第3話 節子

 その夜遅くに、義秋はホテルに戻った。

 フロントに声をかけると、鍵と一緒に手紙を渡された。礼を言って手紙の裏を見る。「井崎良介」とそこには書かれていた。

「良介か…」

 エレベータのドアが開き、乗り込むと自分の部屋の階のボタンを押した。そしてその手紙を開けようとすると携帯電話が鳴り手を止めた。携帯電話の表示を見ると誠二だった。義秋はその表示を確認してから電話に出た。

「はい」

「ヨシアか」

 誠二の少し疲れた声が聞こえた。

「ああ…、どうした。疲れてるな…」

「ああ、激務やけんね」

 誠二はそう言うと笑った。「今日は悪かったね…。一回も顔出せんと…」

「何言ってるんだ。しばらくいるから、また会えるよ」

 義秋の部屋の階に着き、エレベータを降りた。

「明日、街に出るとばってん、時間あるね」

 誠二は少し神妙な様子で言う。

 その声に義秋は廊下の途中で足を止めた。

「ああ、良いけど…」

「朝一、銀行行くけん。それ終わったら電話するけん…」

「分かった…」

 義秋は歩き出し、自分の部屋の前で止まった。「セージ…お前…」

「ん…」

「ちゃんと休めよ…。疲れてるぞ…」

 義秋は鍵を差し込んで部屋のドアを開けた。

「ああ…。そうするよ」

 経営者の誠二の苦労なんて義秋には分からない。ただ眠れない日もあるだろうという事は理解出来た。会社なんて順風満帆な時の方が少ない。寝ずに仕事をする事もあるだろう。

 義秋は電話を切った。そしてベッドに倒れ込んだ。

 正直、昨日は眠れたのかどうか分からなかった。そして今日の政典の話は、出来れば耳を塞ぎたい思いだった。

 ベッドに倒れ込むと一気に義秋の身体から疲労感が吹き出し、気を抜くと一瞬で眠ってしまいそうだった。

 重い頭を軽く振って、パソコンの電源を入れた。そしてベッドの上に投げ出した良介からの手紙を取った。

 封筒の封を開けると、そこには一枚の手紙があった。

「何を調べているのか知らないが、三村健三には近付くな」

 そう書いてあった。そして、封筒の中に一枚の写真が見えた。

 その写真には殺された北陸の代議士、松本栄一郎と、微かな記憶の中にある節子の父親、三村健三が笑いながら握手をしている姿が写っていた。

「三村健三…」

 義秋は写真をじっと見つめて呟いた。

 良介からのこの写真は、一体どういう事なのだろうか。三村健三が殺された松本代議士と繋がっている事が、この写真で分かる。しかし、それを俺に教えて、良介はどうしろと言っているのだ…。その写真に反する様に、三村に近付くなと言う。この情報で手を打ち、これ以上は調べるなと言っているのか…。

 義秋は手に持った手紙と写真をテーブルの上に放り出し、ベッドに横になった。

 ホテルの薄暗い部屋の天井を見つめながら、義秋はまどろんでいった。


 気が付くと、カーテンの隙間から光が漏れていた。義秋はその光を眩しそうに見て、ゆっくりと身体を起した。

 あのまま眠ってしまったのか…。

 義秋は皺になってしまったジャケットを脱いで、壁に掛けた。

 テーブルの上に置いていた携帯電話の小さなLEDが点滅している。その携帯電話を取り、着信を確かめた。誠二と会う事になっていたが、それにはまだ時間が早かった。

 着信は節子だった。節子も昨夜は自宅に戻ると言っていた。節子のダンナは市会議員をしていて、なかなか自宅に戻らず、子供もいないために自由に自宅と実家を行き来している様子だった。

 義秋は節子の電話を鳴らしたが、節子は一向に出る気配は無い。仕方なく義秋は電話を切った。

 仕方ない…。また後で連絡してみよう…。

 義秋は服を脱いで、バスルームに入った。

 熱めのシャワーを勢いよく出して、頭から浴びた。あの町で聞いた話をすべて洗い流すかの様に。

 シャワーを浴び終えると、腰にタオルを巻いて、バスルームから出て来た。濡れた頭を拭きながらパソコンの電源を入れる。青白い光が部屋の片隅を照らした。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのボトルを取り出し、キャップを開けると、一口飲んだ。乾いた身体を一気に潤す様に染み渡るのが分かった。

 ふと、パソコンの横にあった、良介からの写真と手紙が目に入る。

 その写真に手を伸ばし掛けた時に、部屋のインターホンが鳴った。

 誰だ…。

 義秋は顔を上げて、ドアの方を見た。

「はい」

 大きな声でドアの向こうの人物に言った。

「あ、私…節子」

 節子…。

 義秋は腰にタオルを巻いた状態だった。

「あ、ちょっと待ってくれ」

 そう言うと下着とジーンズを穿いた。肩からバスタオルを掛けてドアを薄く開けた。

 節子は一人、手に何かを持って立っていた。

「ごめん、直接来て…」

 節子は申し訳なさそうに頭を下げる。

「いや…良いけど、どうしたの」

 義秋は濡れた前髪を気にしながら言う。

「朝ご飯、まだやろ…。サンドイッチば作って来たっちゃけど」

 節子は手に持った包みを見せた。

「あ…」

 義秋は上半身裸のままだった。自分の姿を少し気にしたが、ドアを大きく開けて、「入りなよ…。」

 と節子を招き入れた。

 節子も躊躇する事無く、義秋の部屋に入って来た。義秋は先に部屋の奥へ歩き、慌てて良介から渡された写真と手紙を手帳に挟んだ。

「電話くれたんだな。さっきまで寝てて…」

 そう言いながらテーブルの上のパソコンを部屋に備え付けてある机の上に無造作に置いた。

「あ、うん」

 節子はコートを脱いで手に持っていた。義秋はそのコートを受け取って壁のハンガーに掛けた。

「朝、食べとったら、無駄になると思って」

 節子は義秋が片付けたテーブルの上にサンドイッチの入った包みを置いた。

「いや、まだだよ。嬉しいな、一緒に食べよう」

 そう言って節子をテーブルへ座る様に促す。節子もコクリと頷いて、椅子に座った。

 義秋は頭を乱暴に拭き、バスタオルをバスルームの前に置いてあった籠の中に放り込み、白いワイシャツを羽織った。

 節子は包みを開けて、テーブルにサンドイッチを広げる。そして、持参したポットを出して、部屋のコーヒーカップに熱いコーヒーを注いだ。

「神谷がね…」

「ん…」

 神谷一馬。節子のダンナだった。この街の市会議員をしている。

「神谷がこだわって飲んでるコーヒー。結構良かコーヒーらしかけん…淹れて来た」

 カップの音をカチャカチャとたてながら、テーブルの上に置いた。

「ほう。さぞかし美味いんだろうな」

 義秋は節子の向かいに座った。

「食べて…。味の保証は無かばってん」

 節子はサンドイッチを包んだラップを開いて、義秋に勧めた。

「頂きます」

 義秋は手を合わせると、節子の作ったサンドイッチを口に放り込んだ。カラシが鼻に抜ける。義秋はカラシの効いたサンドイッチが好きだった。学生時代に節子が時々作ってくれたサンドイッチは、いつも義秋の好みでカラシが効いていた。節子はそれを覚えていてくれたのだろう。

「カラシ、思い切り塗ってきたけんね」

 節子は微笑んで言う。

「覚えてたのか…」

 義秋は嬉しくなった。そして、二つ目を口に放り込んだ。

「うん。何処まで味音痴なんやろうって思いながらあん頃は作っとったばってん、大人になるとこれが私も分かって来たとよ…」

 節子もサンドイッチを一口かじった。カラシの強さに目を白黒させている。義秋はその節子を見て頬を緩めた。

 コーヒーを飲む。確かにしっかりした味のコーヒーだった。味も良い。かなり高価なコーヒーだという事は分かった。

「うん。コーヒーも美味い」

 カップをテーブルに置き、腕を組んで身を乗り出した。

「でしょ…。神谷ば褒めるところなんてあんまり無かばってん。味覚だけはしっかりしとるとよ」

 そう言うと口を押さえて笑う。

「それじゃ料理も大変だろ…」

「ううん。ほとんど作らんけん。久しぶりに誰かのために料理したかもしれん」

 節子は義秋に微笑む。「ほら、ヨシアのために作ったとやけん、食べてよ」

「あ、ああ…」

 義秋はまだ沢山残っているサンドイッチに手を伸ばした。「でも、良いのか…。こんな男のところ訪ねて来たりして…」

 少し冗談交じりに義秋は言う。

「うん。結構自由にさせて貰っとるし…。神谷は帰って来んし…」

「そうか…。忙しいんだな、神谷さんも」

 義秋は何気無く節子に言って微笑んだ。「あ、そうだ。今日、これからこっちでセージと会うんだ。何か銀行に行くついでだって言ってたな。どうだ、一緒に…」

 節子とこうやって向かい合い、二人きりで話す事など無いと思っていた。それどころか、つい数日前まで、会う事も無いと思っていたのだ。

 しかし、実際にこうやって二人でホテルの部屋で食事をしていても、何の違和感も無く、昔の二人の様な感覚だった。サンドイッチの好みも覚えてくれていた節子。二人の時間は同じ様に巻き戻ったのかもしれない。

「ううん。やめとく。セージもヨシアに話したか事あるとかもしれんけんね…」

 節子は軽く首を横に振って言った。

 確かに、節子がいると話し辛い事もあるかもしれない。

「そうか…。分かった」

 義秋は目一杯、節子に微笑んだ。

 節子も義秋に微笑む。その笑顔は義秋の記憶の中だけにある節子のままだった。確実にトシを重ね、あの頃の若々しい二人とは違っている。しかし、胸の中であの頃のときめきに似た何かが燻っている様な感覚だった。もちろん昔、身体を重ねた事もある。少し理性のバランスを崩せば、今にもそうなりそうな空気を二人はお互いに感じていた。

「あん町におったら、ずっと魚やろ…」

 節子はコーヒーを飲みながら言う。

「そうだな。都会では考えられない程、贅沢な話だけどな…」

「そうたいね…。ばってん、それも飽きたとじゃなかかと思ってね…」

 確かに豪勢な料理も良いが、飽きる。義秋も今日は肉を食べようと思っていた。

「あ、そうだ…。節子、今晩、一緒に飯でもどうだ。サンドイッチの御礼に…」

 節子は少し驚いた顔で義秋を見た。

「私は良かけど…。良かと…」

「ああ、夜は予定も無い。何なら迎えに行くよ」

 節子は嬉しそうに笑う。

「じゃあ、夕方、ここまで来るけん」

 義秋は小さく頷いた。

「お洒落してこいよ。何十年振りかのデートだ」

 義秋の言葉に節子は力強く頷いた。


 国見は署内の廊下を走っていた。対策本部になっている会議室を覗き、中を見渡す。

「どうした国見…」

 そう声を掛けたのは国見の同僚の刑事だった。

「向井さん、見なかったか」

「向井警部補か…」

 そう言うと部屋の中を見渡す。「ここにはいないな…」

「そうか。ありがとう」

 国見は礼を言うと再び走り出す。幾つかの部屋を見てはドアを閉めて走るのを繰り返す国見。その様子を向かい側の建屋の窓から向井は見て微笑んだ。

 向井は携帯電話を取り出し、電話をかけた。すぐに国見は電話に出た。

「向井さん、どこにいるんですか」

 国見は息を切らしながら開口一番、そう言った。

「署内の運動会はまだ先だぞ…。どうした」

 向井は国見にそう言うと笑った。

「分かりましたよ。例の北陸の…」

息を整えながら国見は言う。

その言葉に向井も顔色を変えた。

「国見…。外に出よう。下で待ってる」

 向井は電話を切ると、国見さながらに署内を走って行った。


 誠二はスーツ姿でポケットに手を入れ、義秋の泊るホテルのロビーに立っていた。

「よお、ヨシア」

 その田舎ヤクザみたいに見える誠二を見て、義秋は笑った。誠二もその自分の格好を笑われている事に気が付いた様で、

「しょんなかろうが、スーツなんて着慣れとらんっちゃけん」

 そう大声で言うと、手に持ったセカンドバッグで義秋の背中を叩いた。

「その黄色いメガネが問題なんじゃないか」

 義秋は渋い顔をして誠二に言った。

「これは老眼。お前も始まっとろうが」

 二人は歩き出した。

「で、何処行くの」

「ああ、その角曲がったところに喫茶店があるっちゃん。そこ行こうか。昼は天ぷら屋ば予約しとるけん」

 誠二はポケットに手を入れたまま、義秋の前を歩いていた。

 ホテルからすぐのところに古めかしい喫茶店があった。その重いドアを誠二は開けた。

「ここのコーヒー、美味かとぞ…」

 誠二は出迎えたウエイトレスに二人である事を指で示す。

 美味いコーヒーはさっき節子と飲んだばかりだった。評判の喫茶店といえどもあの味は出せないかもしれない。

 義秋はそんな事を考えながら、誠二の後に着いて、窓際の席に座った。

「ブレンド二つ」

 誠二は水を運んで来たウエイトレスにぶっきら棒に注文した。

 義秋は誠二の顔を見て、水を口にした。

「安心したよ…。それほど疲れて無い様だな…」

 誠二は椅子にもたれて足を組んだ。

「疲れとるよ…。もうボロボロたい…」

 誠二は窓の外を見て微笑んだ。

「会社、きついのか」

 義秋は誠二の横顔を見ながらグラスをテーブルの上に戻した。

「そうだな…。順調とは言えんかもしれん。しかし…」

「しかし…」

 誠二は視線を義秋に戻し、身を乗り出した。

「それよりも、例の問題の方が、頭が痛い」

 義秋には「例の問題」が何の事なのか、大体想像が付いたが、敢えて誠二に訊き返した。

「例の…」

 誠二はポケットからタバコを出して、一本咥えるとテーブルの上に包みを投げ出した。

「昨日、マサが話したとやろ…」

 やっぱりその話か…。

 今度は義秋が椅子にもたれた。

「ああ。一通り聞いたよ。そして…」

 義秋もポケットからタバコを出して咥える。「正直、驚愕きょうがくしてるよ」

 義秋はタバコに火をつけた。

「みんな、それはわかっとる。わかっとるばってん、誰も口に出さん」

 誠二も自分のタバコに火をつけた。「昨日、マサがお前に話した事、詳しくは聞いとらんばってん、多分全部…事実やろう」

「だと思う…。魚も目の前で釣り上げたモノを…、この目で見て来た」

 義秋のその言葉に、誠二は小さく何度も頷き、再び背もたれに寄りかかった。

「なあ、ヨシア」

 誠二は少し声を小さくして、身を乗り出した。それに合わせて義秋も顔を寄せる。

「お前、節子に子供がおらんのは知っとるよな」

 義秋は小さく頷いた。

「それ、何でか知っとるか…」

 誠二の小さな声は、それでもはっきりと聞き取れた。そして重さも備えていた。

「いや…そんな話は聞いてないな…」

 誠二は煙を窓ガラスに向かって吐いた。そこにウエイトレスがコーヒーを運んで来たので、二人は椅子にもたれて、話を中断した。

 ウエイトレスは二人の前にコーヒーカップを置くと、一礼して去って行った。

「節子のダンナ…神谷一馬は知っとるよな…。こん街の市会議員たい…」

「ああ…それは聞いた」

 誠二はコーヒーに砂糖とミルクを入れるとゆっくりとかき回す。

「節子の親父は県会議員やったとばってん、国政に出馬するとたい…。そしたら神谷は三村健三の跡を継いで県会議員に立候補するって事になっとると」

「聞いたよ…。良くある話だな…」

 義秋はコーヒーをブラックのまま飲んだ。

 聞けば聞く程に、節子は神谷と政略結婚させられたという話が義秋の中で色濃くなっていく。

「お前、節子に兄貴がおったと覚えとるか」

 誠二はコーヒーカップを口の前まで持って行き、そこで止めた。

 微かに記憶があった。高校生の時に節子といるところに車で通りがかり、節子を半ば強引にさらう様に車に乗せて帰った事があった。義秋はその一度しか節子の兄貴には会っていない。

「確か居たな…」

 義秋はカップを皿に戻した。

 誠二は義秋の顔を上目使いに見た。

「三村龍次。この街で建設会社の社長ばしとる。ほら…」

 誠二は窓の外を指差した。その指の先にはビルの上にある大きな看板が見えた。

「人に優しい未来の街づくりを 三光開発株式会社」

 その看板にはそう書いてあった。

「あの会社か…」

 義秋は日差しを避ける様に手で光を避けて看板を見て言った。

「三光開発…。まあ、この街では結構有名な企業たい」

 義秋は椅子にもたれる。

「それが…」

 そう訊く義秋に、誠二は人さし指を曲げて近くに来いと促す。義秋は誠二の顔に耳を近付けた。

「三光開発は、かなりの原発関連、その助成金関連の仕事を一手に受注しとる」

 誠二はそれだけ言うと義秋から顔を離した。「それだけでん、怪しかろうが…」

 そう言って微笑んだ。

「しかし、原発再稼働には三村健三が先頭を切って反対してるんだろう…。だったらそれは正当な…、いや逆に難しい入札になるんじゃないのか…」

 義秋は少し小さな声で誠二に言った。

「ヨシア…」

 誠二はコーヒーカップを手に持ったままテーブルに肘をついた。「お前は三村と原発の関係を調べに来たっちゃ無かとか…」

 義秋は黙って目を伏せた。

「北陸の松本代議士。あいつは再稼働に反対しながら、原発側から金を引っ張っとったって話ぞ。だったら三村も同じ穴のむじなかもしれん…。普通はそう思うっちゃ無かか…」

 誠二はカップのコーヒーを飲み干した。そして空のカップを皿に戻した。「三村健三も反対しとる振りして、実は賄賂わいろの額を吊り上げとるだけかもしれん。最後は仕方なく再稼働に踏み切る。そげな絵図が完成しとる気がしてな…」

 義秋が調べて来た情報と同じだった。誠二がそれを理解しているという事は、もちろん新聞記者の良介もそれに感付いているだろう。

「こげな街に来ても、ネタなんて他には無か…。お前が調べとるのはそれやろ」

 誠二は目を鋭く輝かせていた。

「セージ…。俺は本当に近くに来たついでに寄っただけだよ…。原発問題はもちろん知っている。だけど、今はそんな記事を書くつもりは無いよ」

 義秋もカップのコーヒーを飲み干した。

 誠二は浅い溜息をついた。そして、下を向く。

「まあ、良かたい…。お前が話したく無かって言うなら…。お前にもそれなりの理由があるんやろうけん」

 誠二は顔を上げて義秋に微笑んだ。義秋もその誠二を見て微笑んだ。

 二人の間にしばらくの静寂が流れる。

 そして、ふと思い出したかの様に誠二が口を開いた。

「節子に子供がおらん理由。言うて無かったな…」

 誠二は脚を広げて膝に肘をつく姿勢で、上半身を乗り出した。

「ああ…」

 義秋はテーブルの上のタバコを取り、火をつける。

「多分、節子は一度も神谷に抱かれとらん」

 義秋は眉をひそめて首を傾げた。

「あん町の人間だっちゅう事で、節子に子供ば生ます事ば拒んどるとよ。生まれてくる自分の子供は自分の跡を継がせる人間にせんといかんって考えとるとたい」

 義秋はまぶたが痙攣する様な感覚を覚えた。

「良かか…ヨシア。節子は平気な顔してお前と話ばしちょるかもしれんけど、あいつは原発の風評被害ふうひょうひがいの代表みたいなモンたい。政略結婚させられた挙句あげく、幸せな家庭も築けんとぞ…」

 義秋は瞬きも忘れて、誠二の言葉を聞いていた。

「三村健三の娘に生まれて、節子には一ミリも幸せなんて無か…。二人の政治家の体裁ていさいのため、兄貴の会社のために犠牲になっとるとぞ…」

 誠二はそこまで言うと俯いた。「まあ、町ば捨てた時に、一緒に節子も捨てたお前に言っても仕方無か事たいね…」

 誠二はゆっくりと立ち上がった。

 義秋は立ち上がった誠二を見上げた。

「済まんかった…つい節子の事になると感情的になるったい…。俺も好きやったけんね…節子の事は…」

 誠二は優しい顔で微笑んだ。

「セージ…」

 義秋は音の出ない声で誠二の名前を漏らした。

「さあ、天ぷらば食いに行くばい」

 誠二はテーブルの上の伝票を掴んでレジへ歩いて行った。


 国見はテーブルの上にプリントアウトした資料を広げた。

 その資料を向井は一枚ずつ取ると目を通した。

「何処からの情報だ」

 向井はその資料を手に、天重の海老を口に入れた。

「樟葉会の竹濱です」

 国見は目の前の天重には手を付けずにじっと向井を見ていた。

「刑事がヤクザから情報貰うとはな…」

 向井は顔色一つ変える事無く言う。「良いから先に食え。天ぷらと情報は熱いうちに食らうのが一番だ…」

 向井のその言葉に国見は箸を割った。

「あのブレイザーのライフルは関東の組織が持ち込んだって事か…」

「はい、竹濱の話では…」

 国見は返事をすると海老の天ぷらを口に入れた。

「出所は…」

「ダカールだろうという話でした」

 向井は視線を国見に向ける。

「ダカール…。アフリカか…」

 国見は海老の下のご飯をかき込む様に食べている。「って事はフランス軍か…」

「いえ…フランスの傭兵部隊ようへいぶたいだろうという話でしたね…」

 国見は滅多に食えない高級な天重を嬉しそうに味わっていた。「西アフリカも内戦が治まって、武器を持っている必要が無くなったんでしょうね…」

 向井は口の中をいっぱいにして話す国見を見て苦笑した。

「で、そのブレイザーで松本代議士をった天才スナイパーは…」

「フライ…」

 国見は海老の天ぷらを箸で持ち上げてそう言った。

「国見…それは天ぷらだぞ…」

 向井は国見に言う。

「いえ…違いますよ…。俺だって天ぷらとフライの違いくらい分かりますよ…」

 国見はテーブルの上に置いた資料の中から一枚の紙を探し出し、向井に渡した。「これです」

 向井はその資料を受け取ると、箸を置いて資料を両手で持った。

「通称「フライ」…。元フランス軍の傭兵部隊に居たそうです。しかし、国籍も性別も分かりません。何処にも情報が無いんです」

 国見はそこまで話すと、天ぷらを口に入れた。「しかし、多分世界一のスナイパーである事は間違いありません」

 フライ…。

 向井はその名前に覚えがあった。

「そのスナイパーは数百メートル先を飛んでいた「はえ」を撃ち落と…」

「撃ち落とす事が出来た事から仲間内で「フライ」と呼ばれる様になった。かなりの高額のギャランティで世界の要人の暗殺を引き受け、たったの一度も失敗した事がない…」

 国見の言葉を遮って、そのスナイパー「フライ」のスペックを向井は口にした。

「知ってるんですか…」

 国見は箸を置いた。

「ああ…俺も昔、聞いた事がある。もっとも、遠い外国で活躍しているスナイパーの話としてな…」

 向井は、手に持った資料をテーブルの上に投げ出した。

「早く食え。コーヒー飲みに行くぞ」

「はい…」

 国見は天重を一気にかき込んだ。


「…だろ…」

 義秋は衝立ついたての向こうから聞こえて来る話を聞いていた。

「ヨシア…聞いとるとか…。」

 誠二に言われて我に返った。

「ああ、もちろんだ…。けどあの時は、お前の逆転パンチで勝った様なモンだろ…」

 義秋は大葉の天ぷらを天つゆに浸けた。

 誠二は中学生の時に、同じクラスの奴と喧嘩した話を必死にしていた。

 フライ…。

 義秋の耳にはその言葉が強く焼き付く様に残っていた。

「ヨシア…」

 義秋は誠二に連れて来られた天ぷら屋で天ぷら懐石を食べていた。

「何だ…」

 そう言うと心地良い音を立ててかき揚げを口に入れた。

「お前、節子と一緒になる気は無かとか…」

 誠二のその言葉に目を見開いた。

「お前、何言ってんの…」

 誠二は箸を置いてお茶をすすった。

「節子には幸せになって欲しかったい。」

 義秋も流石にその言葉には呆れた。

「あのな…節子は神谷の嫁だろうが…。そんなモン連れ去ってみろ…。それこそ全国に手配されるよ」

 義秋は箸の先を振り回して言った。「それに…」

「それに…」

 義秋も箸を置いた。そして静かに言った。

「俺と節子は、遥か昔に終わってるんだよ…。そう虐めるなよ…俺の過去を…」


 義秋と誠二は天ぷら屋を出たところで別れた。誠二は車を停めた駐車場へ歩き、義秋はホテルへ向かった。

 誠二は昔、節子に惚れていた。それは義秋も知っていた。しかし高校も違っていて、誠二は節子と会う事も少なくなり、その間に義秋と節子は付き合う事になった。

 誠二は節子、節子とずっと節子の話をしていた。

 義秋は節子の話をされると、取り返しの付かない自分の過去をすべて否定される様な気がしてならなかった。

 節子と付き合うと決めた日、それは期限付きだという事は百も承知だった。高校を卒業すると義秋は関西へ引っ越す事が決まっていて、それは節子にも分かっていた。 ギリギリになって泣きながら別れるのが嫌だという節子の希望を聞き入れ、高校三年の夏に二人は別れた。

「過去って何ね…。お前は節子と付き合った事が間違いやったって言うとか」

 誠二は立ち上がって義秋に強い口調で言った。剣幕な誠二に圧倒されながら、いきり立つ誠二を静めた。

 むしろ逆だった。あのままこの町に残りたかった。義秋はそう思い、ギリギリまで両親を説得していた。しかしそれは叶わず、高校卒業と共に関西へ行く事になってしまうのだが…。

 義秋はホテルのロビーで鍵を受け取り、エレベータに乗った。

 まだ夕方までは時間がある…。

 義秋は部屋のドアを開け、転がり込む様に部屋に入るとベッドに倒れ込んだ。

 昔の仲間に聞かされる町に淀む様々な話。それを聞く度に耳を塞ぎたくなる思いだった。

 喫茶店で誠二が話した話を鮮明に記憶していた。その情景がモノクロの映像で義秋の脳裏をかき回す。その情景はやけにザラザラしたモノに感じて、不快だった。

 町に帰り、懐かしさと一緒に不快な問題を投げ付けられた気分になった。

「町を捨てた罪と罰か…」

 義秋は見慣れてしまったホテルの天井を見つめてそう呟いた。


 少し眠っていた様だった。

 ポケットの中で振動する携帯電話に気が付いて義秋は目を覚ました。

 慌てて携帯電話を取り出すと、画面にタッチした。

「はい…」

「あ、ヨシア…」

 声の主は智子だった。「寝とったと」

 智子はクスクス笑いながら言った。

「ああ…。寝てたみたい…だな」

「もう、節子はヨシアとデートするって言って、死ぬほど緊張しとるとに…、呑気のんきなモンたいね…」

 智子の嫌味は今の義秋には少し心地良かった。

「デートって言っても飯食うだけだよ」

「まあ、その後は…大人やけんね」

 智子顔が想像出来た。「ちゃんと避妊ばせな、いかんばい」

「お前馬鹿か…」

 義秋もそう言って笑った。

「何か思い出すとよ…」

「何を」

「ヨシアと節子が初めてデートするってなった日の事たい」

 節子と初めてデートした日。確か高校に入って間も無い頃だった。

「あん日もさ、節子が私に電話してきて、どがん服ば着て行こうとか、何ば話そうとか…セックスはするっちゃろうか、とかね…」

 義秋は電話を持ったまま微笑んだ。

「今日も同じやったとよ…節子。何か笑ってしまって」

 智子は節子の電話を思い出して笑っていた。

「済まんな…」

 義秋は微笑みながら智子に言った。

「ヨシアに謝られる事じゃ無か…」

 智子は慌てて言う。「それにあんな嬉しそうな節子、何年も見た事無かったけん、私も嬉しかったと」

 智子の声は弾んでいた。

「そうか…」

「ヨシア…」

「何…」

 智子が電話の向こうで大きく息を吐いた。

「一つ言うとく事がある」

 智子は改まって言った。

「何だよ…怖いな…」

「ああ、怖かよ…私は節子のためなら鬼にでもなるっちゃけん」

 智子の声は笑っていなかった。義秋は少し構える。

世間体せけんていがどうとか、そげん事は私はどうでん良かと…。今日は節子ん事、頼むけんね…。酷か事ばしたら、私がヨシアば殴っちゃるけんね…」

 智子の言葉が今一つ理解出来なかった。

「どういう事だ…」

 義秋は智子に訊き返した。

「相変わらずたいね…ヨシア。鈍かとね…」

 智子は声を出して笑った。「まあ、それがヨシアの良かとこかもしれん…。節子、楽しませてやって」

 義秋は何故か胸のつかえが取れた感じがした。

「分かったよ」

「あ、報告はいらんけんね」

 智子は声を出してまた笑った。

「官能小説を読んでる様な報告してやるよ」

 義秋は笑いながら電話を切った。

 義秋は時計を見た。節子との待ち合わせまで一時間程だった。

 義秋は服を脱いで、バスルームに入って行った。


 洗った髪の水分を手で払う様に取りながら、義秋は鏡を見た。少し伸びた髭を掌で撫でる。そしてシェービングクリームを手に出すと顔に塗った。鏡の前に置いていたT字のシェーバーを洗い、肌に当てる。

 髭を剃りながら、智子の言葉を思い出していた。

 節子とは高校に入ってすぐ、付き合い始めた。当時は付き合うと言っても学校への行き帰りを一緒に過ごすくらいの事だったが、それでも周囲からは冷やかされる事もあった。

 そんな付き合いが始まって間もなく、街でデートしようという事になった。

 智子はその日の前日も節子から電話があり、大慌てだったと言っていた。しかしそれは義秋も同じだった。

 あの日、義秋も緊張を自分一人ではどうにも出来ずに、良介に電話した。


「落ち着けや…」

 良介は呆れて義秋に言う。

「分かっとる。分かっとるばってん、どうにもこうにも…」

 普段の義秋からは考えられなかったのかもしれない。良介はケラケラと笑っていた。

「そげん慌てる事も無かたい。別に明日セックスせないかん訳じゃ無かし」

 良介は冷静にそう言う。

 高校生の男なんてその事しか考えていない。それもある意味正解で、女とデートするとなるとその事ばかりが頭を過る。

「明日はせんけん。大丈夫」

 義秋はそれを決意したかの様に電話の向こうの良介に言う。

「せんとか。そりゃ情けなかったい…」

 良介はずっと笑っていた。そして無責任な事を言って、緊張している義秋をもてあそんでいる。「節子は待っとると思うぞ…」

「何ば言いよっとか。適当な事ば言うな…」

「とりあえず、服は決めたとか」

「ああ…」

「パンツも穿き替えていかなでけんぞ」

「分かっとる」

 義秋は長いコードの黒電話を持って自分の部屋に入る。膝を揺する気も無いのに、その行為は止まらなかった。

「あ、そうそう…」

 良介は思い出した様に言った。

「何ね…」

 義秋も食い付く。

「髭はちゃんと剃っときよ。節子が痛がるかもしれんけん」

 良介は大真面目だった。「肌に当たると痛かけんね…」

「あ、そうたいね…。分かった」

 翌日のデートではセックスはしないと決めたはずなのに、義秋は自分の顎を撫でていた。


 そんな事を思い出し、義秋は鏡に映る自分の顔を見て微笑んだ。

 何てバカな会話なんだ…。

 当時の自分と良介の会話を思い出すと可笑しくなった。

 剃り終わった髭を冷たい水で流し、ローションを叩く様に付けた。

 バスルームを出て服を着るとカーテンを開ける。曇ったガラス越しに夕闇が街を覆い、街の明かりがそれぞれに主張を始めていた。

 義秋が手でガラスの曇りを拭くと、ちらほらと雪が舞い落ちている事に気付いた。

「雪か…。どおりで寒いはずだ…」

 そう呟いた。


 向井は粉雪の中、暮れた街を歩いていた。その足取りは普段より少し早かった。

 信号で立ち止まると、雪の舞い落ちて来る空を見上げた。

「この雪は積らんな…」

 そう呟いて微笑む。

 信号が青に変わり、歩行者用の信号の下に付いたスピーカーが乾いた電子音を鳴らした。

 また向井は足早に歩き始めた。川沿いの細い路地に入ると、その路地をコートを翻して歩く。そしてその路地にある小さな店の前で足を止めた。

 向井はその店の建て付けの悪い入口のドアを開け、中に入った。

 店主の老人は狭い店の厨房で料理を作りながら、ちらっと向井の姿を確認した。

「奥で待っとらすよ」

 店主の老人は向井にそれだけ言った。

 向井はその店主に頭を下げると、後ろ手にドアを閉めて、店の奥へ入って行った。

 無理矢理に狭い建物の中に店を作った感じで、狭い通路を通り、店の奥の部屋へ向かう。

 その奥の部屋の引き戸を開けると、そこには新聞記者の井崎良介が座っていた。

「向井さん。待ってましたよ。どうぞ…」

 良介は向井に微笑み、そう言って部屋の中に招いた。

 向井は良介に一礼して靴を脱ぐと、その狭い座敷に上がり、良介の向かいに座った。

「雪が降って来ました…」

 向井はコートを脱いだ。

「みたいだな…。さっき大将が教えてくれたよ」

 良介は先に飲んでいたビールの瓶を持って、向井に勧めた。向井は伏せてあったグラスを取ると、良介の前に出す。良介はそのグラスに冷えたビールを注いだ。

「頂きます」

 向井は一気にグラスのビールを飲み干し、眉に皺を寄せた。

 その様子を良介はじっと見つめていた。

「あ、先に渡しておきますよ」

 向井は上着の内ポケットからUSBメモリを取り出すと、良介の前に置いた。「国見がどうやら樟葉会の竹濱から情報を仕入れた様です」

 向井はビールの瓶を取って、良介と自分のグラスに注いだ。

「竹濱か…。あいつの情報は信憑性が高い」

 良介は微笑んで、テーブルの上のUSBメモリを取った。

「やはり、井崎さんの睨んでいた通り、松本栄一郎は原発側からかなりの金を受け取っていた様ですね」

 向井は二杯目のビールを飲み干した。

「ああ。昨日からニュースはそればっかりだな…。地元の英雄は一気に地に落ちたな…」

 良介は箸を取って、小鉢の肴を口に放り込んだ。「そっちの情報は、嫌でもメディアが教えてくれるさ…。問題は…」

 良介は少し斜に構えると、向井を見上げた。

「天才スナイパー…」

 そう呟いた向井を指差して何度も小さく頷いた。

「どうやらまた、「フライ」の仕事の様ですね…」

 向井も肴を口に放り込んで言う。

 良介はグラスを持った手を止めて、向井を見た。

「フライ…」

 そして我に返る様にビールに口を付けて、テーブルの上に置いていたUSBメモリを確認する様に見ると、上着の内ポケットに入れた。「忘れた頃に「蝿男」再びって訳か…」

「六年前のあの事件は、完全に「お宮」になっています。奴の仕事ならば、今回も手掛かりなんて残って無いでしょうね…」

 向井は小さな声で言った。

「何も分からないんじゃ、記事にも出来んからな…。奴の記事を書く事なんて誰にも出来ん」

 良介は自分の横に置いた封筒を手に取り、向井に渡した。「頼まれてたトミー・モリソンとマーカス・ロードの試合だ。1Rだけの試合だからな…気を抜くと一瞬で終わってしまうぞ」

 良介はニヤリと笑った。

 六年前、大手銀行の頭取が撃たれて死亡する事件があった。ある団体への不正融資問題が明るみに出た直後で、その不正融資に絡む人物の犯行だろうと警察側は断定し、捜査を進めていたが進展せず、捜査本部は解散し、事実上未解決事件となった。

 その事件もかなりの遠距離からの狙撃だという事が分かり、密かに「フライ」の仕業だという噂が警察内部では広まっていた。

「そう言えば、先日の写真…」

 向井は箸を置いた。

「写真…」

 何の事だと言わんばかりに、良介は顔を上げる。

「松本代議士と三村県議の写真ですよ…」

「ああ…」

 良介は大皿の刺身に手を伸ばした。「地元の名士のスキャンダルにもなりかねない危ない写真だ。こっちでは処理できん」

 向井は微笑んで、

「そうですよね…。三村県議もあんな写真残すなんて…。脇が甘い」

 そう言った。「しかし、国政に出るなんて、思い切ったモンですよね…。しかも殺された松本代議士の空席なんて…。そんなに金が欲しいんですかね…」

「義理の息子の神谷も、辞職届を数日中に出す様だな。上手い事、三村県議の後釜あとがまに座る様だ…。良く出来た話だよ…」

 良介の脳裏に節子の顔が浮かんだ。節子の父親、三村健三は県会議員を辞職して、参議院選に出馬し、義理の息子で節子の夫である、市会議員の神谷一馬は、その三村が辞職して空いた席を狙い、県会議員に立候補するという。

「少し噂になってますが…」

 向井も刺身を食べながら言った。「三村県議も松本代議士と同じ様に原発から金が流れているのでは無いかと…」

 その言葉に良介は唇を歪めた。

「人の噂も七十五日だ…。何も無ければ忘れ去られるだろう…」

 良介は目の前の煮魚に箸を付けた。


 義秋はロビーのソファに座って新聞を読んでいた。ホテルの駐車場へ車が入る度に義秋は顔を上げる。時計を見るが、まだ約束の時間までは少しあった。

 ワイシャツの胸のポケットに入れたタバコをほとんど無意識に取り出した。ロビーに降りて既に三本目のタバコだった。新聞を畳んで横の席に置いた。

 俺は何を緊張しているんだろうか…。

 明らかに義秋は緊張していた。少年の日の様に胸をドキドキさせながら節子を待っていた。

 エントランスに一台のタクシーが停まったのが見え、そのタクシーから少し着飾った節子が降りて来た。

 義秋はタバコを持ったまま、その節子の姿に目を奪われた。少年のあの日にこの街を一緒に歩いた節子とは違い、大人になった節子の姿だった。

 声を掛ける事も忘れ、義秋は節子に見惚れていた。手に持ったタバコの灰が大理石の床に落ちた。それで義秋は我に返った。

 同時に節子が義秋に気付き、手を挙げた。

 義秋は慌ててタバコをテーブルの上の灰皿で、もみ消した。

 義秋の方へ節子が近づいてくる。義秋はその節子をじっと見つめた。数秒間の事だったが、義秋には途轍もなく長い時間に感じられた。大人になった節子があの日から二十数年の時間を歩いて来るかの様に思えた。

「お待たせしたかな…」

 節子は義秋の前で立ち止まり頬を赤らめて言った。

 その節子の声で、義秋は自分を取り戻した。

「あ、いや…」

「何ね…。変なヨシア」

 節子は声を出して笑った。

 智子の話では節子も緊張していると聞いた。しかしそんな素振りは無く、義秋の方が情けない程に緊張している様に見えた。

「どうしたと…」

 節子はソファから動けない義秋を覗き込む様に見た。そしてゆっくりと義秋の横に座った。

「いや…。あの…」

 言葉が出ない…。

「何ね…」

 節子はニコニコと微笑んでいる。「どげんしたと…」

 大人になった節子が目の前にいる。古谷旅館の大浴場では微かではあるが節子の裸も見ているのだ。その時も感じなかったこの感覚。その感覚が義秋の中でオーバーヒートしている様だった。

「もう、ヨシア」

 節子は手に持ったバッグを置いて両手を義秋の頬に当てた。

 節子のその行為で、義秋は息を吐いた。そして間を置いて、微笑んだ。

「綺麗になったな…節子」

 自然にそんな言葉が、義秋の口からこぼれた。

「何ば言いよっとね…恥ずかしかやろうが」

 節子は頬を更に赤くして俯いた。

 義秋も自分で言った言葉に照れて、頭を掻いた。

「良い女だ…」

 義秋は顔を上げて言う。

「ありがと…ヨシア」

 節子も赤い頬を気にしながら顔を上げた。「もう、そげん事ばっかり言うとらんと…。おなかすいた…」

 節子は義秋の腕を叩く。

「ああ、そうだな…」

 義秋は立ち上がった。「肉で良いか」

 節子は小さく頷いた。

「このホテルの最上階のレストラン。結構、美味いらしい」

 義秋は節子の前に手を差し出した。

「知っとる…。何回か来た事あるけん」

 節子は義秋の手を取って、ソファから立ち上がった。


 義秋は節子の前を歩いていた。

「ねえ、ヨシア…。そろそろお昼ば食べん」

 髪を束ねた節子は前を歩く義秋に言った。

「そうね…。何ば食べようかね…」

 義秋は振り返り節子に微笑む。

 高校生だったあの日、街でも蝉の声が四方から聞こえていた。義秋はジャケットの背中に汗を滲ませて慣れない街を歩いていた。

「あ、私、食べたいモンのあるったい」

 節子はそう言うと義秋に追い付いて、腕を掴んだ。

「何ば食いたいとか」

 無邪気に微笑んでいる節子に言う。

「こっちこっち」

 節子は義秋の腕を引っ張って、道を脇に逸れた。

 街と言っても都会とは違い、百貨店などの店が集中している範囲は狭い。

「美味しいオムライスの店」

 節子はグイグイと義秋の腕を引いて歩く。節子の首筋にも汗が滲んでいるのが見えた。

 義秋はそんな節子を見て頬を緩め、立ち止まった。

 節子は立ち止まる義秋を振り返った。

「どげんしたと…」

 節子は少し心配そうに義秋の顔を覗き込んだ。

 義秋はポケットからハンカチを出して、節子の首筋に滲む汗を優しく拭った。

「そげん慌てんちゃ…オムライスは逃げん」

 義秋は節子に微笑んだ。節子はその言葉に恥ずかしかったのか顔を赤らめて下を向いた。

「節子…」

 節子は義秋の声に顔を上げた。

 その瞬間、義秋の唇が節子の唇に触れた。一瞬驚いた節子だったが、ゆっくりと目を閉じた。


「ここから見る夜景も綺麗かね…」

 節子はグラスに付いた口紅を指で拭いた。

「そうだな…。この街、昔はこんなに広く無かったよな…」

 窓の外に広がる街の光を二人は見ていた。

 義秋が知らない時間で、この街はその形相を大きく変えていた。この義秋が泊っているホテルもそうだった。義秋が住んでいた頃にはこんなホテルは存在さえしていなかった。

 山が切り開かれ、大型のスーパーマーケットも出来、道路も整備されて広くなった。当時は低かったビルも新しいビル街になっている。

「あそこ…。覚えとるかな…。一緒に行った百貨店のあった所」

 節子が指差す先を見た。あの日、二人で行った百貨店。都会の百貨店と比べる様なモノでは無かった。それでもこの街では有数の店だった。節子の指の先には、大きなビルがあった。「今は長距離バスのターミナルのビルになっとるとよ…。百貨店はちょっと移動しとるね…ここからは見えんけど…」

 節子は色々と街の説明を始めた。義秋はそれを聞いている振りをして、節子を見つめながら、あの日の節子を思い出していた。

「あ、ほら、あのオムライスの店」

 節子は力強く指を指した。義秋も窓の外に視線を移す。「覚えとるかな…」

 少し瞳を曇らせる節子。義秋がその店を覚えているかどうかが不安なのだろう。それほどに節子には大事な思い出の店だった。

「もちろん。覚えてるよ…。店の中に大きな木が生えている…。そんな柱のある店だったな…」

 義秋のその言葉に、節子の表情はほころんだ。そして、下を向いてニコニコと笑い始める。

「何だよ…」

 義秋は水を口にしながら節子に言う。

「いや…ヨシアが覚えててくれたけん…なんか嬉しくて…」

 節子は更に下を向き、赤くなった顔を隠した。

 義秋はテーブルに肘をついて身を乗り出した。

「当たり前だろう…。俺と節子が初デートで行った店だ。チーズの入ったオムライス食ったよな。暑い日に汗流しながら」

「そうそう。一緒に出て来たスープが熱過ぎて…。ヨシア、唇ば火傷したモンね」

 節子は声のトーンを上げた。

「だったな…。おかげでキスも出来なかったもんな」

「そうそう。店に入る前にしとって良かったってヨシア…」

 節子は自分の言った言葉の意味に気付き、話を止め、再び下を向いた。

 そんな節子を見て義秋は笑った。

「何ば言わすとね…」

 節子は照れ隠しにそう言った。

「俺が言わせたんじゃないぞ…」

 そこに前菜と、頼んでおいたワインが運ばれて来た。

「さあ、食おうか…」

 義秋はナイフとフォークを手に取った。

「うん。おなかペコペコ…」

 節子は料理を見て言った。

「遠慮しないでがっついて良いぞ。昔みたいに」

 義秋は微笑みながら節子に言った。


 デザートとコーヒーがテーブルに並べられた。義秋は窓の外に広がる街を見ていた。少し前までちらついていた雪は、完全に上がった様子だった。

 食事をしながらした会話は義秋と節子の事では無く、他の友人たちがどうしているかという話題が中心だった。節子に聞いた話で、義秋の空白の二十数年の足らないパズルのピースがかなり埋まった様に思えた。

 節子はコーヒーにミルクを入れてかき回していた。

「砂糖は入れないのか…」

 義秋はテーブルの上にあったシュガーポットを節子の方へ寄せた。

「大人になったけんね…」

 節子はコーヒーカップを持った。

「昔は馬鹿ほど砂糖入れてたのに…」

「今考えると恐ろしか…」

 節子は両腕を抱きかかえて、身震いするジェスチャーをした。

 義秋はその節子を見て微笑む。

 節子が淹れてくれたコーヒーとは雲泥の差があるが、食後のコーヒーは気持ちを落ち着かせる事が出来た。

「帰りはまたタクシーか…」

 義秋は節子に訊く。節子はカップを置いて窓の外を見た。

「ねえ、ヨシア…」

 節子は窓の外を見つめたまま言った。「スカイレストランって歌知っとる…」

 義秋は窓に映る節子を見る。

「昔の恋人にね…。電話で呼び出されてスカイレストランで一緒に食事ばする歌」

「知らないな…。最近の歌か…」

 節子は首をゆっくりと横に振った。

 静かな店の中に、節子の声だけが響いていた。

「その彼女はね…。昔の恋人から誘われて、食事に行く前に、髪ば洗うとよ…」

「髪…」

「うん…。そのレストランで食事ばした後は、何にも無か事は分かっとるとに…」

 節子の言わんとしている事が薄っすらと分かった。

 義秋は動揺を隠す様にゆっくりと息を吐いた。しかしその息は、何かに引っかかる様に細かく震えていた。

「節子…」

 節子の名前を呼ぶその声も震えていた。

「ごめん…私、ちょっと酔っとるみたいやね…」

 節子は義秋を見て微笑んだ。

「そろそろ行くか…」

 義秋はその節子の切ない微笑みから逃げる様に言った。

「うん…」

 節子の返事に義秋は小さく頷いて立ち上がった。節子もゆっくりと席を立つ。

レストランの入口で伝票を渡し、節子のコートを受け取った。

 本当に少し酔っているのだろうか。節子の足元は覚束ない感じで、深いカーペットに取られていた。

「大丈夫か…」

 よろめく節子を支える。「しっかりしろよ…」

 義秋は節子の肩にコートを掛ける。

「ありがとう…」

 節子は小さな声で言った。

 エレベータホールにはホテルの女性スタッフが立っていた。既にエレベータは到着していて、義秋たちが乗り込むと、その女性スタッフも一緒に乗り込んだ。

「一階でよろしいですか」

「ああ。お願いします」

 女性スタッフに義秋はそう言った。その時、節子の身体がピクリと動くのを感じた。しかし、義秋はそれに気付かない振りをした。

 義秋に触れた節子の身体から、痛いほどの想いが伝わって来る様だった。誠二の話、智子の話、そんなモノが一気に蘇って来た。誠二の声と智子の声が義秋の頭の中で繰り返される。その声は不快な不協和音の様に義秋の中で大きくなっていった。

 エレベータは一階に到着し、ドアが開いた。

 義秋は節子を支えながらエレベータを出て、女性スタッフに礼を言った。

 大理石のフロアに義秋と節子の足音が響く。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

 義秋は節子の身体を支えながら礼を言う。

 節子はその言葉に、小さく首を振った。

 エントランスを出るとタクシーが数台、列を成していた。ベルボーイに声を掛けるとタクシーのドアが開いた。

 節子が義秋の瞳を見つめる。その瞳は涙で潤んでいる様だった。その節子に目を閉じて小さく頷くと、節子も微笑んだ。そしてツカツカと歩くと、タクシーに乗り込む。

 タクシーのドアが閉まるとゆっくりと窓が開いた。

「ありがとう。ヨシア…」

 節子の声は涙声だった。義秋は小さく何度か頷いて、

「気を付けてな…。また連絡するよ」

 そう言うと手を振った。

「うん。また…」

 節子が前を向くと窓が閉まり、タクシーは走り出した。冷えた大気の中で滲むウインカーが点滅して道路に出るとすぐにタクシーは見えなくなった。

 義秋は自分の部屋に向かう。エレベータに乗り自分の階のボタンを押すと、息を吐いた。

 節子を帰したく無かった。それが本音だった。しかし、大人になった節子を昔の様に抱く自信が義秋には無かった。もし抱いてしまうと、どうなってしまうのか分からない。そんな不安もあった。

 義秋の部屋のフロアでエレベータのドアが開いた。義秋はゆっくりとその階に降りると部屋に向かって歩き出した。

 後悔はしていない。

 自分にそう言い聞かせて一歩一歩部屋へと歩く。鍵を開けて部屋の中に入る。明かりもつけずにベッドに座り込んだ。

 もう愛してはいけない…。

 義秋にとって節子はそんな存在になってしまった。

 義秋は目を強く瞑り頭を振った。

「よし…」

 そう言うと立ち上がった。そして明かりをつけようとした時、義秋の部屋のインターホンが鳴った。それは慌ただしく何度も何度も鳴り続ける。そしてドアを強く何度も叩く。

 義秋はドアを開けた。

 廊下から差し込む光が、部屋の中に伸びていく。その逆光の光の中には、さっきまで見ていた義秋の過去の大きな欠片が浮かんでいた。

「節子…」

 義秋はそう言った。

 節子は義秋に抱きついて、唇を重ねた。

 部屋の中に流れ込む激流の様に義秋と節子はもつれ合い、強く抱き合う。想いのせきが切り落とされたかの様に二人は身体を寄せ合い、激しく求め合った。

「ヨシア…」

 節子の涙交じりのその声は、義秋の胸に直に滴り落ちる様に響いた。

「節子…」

 二人はそのままベッドに倒れ込む。

 カーテンの隙間から差し込む街の明かりだけが、二十数年の時を経て愛し合う二人の身体を照らしていた。

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