孫子を読んだヒグマ

 クビオリは四つ足のまま、一直線に突進……ではなく、めいたちから見て右方向に駆け出した。


「畜生……なまらずる賢いヤツだ。そのまま来たらどタマぶち抜いてやったモンを……」 


 本山は身を震わせて、静かにいら立ちを見せた。横方向に旋回されると、狙いがつけづらい。しかも人間から見て左方向は武器を向けて攻撃しやすいが、右は攻撃しづらい。そこまで理解してこの行動に出たのだとしたら、相当頭の切れるヒグマだ。

 クビオリはサッサッと早歩きして、めいたちの周囲をぐるぐると時計回りに旋回している。めいはこの行動に見覚えがあった。


(ダンクルオステウス……)


 あの巨大怪魚も襲いかかってくる前に、めいと比奈が逃げた岩礁の周りをゆっくりと旋回していた。きっとクビオリの旋回も、それと同じだ。こちらを獲物と認識しているに違いない。

 めいはスキットルを取り出して、中身を全て飲み干した。距離が遠ければライフルの方が有効だが、接近を許したらめいの出番だ。

 本山は旋回するヒグマに正面を向くよう、その場で体と銃口の向きを自転させている。少しでも隙を見つけたら、きっとこの老人は引き金を引くだろう。

 そしてようやく……ヒグマの歩みが止まった。それとほぼ同時に、本山のライフルが火を噴いた。鳥の鳴き声しか聞こえないような藪の中に、けたたましい轟音が響き渡った。

 クビオリの巨体は、見えなくなった。草むらの中に伏せったせいで、ササなどに覆われてしまっているのだろう。


「はぁ……」


 本山は大きなため息をひとつ吐くと、手ぬぐいで額や首筋の汗を拭った。冷たい風に吹かれているというのに、本山の首には滝のように汗が流れている。それも当然だ。ライフルを握ってヒグマと対峙することの緊張感はこの上ないものだろう。今まで数々の殺人的モンスターと戦ってきためいには、痛いほどわかる。現にめいも、握り拳の中は汗でぬるぬるだ。

 ややあって、本山がライフルを下ろした。そのとき、めいの右側の高い草が、かさっ……と小さく揺れた。


「……まさかっ!」


 嫌な予感が、めいの全身を震わせた。その予感は、すぐに的中した。黒い巨体が、二人に向かって突進してきたのだ。

 先ほど伏せった場所とは全く違うところから、クビオリは躍り出てきた。ワープ能力でも使えるのかと疑いたくなるほどの、恐ろしい奇襲攻撃だった。さっきの“下っ腹の佐藤”とやらよりもよほど忍者らしい。


「ええいっ! 酔滅旋風脚!」


 めいの旋風脚がクビオリの左肩を打つのと、クビオリが右腕を振るったのは、ほぼ同時だった。クリーンヒットとは言い難かったが、効き目はあったようだ。ヒグマはのけ反り、後方へ退いていった。


「いっつ……」


 しかし……めいの方も無傷とはいかなかった。着ていたダウンジャケットごと、めいの右の二の腕がざっくり切り裂かれていたのだ。ダウンジャケットがなかったら、もっと酷い傷になっていただろう。


 一つ、めいは気づいたことがある。クビオリが撃たれたとき、クビオリはちょうどめいたちが通ってきた道の方に回り込んでいた。そこはめいたちによって踏み固められている上に、本山が刃物で草を切り開いている。クビオリは多分、これを利用したのだ。この中を移動すれば、草を揺らして気づかれることもない。

 草の中に伏せったのは、死んだふりのようなものだったのだろう。自らの死を偽り、油断を誘い、隠密に移動した上で、思いがけない場所から奇襲をかける。悪魔のように狡猾な猛獣だ。きっとこのヒグマは、孫子のような兵法書でも読んでいるに違いない……めいは恐ろしさに身震いした。

 まさか、ヒグマの方が死んだふりをするとは思わなかった。クビオリは体格が大きいこと以外は普通のヒグマだ。サイボーグシャークみたいな派手な武器もなければ、デスワームのような特殊能力もない。知能とフィジカルだけが武器の相手だが、今まで戦った中で一番厄介な相手かもしれない……めいはそう感じていた。

 

 めいはちらと本山の方を見た。本山はちょうど、銃弾を装填しているところだった。おそらく次の射撃は間に合わない。クビオリがそうやすやすと銃を使わせてくれるとは思えなかった。

 めいはあまりの痛さに、右腕を左手でぐっと押さえながら、ぎりぎりと歯を食いしばった。負傷してしまった右腕は、もう武器として使えないだろう。下手にパンチでも打とうものなら、さらに傷が広がってしまう危険がある。


 猛々しい野獣の目が、爛々らんらんと輝いている。絶対に負けるものか、と、めいはキッと睨み返した。

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