第五話 箱根の湯 前田主水

 「いやあ、小田原ではえらい目に合いましたな」

 少しもえらい目に合わなかった前田主水が言った。

 「おりん殿、傷の具合はいかがか。命あっての物種だ。儂がいればそのような目に合わせなかったものを」

 こんな調子で前田主水は喋り続けている。

 それを聞かされている日影兵衛とりんは、いささかげんなりとしていた。

 しかし、前田主水はただ騒いでいるだけではなかった。小田原から彼等の後ろにつかず離れずにいる五人組に気がついていた。日影兵衛と彼はりんを気遣ってゆっくりと歩を進めていたが、五人組は追い抜こうともしない。

 街道で大の男がこんなにのんびり歩いているとは怪しい事この上なかった。

 それに日影兵衛は気がついているのか、後ろを歩く彼にはわからなかった。しかし気がついていないとは思えない。日影兵衛は前田主水の数段上を行く剣術使いである。

 などと考えていると「箱根湯本は一夜湯治いちやとうじにするぞ」と日影兵衛が言い出した。思わず「えええ」と声を上げるりんと前田主水。

 「何が『えええ』だ。小田原に長居しすぎた。それで十分であろう。温泉に寄るのだから約束を破る訳ではない」などと彼は冷たくあしらおうとする。しかし、それを聞いてりんはしょぼくれるようにうつむいてしまった。全ては彼女が怪我をおい、具合が良くなるまで留まったのが原因なのである。日影兵衛は口を滑らせたかと、慌てて「傷に効く湯もあるであろうし、では二日にするか」と珍しく前言を撤回した。

 そして「おりん、そこで少しは養生するのだぞ」と彼は頭を低くしてりんを覗き込みながら言う。

 全くこの御仁ごじんはおりん殿に辛く当たりたいのか、甘やかしたいのか、さっぱり判らんと前田主水は心に思った。

 

 箱根湯本に着くと、りんと前田主水は早速旅籠を探し始める。無論温泉が引いてあるのが条件である。日影兵衛は自分を恨みながら、寄ってくる湯女ゆなをあしらっていた。

 「日影様、ここにしましょう。如何どうですか」と、りんはしょぼくれていたのを忘れたかのように、日影兵衛の袖を引っ張る。雰囲気が変わったのは日影兵衛だけでなくりんもであるようだ。

 「いいな、そこは」と前田主水が言うと「貴様が入ると湯が汚れる。金をやるから別の旅籠を探せ」と日影兵衛にあしらわれた。

 金を受け取る時に日影兵衛が自分の刀の柄を軽く叩きながら「奴らの顔を全て覚えているか」とささやいた。前田主水は軽く頷くと「そんなぁ」と言いつつ、彼は別の場所を探しに行った。

 日影兵衛とりんは旅籠に入ると一階の部屋に通された。りんはかなり嬉しそうである。温泉など一度も行ったことがなかったのだ。日影兵衛と旅を始めて、彼女には初めてがたくさんあった。小田原城を眺めてはこんなに大きな建物がなどと驚いていたくらいだ。

 ふたりは旅装を解き人心地すると、いきなりりんが立ち上がった。「温泉温泉」とはしゃぎ始める。

 「少しは落ち着いたらどうだ。温泉は逃げやしない。まずは飯にしろ。そうすれば何も気にすることもなくゆっくりと入れるではないか」とたしなめられると、りんはふくれっ面をしながら正座した。

 そして食事の用意ができたと伝えられると、りんはさっさと夕飯を平らげて部屋に戻りまた「温泉温泉、温泉に行ってまいります」と言って部屋を出ていった。窓際で煙管きせるをふかしていた日影兵衛は「だんだん生意気になってきたな」と言いつつも、その口元は笑っているように見えた。

 りんは、旅籠の人に湯帷子ゆかたびらはありませんかと聞く。平塚から小田原までの旅の中、湯屋で覚えたのだ。それは銭湯などに入るとき着る浴衣のようなものである。しかし「そんな上等なものなどあるものか。そんなに沢山客を泊められる宿ではないし」とあっさり言われてしまった。

 しょうがなく脱衣所に入ると日影兵衛に買ってもらった小袖や帯などを大事そうにたたみ、鍵付きの衣棚ころもだなにしまい込む。そして手ぬぐいで前を隠す様に温泉へと向かった。湯屋では湯帷子を着ていたのであまり恥ずかしくはなかったが、やはり裸というのは心もとなかった様である。他の客がいるのか、途中で来るか分からない。しかし丁度いい具合に他の客は居なかった。独り占め状態である。りんは広い湯船を見て感心した。湯屋はいつも混んでいてゆっくりできなかったのだ。

 そして丁寧にかけ湯をすると、早速温泉に入る。肩まで浸かると「あっはぁ」などと声を出す。それほど気持ちが良かったのだろう。右腕の傷をさすりながら「何回入れば傷に効くのかな」となどと言いつつ温泉を満喫する。

 そんな感じで気持ちよくつかっていると、がらがらという扉を開ける音がした。そちらを向くと、入ってきたのはふんどし一丁の日影兵衛である。何故か刀を持ち込んでいた。

 「な、な、な」と言って口のあたりまで湯に潜り込むりん。この時代と言えば混浴が当たり前であったのであるが、流石に顔見知りの男とふたりっきりになるとは思いもしなかった。それも相手は日影兵衛である。

 日影兵衛はかけ湯もいい加減に温泉に入り「ぷはぁ」と声を上げた。ちなみに褌も入浴用の物がある。

 褌はあるのに湯帷子がないのはこれいかに。

 りんが身体を隠すように彼を見つめると、日影兵衛はりんの方に振り向いた。

 「何だ、湯でも飲んでいるのか」と頭半分しか出していないりんを見て言う。りんはできるだけ彼から離れるように、ずりずりと移動をし始めている。

 「何故そう離れるのだ。話しづらい」とまた話しかけてくる。その上「おい、おりん。背中を流してやろうか。その代わりに俺の背中も洗え」などと言い出した。りんの気持ちなど考えてもいないようである。

 「けけけ、結構です」とりんは言ってまた口まで湯に浸かりながら更に日影兵衛と距離を取ろうとする。早く温泉から逃げだしたくなったのだが、日影兵衛がこちらを見ている手前なかなか湯から出られない。

 「お前は結構長湯だな。のぼせないように早めに上がれよ」と、りんにとって無茶振りする。もしかしたら真面目に言っているのかも知れないが、りんには裸をさらす様な真似は出来なかった。

 日影兵衛はそこまで言うと温泉のふちに寄りかかり、夜空を眺め始めた。

 

 もともと日影兵衛は町人の出である。もとの名は兵助へいすけと言った。反物たんものを扱う大店おおだなの長男であり、姉がふたりいた。

 隣は呉服屋でひとり娘のさちという幼馴染がいた。年の差は今の彼とりんくらい離れていたが、仲良く遊んでいたものである。ねぼすけのさちと朝から遊ぼうと呼びに行くのが日課であった。母親や姉の着付けを見て覚え、うすららぼけたさちに着物を着せるのが得意になっていた。

 そんなある日、彼の店とさちの店に強盗が入り、火をつけられて全焼してしまったのだ。生き残りは彼ひとりであった。親や姉だけではなく、あれほど仲良くしていたさちも失ってしまったのである。彼の悲しみは計り知れなかった。その強盗犯はのち黒錦党こっきんとうと呼ばれる一味であることが判明した。未だに捕まってはおらず犯行を続けている様であった。

 しかしその時の彼にはそのような事を知ってもどうしょうもなかった。彼ひとりではどうすることもできなかった。

 彼は親戚に引き取られたが、丁稚でっちの様に扱われ辛い日々を送ることになった。

 そしてとうとう彼はその家を逃げ出した。ろくな金も食料も持たずに。仕事が辛かったのか、敵を取るためか。

 そんな訳で当然の如く行き倒れてしまった。そこにたまたま通りがかったのが日影石流斉という武芸者である。日影石流斉は彼を拾って自分の道場へ連れ込むと片手間に剣術を教えてみたのだが、その子供が天賦の才を持つことに気がついた。

 因みに日影石流斉の腕は確かだが、弟子の一人もいない貧乏剣術家であった。道場の経営がからっきしだったのである。名前だけは日影残真流ひかげざんしんりゅうと凄そうなものを掲げていたのだが。

 そして日影石流斉はこれは良いとばかりに、彼を徹底的に鍛え始めた。

 かなりしごかれた結果、年若くして彼は免許皆伝を与えられ、名を日影兵衛と改めた。その免許皆伝を与えられた日、日影石流斉に「お前は何事か隠しておるな。日頃夜中に鍛錬していたのは何だ」と問い詰められた。そして「儂にその身に付けたものをみせよ」と言うと、ふたりは木刀を持ち対峙した。

 そこで日影兵衛は我流の無影剣を繰り出してみせたのである。しかし日影石流斉も腕をならした武芸者だ。まだまだ未熟な無影剣を破り、その上日影兵衛を壁まで吹き飛ばした。「なかなか面白い剣だ」と日影兵衛を見てそういった。

 「兵衛よ、お前に足りないのは他者との交流である。見聞を広めよ」そう告げられると、日影兵衛は旅立ったのであった。

 

 日影兵衛はそんなこともあったかと思うと、またりんを見た。困ったことに、りんは真っ赤にで上がっていた。

 日影兵衛はりんを湯から引き上げると、その頬をぴちぴちと叩いてみる。「ふいい」と声を出したりんを見てほっとすると、彼女を抱え上げ女の脱衣所にそっと連れて行く。

 りんはそこで正気にかえると自分を見つめる日影兵衛の姿を見、そして抱きかかえられた自分の格好を見た。声にならない叫び声を上げて逃げるように彼から離れると、のぼせて赤くなった顔を更に紅潮させて口をぱくぱくさせながら日影兵衛を追い出した。

 

 その頃、前田主水は町をうろついていた。あるものを探していたのである。そしてそれを見つけた。五人組のうちのふたりだ。そのふたりは狭い横道から日影兵衛とりんの泊まっている旅籠を見張っていた。

 前田主水は大廻りして後ろからその横道に入ると「追い剥ぎではないな。かどわかしか。りん殿は美しいからな」とふたりに後ろから声をかけた。既に刀は抜いている。

 五人組は全員でかかればふたりの侍ごとき倒せると思っていた様だ。

 いきなりそう声をかけられたふたりは刀を抜き放つと、前田主水に襲いかかった。

 しかし前田主水はひとりの刀を跳ね上げると、もうひとりを袈裟斬りにし、また向かって来た男の刀をつばで受け止めた。

 「これがいかん。こういう剣を振るうから日影殿は弟子にしてくれんのだ」と彼は闘いの最中さなかにそう言いながら相手の刀を巻き上げるように弾き返し、その喉笛を掻き切った。

 そして絶命したふたりを引きずると、物陰に隠してもと来た道へ帰って行く。

 大通りに戻ると、また五人組のうちのふたりを見つけた。日影兵衛らが泊まる旅籠の横道の奥である。周りを見渡すが、五人目は見当たらない。

 今度はずかずかと正面から入っていく。そして「風呂なら襲えるとでも思ったか」と刀を抜きざま声を放って駆け寄った。

 刀をを抜こうとしたひとりの刀の柄を押さえ込み、片手でもうひとりを切り飛ばす。そして柄を抑えられて刀を抜くことができないもうひとりを袈裟懸けに切り払った。

 前田主水はふうっと息を吐くと「今度は及第点かもしれぬ」と言って大通りに戻る。

 またうろうろと通りを行き来すると、最後のひとりを見つけた。茶屋の縁台に座り、団子を食っている。前田主水は一旦物陰に入り何やら細工をこしらえ始めた。

 「何だあいつは。さぼりか、それとも使番つかいばんか」と前田主水はつぶやくと、懐に手をいれ、酔っぱらいの様にふらつきながらその男に近づいていく。そしてつまずいた様に見せかけて最後のひとりにぶつかると「おっと御免よ」と言ってその場を離れた。その男の心の臟には深々と細い包丁の様な刃物が握りの部分まで刺さっていた。

 その男はしばらく座ったままの格好でいたが、茶屋の娘に声をかけられた拍子に縁台から崩れ落ちた。既に死んでいた。それをみた大通りを行き交う人達は大騒ぎになってしまった。

 

 その頃日影兵衛はのぼせて動けなくなっているりんの横に座り、団扇うちわあおいていた。一応、小袖は身体にかけてやっている。

 「何故俺はこんなことをしなくてはならんのだ」と愚痴をこぼしながら扇ぎ続ける日影兵衛。

 そこへ開け離れた窓から紙に包まれた小石がひとつ飛び込んできた。

 日影兵衛はその紙を広げると「片付けたか。矢張りそれなりの腕を持っている」と言って、再びりんの方を見た。もうこんなことは御免だという顔をしていた。それはりんを介抱することか、付け狙われることなのか。

 

 翌日、早朝からまたりんが温泉に行こうとする。裸を見られたのも懲りずに気に入ったらしい。それなりに顔を赤くしながら「あれば事故です事故です」と自分に言い聞かせているようだ。

 「風呂は一日七回までだぞ。そう言う決まりだ。のぼせてももう世話してやらん」という日影兵衛に、りんは「私が戻るまで入って来ないでください」と逆に強く言い返して部屋を出ていった。

 日影兵衛は「やれやれ」と言うと旅籠から外に出た。そこには小奇麗になった前田主水がいた。

 「どうです、日影殿。上手くやって見せたでしょう」と彼は自慢げに言うと「六十点と言うところか。何故刀を奪わない」などと返されて「そんな無茶な」とがっくりした。

 

 そして翌日、三人は箱根湯本を後にした。散々温泉に浸かって満足げなりんと「あれはこう、ここはこう」と何やら復習している前田主水を引き連れて日影兵衛はぶすっとした顔をしながら歩いている。

 「次は箱根の関所だ。まあ、問題が起こるとは思えんが。おりんは手形を持っているのだろう。他の証文は何を持っているか」と聞いてきた。

 「本当は姉と一緒に京へ連れられて行くはずでしたので」と言いながら、女手形と往来手形、留守居の証文を取り出した。

 「これだと昼間関所を通る事になるな」と日影兵衛は言って、りんにそれらを返した。

 「儂も持っておる」と前田主水が言うと「俺を逃したら関を越えてまで追ってくるつもりだったのか」と日影兵衛はあきれた顔をした。

 「江戸で頻発ひんぱつしている辻斬りはほとんど日影殿の仕業にされている。倒せば名が上がるだけではなく賞金も出るのだ。誰かが日影殿の仕業とふれ回っているようではあるが」

 「お前は疑問に思いながらも俺を襲ったのか」そう言って日影兵衛は前田主水をにらみつけた。

 そしてそれぞれ別の思いを頭に浮べながら、三人は箱根の関へと向かって行った。

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