第171話 愛情

「アディー…、ごめんね、言いづらいことを聞いて。」

「いえ…、悠樹さんは、私のことを心配してくださったのでしょう?」

「そうだけど、聞いて良いことと、悪いことはあるからね。本当にごめん、俺はあっちに行くよ。」


 アデラインの気持ちを少しでも早く落ち着かせるためには一人にした方が良いと思い、リビングに戻ろうと腰を上げかけた。

けれど、彼女の手が俺のセーターの裾をきゅっと掴み、それをさせてくれなかった。


「アディー?」

「あ…、す、すみません、わたし…」


 アデライン自身も意識していなかったのだろう、彼女は自らの行動に戸惑いながら、おずおずとセーターから手を離した。

アデラインは俯きながら、ぽつりと呟く。


「一緒に居てください…」


俺は暫し逡巡した後、再び腰を下ろした。


「わたしの話を…聞いてくださいませんか?」

「…俺で良ければ。」


 俺が承諾すると、アデラインは少しこちらへ顔を向けるものの、目を合わせないまま口元に薄く笑みを浮かべる。

それは、とても物悲しい微笑みだった。


「わたしは、父を知りません。母からは、わたしが産まれてまもなく、事故で亡くなったと聞かされていました。けれどある時、父は他の女性と恋に落ちて、一方的に別れを告げて失踪したことを知りました。」


 アデラインは、たまたま来日していた親類から、この話を聞かされたそうだ。

当時9歳だった彼女は、両親に何があったのか、それが何を意味するのか、理解が及んだのではなかろうか。

彼女はまるで絵空事を語るように、抑揚なく淡々と言葉を紡ぐ。


「母は父と別れた後、何人かの男性とお付き合いをしたようなのですが、皆、彼方あちらから離れて行ったそうです。何故だと思いますか?」


 アデラインは目線を上げてこちらを見るけれど、翠の瞳に力はなく、ガラス玉のように無機質に光を映すだけだった。

彼女は、俺の返答を待つことなく話を続ける。


「母は、『何も言わず尽くすだけの女はつまらない』と言われたそうです。自分は直ぐに飽きられてしまうのだと。それでも、母は恋をするのです。何度裏切られても、捨てられても…。」


 そんな母親を見て育ったアデラインは、いつしか恋愛に希望が持てなくなっていた。

それは無理からぬことだと思える。

仮に俺が同じ境遇だったなら、きっと恋愛不信に陥っていただろう。


「けれど、おじさまは違いました。これまでと同じように、ただ尽くそうとする母をたしなめてくれたそうです。もっと自分を出して良いのだと、自分を大切にしなさいと、まずは自分を愛しなさいと…。」


 祖父ならば、そのように言うだろうと思った。

何故なら、俺も彼に同じことを言われたことがあるからだ。

その時の俺は、祖父の言うことが理解できなかった。

けれど、キャロラインさんの心には、その声がしっかりと届いたのだ。


「母は今、とても幸せそうです。わたしは、あれほど楽しそうな母を見たことがありません。わたしは、おじさまに感謝しています。あの人なら、これからも、母を大切にしてくれると思います。」


 話し始めてから数分経ち、アデラインの瞳には生気が戻って来ていた。

けれど…


「でも、わたしはダメです。世の中の男性が皆、不誠実だとは言いません。おじさまのような方もいらっしゃいます。けれど、信用できないのです。信じて裏切られるのが怖いのです。」


 再び俯く彼女を目の前にして、俺は何も言わなかった。

かける言葉がなかったわけじゃないし、慰めることも出来るだろう。

ただ、アデラインが本当の意味で癒されるには、彼女自信が恋に希望を見出すこと以外にありえない。

まずは、恋に向き合わなければ、何も始まらない。

今の彼女は、そこに立つことすら出来ずにいるのだ。


「その影響でしょうか、男性に対すると身構えてしまうようになりました。モデルをしていた頃の癖が出るのも、その表れなのかも知れませんね。」


 アデラインが普段見せている仕草や、ひょっとしたら話口調も、無意識に身構えてしまっている表れなのではないかと思えた。

彼女が時折見せてくれる年相応の少女らしく愛らしい姿こそが、彼女本来のものなのだと。

俺は、アデラインが素の姿で心穏やかに過ごせる時間こそが、今の彼女には必要なのだと感じていた。


 今すぐに打開策を講じることが出来るわけではないが、彼女の手助けをしてあげたいと思う気持ちに変わりはない。

だから俺は、俺の想いを、今考えていることを、ただ素直に伝えることにした。


「きみは、本当にキャロラインさんのことが、好きなんだね。」

「はい、わたしが産まれてから、女手一つで育てくれた、とても大好きな人です。」

「一人暮らしをしたいと思ったのは、爺さんとの暮らしを、邪魔したくなかったから?」

「ふふふ、やはり、分かりますよね。実は、それが最初の動機です。これからは、娘の世話ではなくて、自分のことと、おじさまのことだけを考えて暮らしてほしいと思っています。」

「そのためには、まずはきみ自身が幸せにならなくちゃね。」

「え…?」

「母親が、娘のことを考えないことなんて、ないんじゃないかな。たとえ離れて暮らしていたって、いつでも、娘の幸せを願ってると思う。」


 それは、美菜さんが結菜のことを想い続けているように、結菜が産まれてくることの叶わなかった我が子を慈しむように、母親の愛情は尽きることなどないだろう。


「今度はきみの番だと思うんだ。きみの幸せがどんな形なのかは分からないけど、きみはまだ15歳なんだから、探す時間はたくさんある。これからは、きみの傍には俺が居る。約束するよ、俺は決してきみを裏切らない。だから、俺に手伝わせてくれないか、きみが、幸せを見つけるのを。」

「悠樹さん…」


 俺の言葉を聞いて何かを感じてくれたのだろう、アデラインはしっかりと顔を上げて、まるで眩しいものでも見るように目を細める。

その姿はいつもの大人っぽい雰囲気よりも、少しだけ少女らしい幼さを感じさせた。


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