第6話

6、

 警察署を後にしたきみは、今度は路面電車トラムを使った。

 車窓を眺めることしばし、降りてすぐ目に着いたファストフード店で、きみは少し早い昼食をとる。チーズバーガーにフライド・オニオンリング。一応、ウエストが気になっているきみは、チョコレートアイスを涙を呑んで我慢した。コーヒーを飲んでくつろいでから、重い腰を上げる。駅から遠ざかるように進む。

 道はやがて、マルシャル・ファヨール大通りにぶち当たった。中型以上のトラックが行き交う幹線道路を、歩道橋で越える。たいした登りでもないのに、ふう、ふう、と息が切れる。汗が噴き出してくる。

 いつの間にか、商店よりも中層の集合住宅や一戸建てが目につくようになっている。中流階級ラ・クラース・モワイヤン向けの住宅地。右も左も代わり映えのしない、適度に清潔で、適度に洒落た街並み。

 黙々と歩きながら、きみはどうして自分にこの事件が割り振られたのか、遅まきながらようやく思い至った。

 きみが辞めるまで、二週間のタイムリミットだ。無能な探偵に、大した仕事が出来るわけはない。会社は面倒な役割をきみに押し付けつつ、遠回しにジュリー・バローの依頼を無効にするつもりなのだろう。まさに一石二鳥だ。

 急激に減退してきたやる気をなんとか奮い起こしているうちに、住宅街の反対側のはずれまでたどり着いた。リピュブリーク大通りである。

 大通りを挟んで向かいには、レストランや大型の食料品店、自動車の販売店などが並んでいる。それらの奥は、造成中の宅地のようだった。通りに沿って左に歩いていく。

 シャルル・デュピュイ通りとリピュブリーク大通りの交差するところに、問題の無人店舗アンマァンドゥ・ストアはあった。中層建築の一階で、なるほど、店の前には広い駐車場がある。店の外装は前面がガラス張りである。夜間、灯りのついた店内はさぞよく見えただろう。再び疑問。ほんの少しタイミングを計れば、客のいない時を狙えたはずなのに、どうして?

 きみは店に近づいていく。事件からひと月が経っている。品物が散らかっているわけでも、黄色い現場保存テープが張ってあるわけでもない。忌まわしい出来事を連想させるものは見当たらなかった。

 アプリを起動させ、自動ドアの前に立つ。

《いらっしゃいませ》

 電子的に作られた女性の声が出迎えた。

 店内はとりどりの商品が陳列棚に並んでおり、あいまにデジタル・サイネージが映し出されている薄型ディスプレイが幾つか立っていた。タバコや酒類、電子機器などは、すぐには持ち出せないガラス扉付きショーケースの中だった。ガラス扉にはもちろん、傷一つない。傍のタッチパネルで商品を選ぶと、取り出せるようになっている。

《お求めの商品は何でしょう》

 きみに動く気配がないので、ナビゲーション・システムの方から尋ねてきた。

 きみは紙製のカゴを手にとって歩き、お気に入りの焼菓子(フランボワーズのサブレ)の紙パックと、ペットボトルのミルクティをカゴに入れる。

 歩きながら、天井付近を見渡す。防犯カメラは、分かる範囲で、入ってすぐ右手上にひとつ。左の奥にもうひとつあった。あと三台あるはずだが場所は分からなかった。

《他にお求めのものはございませんか》

 きみが立ち止まっているので、またナビゲーションが話しかけてきた。きみは、ぐるりと店内を廻る。洗剤のディスプレイは、左のカメラの真下辺りにある。床は綺麗に磨かれていた。

《ありがとう御座いました》

 声に送られて外に出た。

 ぶらぶらと歩いて今度は、建物の裏手に回る。すぐ後に、白い壁に赤い屋根の住宅と、モスグリーンの屋根にクリーム色に塗られた家が二軒並んでいた。どちらかが目撃証言をした主婦の家だろう。試しにインターホンを押してみたが、二軒とも反応がなかった。

 仕方なく駅のほうに引き返す。散策するみたいに、往路いきとは違う道を歩いていると、こじんまりとした公園に行き当たった。中から子ども特有の、よく通る高い声が漏れてきた。

 きみはアンの柔らかく巻かれた、栗色のくせっ毛を思い出す。あれは絶対、ケイトに似たに違いない。きみの毛は黒くてこわいのだ……。

 頭をひとつ振ると、きみは公園を通り抜けるため足を踏み入れた。

 公園の敷地は、ぐるりと樹木で覆われている。手前に噴水があり、その周りに砂場がひとつと遊具が幾つか配置されている。幼稚園児らしき子どもたちが、きゃっきゃと歓声を挙げ、母親たちは傍らで、おしゃべりに夢中のようだった。

 折角の機会だ。きみは、なるたけ人がよく見えるように、にこやかに近づいていった。

「あのう、ちょっとよろしいですか」

 女たちはピタリ、とおしゃべりを止めると、ジロジロと無遠慮にきみを眺めた。

「ひと月ほど前、この近くの無人店舗U・Sで、強盗事件があったのをご存知ですか?」

「知ってますけど、あなた、どなたですか」

 リーダー格らしい、髪の短い痩せた女が、警戒心を剥き出しにして訊き返してきた。とっておきの笑顔は通じなかったらしい。

「申し遅れました。私……」と言って、きみは懐から名刺を一枚、取り出した。手前にいたピンクのプラスチックフレームの眼鏡をかけた女が受け取った。

「フリーライター?」

 女たちは好奇心をそそられたらしく、名刺を覗き込んだ。いざというときのために、きみは何種類かの名刺を持ち歩いているのだ。

「今度〈アントワーヌ・ボワシ〉誌で凶悪犯罪の特集を組むことになりまして。なにせ、いまや社会問題ですから」

「あら、あのときの犯人って、捕まったのかしら」

「いえ、まだです。でも警察はギャング団アイヤールの犯行の可能性を考えているようですが」

 きみは、ゴシップ記事で有名な写真週刊誌の名前を挙げて、でたらめを並べた。

 そうなのよ、物騒よね、と女たちは顔を見合わせて頷きあった。なんとか喰いついてくれたようだ。

「事件当夜の様子を調べてまして。皆さん、亡くなったバローさんは、ご存知でいらっしゃったんですか?」

 皆が一斉に頷いた。

「どんな方だったのでしょう?」

「とってもいい旦那さんでしたわ。みんなで協力して公園を掃除したときなんかも、積極的にお手伝いしてくださって」

 〈リーダーさん〉が嘆息した。

「お休みの日なんか、お二人でよく、お買い物に行ってらっしゃってたわ」

 派手なスウェットの女が引き取る。

 いつまでも仲がよろしいですね、なんてからかったりしてたんですよ、と声を詰まらせたのは、後ろで髪をまとめた背の高い女だ。一同がしんみりとなった。

「そうですか……。ところで皆さん方の中で、事件の日、何か見たり聞いたりした方はいらっしゃいませんか」

 その場にいた全員の視線が、ひとりの女に集まった。注目を浴びて、背の低い小太りの女はーーちょっと親近感の湧く体型だったーー視線を泳がせた。

「ボワレーさん、何かお聞きになったんでしょう」

 そうですわよね、と〈リーダーさん〉が念を押すように言った。〈小太りさん〉は、カクカクと人形のように首をタテに振る。とすれば、彼女がヴィコの言っていた〈目撃者〉なのだろう。

「ほう、どんな?」

 きみはとぼけて訊く。つっかえつっかえしながら、事件の日の様子を〈小太りさん〉は話した。しかし、ええと、とか、ああ、といった余計なものを省いて整理すると、話の中身はヴィコの情報と大きな違いはなかった。

「それでは、特に目撃した人物とか車とかはなかったんですね」

 失望を押し隠して、きみは話を続けた。

「すみません。なんにも……」

 何故か謝りながら、〈小太りさん〉は小さくなって答えた。いえいえ、と労いながら、

「他にその日のことで、何かご存知の方はいませんか。不審な車を見たとか」

 一様に首を捻る中に、ひとり、砂場の方をちらり、と流し見た女がいた。さっき名刺を受け取った〈眼鏡さん〉だ。砂場では少女がひとり、トンネルを作って遊んでいた。よくよく観察すると、少女の周りには他の子がまったく寄りついていない。少女は黙々と、ひとり遊びソリテールをしている。

「不審な車って言うか」

 〈眼鏡さん〉が、こらえきれないように話し出した。

「クラーセンさんのお家の前で……」

「マルローさん」

 〈リーダーさん〉がぴしゃりと、押し止めるように言った。

 〈眼鏡さん〉が吃驚したように口を噤み、次いで不満げに膨れた。叱られたのが納得できない子どもみたいだった。しかし、〈リーダーさん〉に睨まれると、慌てて下に目を落とした。

 クラーセンさんって? と、きみが口を開きかけたとき、不意に〈小太りさん〉が息を呑んだ。女たちの目が一斉に、きみの背後に集中する。きみは振り返った。

 そのホームレスSDFは、ふらふらとふらつきながら、こちらに向かって歩いてきた。シャツを何枚も重ね着して、上半身が不自然に膨れている。対照的に、サンダルの上に覗く足首は今にも折れそうなくらい細い。シャツはもはや、元が何色だったのか判別できないくらい黒ずんでいる。手には中身がパンパンに詰まった紙袋を、左右二つずつ下げている。

 ホームレスSDFは、きみたちなど眼中にない様子で噴水に近寄ると、頭に乗っかっていた赤いキャップを外して、ざぶざぶと顔と髪の毛を洗い始めた。ホームレスSDFのがさがさの手は、爪の先まで真っ黒だった。いくら擦っても顔は黒いままで、若いのか年寄りなのかすら分からない。凄まじい臭気が流れてきた。思わず鼻をつまみそうになる。

 女たちは慌てて自分の子どもの傍に行くと、手を引っ張った。子どもがむずかるのもかまわず、蜘蛛の子を散らすように去っていった。声をかける暇もなかった。

 あっという間に、誰もいなくなった。

 取り残されたきみは、ホームレスSDFを恨みがましく見やる。折角、手がかりらしきものが出てきたところだったのに。そんなきみなど眼中にない様子で、ホームレスSDFは隅のベンチに歩いていってごろりと横になった。

 公園を出ようとしたきみは、さっきの女の子だけが、動じた様子もなく砂をいじくっているのを見つけた。きみは辺りを見回してから、しゃがみ込んで声をかけた。きょうび小さな女の子に話しかけているのを見とがめられたら、どんな疑いをもたれるか分かったものではない。

「お嬢ちゃん、一人かい? お母さんは? お名前は?」

 少女は顔も上げずに、黙々と手元を見つめている。しばらく待っても答えは帰ってこなかった。きみは諦めて立ち上がった。

「じぇーん」

 可愛らしいが、無愛想な声だった。

「うん?」

「ジェーン・クラーセン」

 少女は、面白くもなさそうに呟いた。

「ジェーンちゃんか、偉いな。いくつ?」

 指を四本立てて上に挙げた。さすがにこの子に訊いても、情報は得られないだろう。

「みんな帰っちゃったね。ジェーンちゃんはお家に帰らないの」

 無言。

「お嬢ちゃん、お家はどこ?」

 今度は人差し指で、自分の後ろを指差す。

「ありがとう」

 きみは立ち上がって、お礼を言った。少女はとうとう、一度も顔を上げなかった。

 あの大雑把な指差しで、よく見つけられたものだ、ときみは我ながら感心する。クラーセン家は、無人店舗U・Sの裏の赤屋根白壁の方だった。ということは〈小太りさん〉宅は、隣のクリーム色ということになる。

 白く塗られた門は、閉まっていなかった。

 おじゃまします、と声をかけて門を開ける。短い階段を上る。ブザーを押しても反応はなかった。

 二、三歩下がって左手の庭に目をやる。小さな花壇には、赤と黄と紫の花が行儀よく並んで枯れかけていた。きみは再度、立て続けに二回鳴らしてみた。すると今度は、扉が勢いよく開いた。

「やっぱり来てくれたのね」

 中から出てきた女が、満面の笑みできみを出迎えた。ざっくりとした襟の黒いカットソー。萌黄色のエプロン。多分、慌しく束ねた髪。少し充血した瞳が、きみの顔を捉える。口に出さなくても一目瞭然だった。彼女の期待した顔でなかったのだ。空気の抜けた風船みたいに、笑顔がみるみる萎んでいった。

「……何か御用ですか」

 いっきに十も老けたような口調になって、女が言った。

「えっと、私、こういう者です」

 きみは、先程と同じ説明を繰り返した。女は興味なさそうに、煉瓦色の玄関タイルに目を落としている。

「と、言うわけで、その夜の事で何か気がついたことがありましたら、教えていただきたいと思いましてーー」

「何もありません」

 間髪入れずに答えが返ってきた。とにかく、一刻でも早く帰って欲しい、という態度だった。しかし、隣が逃走車らしき音を聞いているのだ。何ひとつ気づかなかったということはあるまい。

「いや、そこを少し思い出して頂けないかと……」

「すみません。体調が優れませんで」

 きみは、あっさり玄関の外に追い出された。鼻先で扉が閉められる。何なんだいったい。きみは呆然と扉を見つめた。

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