、薬を飲む為の水を貰ってきて貰えませんか」と言って永山宗之介が袋に入った大量の漢方薬を床に並べた。
「おたけ様はそこを
そう聞いて前田主水は日影兵衛を羽交い締めにする。
丁度りんが水を持ってきた。
「ま、待て。薬ぐらい自分で飲める」
「信用できませんね。飲むふりをしてこぼされたりしたら
「飲む、飲むから……それよりその薬を全部飲むのか。一度に飲んで腹を壊したらどうする」
「漢方薬ですから問題無いですよ。もともといろいろ混ざっているものですし。多分」と、永山宗之介にあしらわられた。
「た、多分だと」
「おりん殿、日影殿の鼻をつまんでください」永山宗之介は日陰兵衛の言葉を無視して言った。
「はい」となんのためらいもなくりんは日影兵衛の鼻をつまむ。息が苦しくなり、口を開けてしまう日影兵衛。
「では」と言って永山宗之介は次々と日影兵衛の口の中に薬を突っ込み、水を含ませて頭と顎を押さえつけるようにその口を閉じさせた。
「りん殿。窒息してしまいますのでもう離していいですよ」そう言って、日影兵衛が薬を飲み込んだのを確認すると、ようやく頭と顎から手を離した。
「うええ……にが。おい永山殿、薬をまとめて飲まんと意味がないないのか」
「いいえ。日影殿、三回に分けてこう飲まされるのに耐えられますか」無情な永山宗之介。
「はい、口を拭いて」と身動きできない彼の口をたけが拭う。そして
「まだ医者の方が良かった」と言い残して。
薬が効いたのか、それとも怪我の状態が悪い為か、その晩日影兵衛は正体を失った様に眠ってしまった。その騒ぎのせいか、前田主水と永山宗之介、おたけもぐったりと眠りに落ちている。
りんだけは日影兵衛が心配で、彼の横に座ったまま熱を冷ます様に額の布を取り替えては汗を拭きつつ彼から目を離さなかった。
そして何度めかの汗を拭くとき、いきなり日影兵衛に腕を捕まれ無理やり抱きしめられた。予想外の展開にりんは声も出ない。顔を彼の頬につけられ、左手で身体を抑え込まれ、その上足は日影兵衛の足に絡めとられる。
りんは赤くなるどころか、声も出せずに硬直すると、日影兵衛がか細い声で何かを言い始めるのを聞いた。寝言の様である。
「おさち、大きくなったな……出るところは出ているではないか……」そういった日影兵衛は怪我した方の腕でりんの胸を揉みしだくと、そのままりんの身体に手を滑らせてお尻を撫でまわした。思わず変な声が出そうになるのを
「日影様、き、き、き、傷口に触ります。それにみなさんが」とりんは真っ赤になって言おうとするが、日影兵衛の頬に阻まれて上手く喋れない。それどころか日影兵衛の口が目の前にある。
りんは身体をぎゅっとして縮こまると、また日影兵衛が
「おさち……何故大人になってから戻ってきた」
りんは日影兵衛が自分の名前では無く他の女の名前、おさちと呼んでいる事に気がついた。
「あ、あの……私りんですけど」と何とか日影兵衛の耳元で
「……おりん……おりんか」日影兵衛はそう言うと、りんを両腕でぎゅっと抱きしめた。おりんの胸が押しつぶされるほどの力であったので、りんは更に身動きができなくなる。
「暖かくて柔らかいな……」そういった日影兵衛の唇はりんの額に触れた。
そしてまた正体を失った様に彼は静かになり、りんを抱きしめた両腕から力が抜けた。
りんは抜け出そうとすれば出来たのに、顔を赤くしながらそのまま日影兵衛にしがみついていた。
夜が開けると、永山宗之介達三人は目を覚して日影兵衛の方を見る。
そこには顔を真っ赤にしながらもふくれっ面をしたりんがまだ日影兵衛の介抱をしているのを目にした。
日影兵衛はたけの用意した重湯を食べ、今度は自分で薬を飲むと「風呂にはいる」と言い出した。
「き、傷にさわりませんか」となんだかおかしな顔をしたりんが言う。
「薬が効いたのか、だいぶ楽になった。ぐっすり眠れたせいか」と彼が言うと、頭から湯気がたつほどに真っ赤になるりん。
「ただ、寒気がするのだ。身体を温めたい」そう言って日影兵衛は立ち上がろうとする。
永山宗之介と前田主水はまた買い物に出ていたので、りんとたけが日影兵衛の身体を支えた。
「そういえば、ここの湯は神経痛と筋肉痛、関節痛、疲労回復、冷え性、切り傷にいいとかずらずら書いてありましたね」とおたけが言う。
「丁度いいではないか。関節も痛いし、まだ疲れが残っている。傷にもいいのか。……寒気がするのは冷え性では無いのだか、
「少しだけですよ」とたけが折れた。言い出したのは自分である。
しようがないので、りんとたけは日影兵衛を脱衣所まで連れていく。そして着物を脱ぎ始めた彼からも目を離さない。また倒れやしないかと心配だったのだ。
「なんだお前ら。俺の
日影兵衛は全裸になりながら風呂へ入っていった。入浴用の
慌てて風呂の扉を開けるふたり。
「だからなんだというのだ。着物を着たまま風呂にはいるつもりか」と、ぼやあんとして首まで
がらがらと扉を閉めるりんとたけ。
「でも心配です」と、りん。
「そうね。私達も入ればいいんだわ。でも湯帷子はないみたいだけど」と辺りを見回したたけが言った。
「も、もう全く恥ずかしくありません。湯帷子無くても入れます」とりんは言って着物を脱ぎ始めた。
「そ、そうなの。まあ、私は元から平気だけど。お風呂には日影様しかいないし」そう言ってたけも着物を脱ぎ始める。
そしてふたりはまた風呂場へ入っていった。
「だからなんな……」日影兵衛はそこまで言うとふたりの裸を見つめた。りんとたけはいくらか顔を赤くしたものの「私達もお風呂に入ります」と言って日影兵衛の両脇から湯に入った。ふたりは日影兵衛の肩に自分の肩が触れるほど近寄っていく。
日影兵衛は「へ」といって、たけに顔をむけ次に穴が開くほどりんを見つめた。
「ひ、日影様がお風呂で溺れやしないかと心配なのです。私は日影様の身の回りのお世話をしなければなりませんから」と顔を赤くしつつりんはなんとか言いきった。
三人が風呂から上がり部屋に戻ると、妙な空気が流れ始めた。お互いの顔が見えない様に座る三人。
「と、ところで日影様、昨日の夜なんですけど……何も覚えていませんよね」とりんは勇気を出して聞いてみた。
日影兵衛は「……お前が自分の事をりんと呼んだ辺りから
そこに前田主水と永山宗之介が「精力のつくものを買ってきたぞ」と帰ってきた。
「せ、精力」と言ってりんはいきなり立ち上がると、部屋を出て襖をぴしゃりと閉めた。
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