第6話 青の季節


 ノートPCのキーボードを叩く手を止め、私はディスプレイの右端に視線を落とした。いつの間にか22時を過ぎている。

 最近の進捗具合はあまり芳しくなかったが、大幅な遅れと言うほどでもない。執筆中の怪談や寄稿記事はいずれも目処がつきそうな頃合いだ。


 安堵したせいか、ふと温かいものが欲しくなった。一旦は台所へ向かおうと机を離れたが、スマートフォンの着信音が私を自室に留めつける。


 振動するディスプレイには犀樹君の名前が表示されていた。


 ダリマと名乗る女性の言葉に従い、私はもう3度もポラリスへ電話をかけている。3度とも対応してくれた伊勢谷氏によると、色白の若い女性で、派手な長羽織に黒いウェーブのロングヘアというのなら、それは確かに犀樹君の妻、たいらダリマで間違いないらしい。しかし夫妻はどちらも自宅には戻っていない、とも言う。もちろん私は犀樹君本人にも電話をしたが、これまで1度も繋がらなかったのだ。


 私は一瞬、あれこれと恐ろしい妄想をして躊躇したが、すぐに思い直してスマートフォンの画面をタップした。


「もしもし、犀樹君。大丈夫? 具合はどうなの」


『お気遣い痛み入ります、アメルくん。けれど僕は少し昼寝をしていただけのようです。ご心配には及びません』


「あんな寝相を見せられてとても昼寝とは思えないんだが……まあ、元気なら良いんだ。成り行きとはいえ、きみには悪いことをしたね」


『いいえ、とても有意義な時間を過ごすことができました。何度かご連絡を頂いたようですね。つい先ほどまでスマートフォンを機内モードにしていたんです。早くきみへ連絡するようにと、伊勢谷くんから少し叱られてしまいました』


 自宅にいるのか、何か変わりはないかと、私はいくつか質問をしたが、犀樹君は穏やかな声で笑い、しきりに大丈夫だと言う。


『それより、ダリマの棲み処からきみの家に向かっていて、そろそろ着きます。帽子を忘れてしまったでしょう』


 彼はこんな夜中に、またアプリゲームのために歩いているらしい。私は少々呆れると同時に平時の彼らしさを思い出し、改めて胸を撫でおろした。


『歩きながら少し話をしても?』


「私は構わないよ」


『アメルくん。あの怪談に呪われていたのは多分、きみもです』


「え、なに?」


 一瞬、私には犀樹君が何の話をしているのか見当がつかなかった。

 確かに私は例の呪いの動画を視聴したが、女の霊の存在を感知したのは弟の雨蕾々だけだ。私はそれらしきものを見ていないし、気配すら感じなかった。


「どうして。私の身には何も起きなかった……と、自分では思っていたんだけどな」


『きみは僕に動画を見せた。僕なら必ずそれに興味を持つとわかっていたから』


 私は彼の言葉に何と応えればいいものかわからず、ただ無言でディスプレイを見つめる。犀樹君はいつものように、軽やかな調子で話を続けた。


『あの動画は不幸な呪いをもたらすものではありませんでした。力のない名も忘れ去られたような人々が、ただ闇雲に大切なものを広めようとして出来たものに過ぎない。


 より多くの人にアクセスされるよう、観た者へ働きかける。それがあの動画がもたらす呪いの本質です。もしかすると、雨蕾々くんはそれにあてられてきみに動画を見せたのかも。そしてきみは僕の元へ来た。だから今日まで呪われていたのはきみ、ということ』


「だとしたら、あの女の霊は……」


『僕は神懸かり的な霊媒師ではないから推測しかできないけれど、雨蕾々くんは呪い自体をそういう姿として感じ取ったのかもしれない。あるいは、きみがどうしたらありもしない不幸な呪いを恐れ、他人に広めるだろうかと、呪い主が色々と細工をした可能性もある。きみは、雨蕾々くんから最初に今回の霊障について打ち明けられた時のことを覚えている?』


 最初に、と、私はオウムのように彼の言葉を繰り返した。

 それはつい最近のはずだった。それこそ3~4日前でしかない。だが、私はどうしてもその時のことを思い出せなかった。


 昨晩は何もなかったか。

 留守中変わりはなかったか。

 そんなところでぼんやりして、何か視えるのか。


 弟にそう尋ねたことは明瞭に覚えている。雨蕾々が私の問いかけに対し、女の霊を視た気がすると答えたことも、やはり覚えている。

 しかし雨蕾々から女の霊が視てしまった、と初めて聞かされたときの記憶は、不思議とすっぽり抜け落ちていた。


『アメルくんがそう尋ねるから、本来なら見えないはずの呪いが、雨蕾々くんの目に女の霊として映るようになったのでは? もちろん僕の憶測ですが。ただ少なくとも、雨蕾々くんよりきみのほうが動画の噂や女の霊、すべてにおいて饒舌でした。オカルトマニアの僕を愉しませるための妄言も混じっていたのかな。脅かせば脅かすほど僕が惹かれると知って。


 きっとあの場に雨蕾々くんが居たらすぐにわかったことでしょう。僕の家を訪ねて来たときのきみは、いつもよりもお喋りだったと』


「犀樹君、ちょっと待って。もう一度聞くが、きみは無事なんだね?」


 私はそう尋ねながら、少なからず混乱していた。どうしてか私には、彼がまるで意味のわからない話をしているように感じられてならない。私にも理解できることを言って欲しかった。

 そう願う一方で、長い夢から醒める気配のような、胸をざわつかせる予感も僅かにある。両立し難い不安と期待のせめぎ合いで、私の胸は喧しいほど波打っていた。


『僕は元気ですよ。怪我ひとつありません。ダリマによれば、意識を失くしたときの僕には不可解なものが憑いていたそうですが、それも落ちました。円満に』


「円満って、赤い女が成仏したとか、そういうこと?」


『赤い女は無関係です。もともとあの動画と怪談は、単なるわっかべ様のプロモーションですから。あるいはわぁこべさのんかんPR動画』


「なんだって?」


 突拍子のないワードの連続に大いに気を取られたためか、私は突如として混乱状態から我に返った。妙な雲行きだ。私にも理解できる話、どころではない。


 しかし戸惑う私には構いもせず、彼の奇天烈な解説は続いた。


『なぜあの呪いの動画が、リングのような映像というスタイルをとらず朗読を強いるものだったのか、きみも不思議だったでしょう。考えてみれば単純なことでした。彼らは自分たちの祀る神の名を音で残したかったんです。


 神様の名前を書いてはいけない。必ず口伝で後世へと継承する。そういう信仰を、ときどき怪談の中で僕も耳にすることがあります。わっかべ様はそんな類の神様だったのかもしれない。識字率の低い時代から奉られている神の場合、もともと字を持たない音だけの名前だったという線もありますが。どちらにせよ、わっかべ様やわぁこべ様の場合は字よりも音が大切らしい。


 赤い女の怪談を語るのに、わぁこべさのんかんというワードは特筆するようなキーワードではなかった。なのに作中では不自然なほどバリエーションに富んだ神の呼び名が登場します。大事なことだから何度も言っていた。そういうことみたい。


 彼らは信仰を絶やしてしまった。けれど何百年にも渡ってわっかべ様を愛していたから、誰にも祀られない名も無き神にはしておけなかった』


 私は髪をくしゃりと搔きまわそうとしたが、指を眼鏡に引っかけてしまった。まだかなり動揺しているらしい。しかしながら犀樹君の紡ぐ言葉は、徐々にだが、私の頑なな頭の中へ入ってきている。


「きみが言う彼らというのは、その……怪談に出てきた『私』や親族のこと?」


『作中で言うA一族ではありますが、少し違う。語り手の人物の、亡くなった祖父母や先祖たちですよ』


「それって、死んでる人たちだよね」


 私は思わず間抜けな質問をしてしまったが、犀樹君はさして気にした様子もなく「うん」と電話口で答えた。


『語り手は、自分や父親がわっかべ様に関して無知であると顧みています。おそらくA家の若者の中でわっかべ様信仰の作法や由来を知っていたのは、語り手の従兄いとこだけだったのでしょう。その従兄が不慮の事故で亡くなり、不幸にも信仰が絶えることとなった。あの怪談のラストを鵜吞みにするならそんな顛末かしら。


 ともかく、僕が懇意にしている神社でわっかべ様を預かってもらうという話で納得していただけたので、もう何も起きませんよ……ちょうど家の前に着きました。ドアを開けてもらっても?』


「早いな、歩くの。いま行くよ」


 私は居間に寄り、カンカン帽のような平べったい帽子を手に取った。ハンガーにくくりつけられたリボンを解きながら、ふと、先ほど聞き流した犀樹君の台詞が脳裏に浮かぶ。


 ――納得していただけた、とは。果たして誰に……いや、どのように?


 反射的に私は首を振った。もういい、今日は疲れてしまった。これ以上よくわからないことを考えるのは止めにする。


 しかし、犀樹君には少しだけ上がっていってもらおう。彼が我が家からいなくなった後、なかなか気が紛れなかった私は、なかばやけになって弟と紅茶を淹れる練習をし、珍しくカフェ店員が配信しているという小洒落た動画なども観たのだ。せっかく来てくれたのだから、その成果のほどを見てもらおうと思う。


「雨蕾々、いま犀樹君が来たって」


 玄関に向かいながら大きめの声でそう呼びかけると、弟は嬉しそうな顔で部屋から飛び出し、ぱたぱたと駆けて私の隣に並んだ。



  * * *



 若、と控えめな声に呼びかけられ、セージュは階段の途中で、ひょいと振り返り視線を下に向けた。


「起こしてしまった?」


「なに言ってるんですか。俺はいつも5時前には起きて朝ヨガして、朝飯と昼飯を作って、トイレ掃除とかもして。いまちょうど全部済ませたので着替えていたところですよ。若はお寝坊だから俺のモーニング・ルーティンを知らなかったんですね」


「それはそれは。いつも御苦労様です」


 笑いを含みながらそう返し、セージュが階段のステップ上で綺麗に礼をして見せると、伊勢谷北斗いせやほくともふっと笑い声を漏らした。セージュが深夜や明け方に帰って来るのはよくあることだが、北斗の知る限りでは、友人の家に入り浸っての朝帰りというのはかなり珍しい。


 北側の窓から薄く差し込む朝日はまだぼんやりと弱い。それでも、セージュの髪の色がいつもより淡いと判る。少年的な顔立ちはそのままだが、どこか違和感があった。今朝までの彼は紳士的で穏やかな青年であったが、今はただ黙して立っているだけで不思議と気圧されそうになる。常とは瞳の印象が異なるのかもしれない。が、北斗はそれについては語らなかった。


「これからお休みですか? トーストと野菜スープならすぐお出しできますよ」


「おなか空いてない。それよりマネージャー、僕は着替えたらまたすぐ出かけます。何かあったらいつも通りに連絡を」


「わかりました。でも今日は里見さとみさんが出勤しますから。滅多なことではご連絡しないと思いますが」


「もうヘッド・メイドのご帰還? 随分短いバカンスだな」


「まあ正月休みもありましたからね。それに東京から行くとなると帰省先でも気を遣うとかで、色々と大変みたいですよ。若はどうされるんです。しばらくお留守ですか?」


「ううん、富士見の神社へ行くだけだから」


 セージュは階段の手摺りに頬杖をつくようにしてもたれかかる。


「できるだけ早めに帰ってきて、しばらく引きこもります。青の季節ブルーセゾンですから」


「ああ、確定申告ですか。そうかぁ、もうそんなシーズン……あれ、そういえば、確かダリマさんと」


 うん、と頷くセージュの顔は、どこか悪戯っぽく笑んでいるように見える。


「確定申告が終わったら離縁する。国民健康保険の節約になると聞いたから入籍したのに、お互いほとんどメリットがありませんでしたから。とにかく、なるべく早めに雑事を片づけて、できれば2月のうちにダリマや野沢さんたちを呼んでお祝いのパーティーがしたいな」


 北斗は思わず苦笑した。


「別れた奥さんと離婚記念パーティーをするんですか」


「慰労会です。きみもパーティーまでには確定申告を終わらせるように」


「俺は青色申告ブルーじゃなくて白色ホワイトですから。医療控除以外はパパッとやればすぐ終わりますよ」


 胸を張る北斗の様子を笑ってから、す、とセージュは姿勢を正した。バーガンディのカジュアルスーツに柔和な微笑みをたたえた相貌、どこを取っても北斗には見慣れた佇まいだ。なのに、不思議と普段よりも逞しいような、力強い姿に今は見える。


「僕は、在るべきところに在りたいとずっと願っていた。もしも地獄が僕のホームだとしたら、暗い地の底で業火に焼かれている化け物たちが羨ましいし、僕もそれになりたいと祈るくらい。けれど、きみたちとこの家にいる時はほんの少し充ちた気分になります。ここが僕の在るべき場所のように感じられるから。いつもありがとう。北斗」


 なにを、と北斗が声をかける間もなかった。セージュは静かに階段を昇っていき、一瞬で北斗の視界から消えた。北斗が呆然としている間に上階ではドアの開閉する音が響き、セージュが自室へ入ったことを報せる。それをわざわざ追いかけるのも妙な気がして、北斗はただ立ち尽くした。

 後ろ髪を引かれなくはないが、特にかけるべき言葉も持ち合わせていない。結局、北斗は中途半端な心地のまま自室へと引き返すことにした。


 ――なぜか、雇い主に今生の別れのような台詞を吐かれてしまった。さすがにリストラの予告ではないだろうが、不安だ。


 もともとセージュの言動は予測がつかないし、北斗からすればいつも掴みどころがない。彼の一挙一動をいちいち気にする必要はないのだろうが、セージュの言葉は北斗からすれば実に奇妙だった。この邸宅は間違いなくセージュの自宅であるし、セージュから自宅を間借りしているのは北斗のほうだ。それなのに、まるで自身が余所者のように北斗へ感謝の言葉を述べるとは。


 彼は本当に不思議な青年だった。どこか浮世離れしていて奇想天外で、少し悪趣味なところもあるが、その性根は決して悪人ではない。少なくとも北斗はそう思ってる。


「なんで例えが地獄なんだろう。北海道とか奄美とか外国とか、色々あるだろうに……」


 いや、彼は東京近郊にしか暮らしたことがない若者なのだ。彼にとって地方を生活拠点にすることは、北斗が思う以上に想像し難いものなのかもしれない。


 きっとそうだ、と自分に言い聞かせながら、北斗はクローゼットを開き、淡い真珠色のネクタイを手に取った。


 南側の窓は広く大きい。明るくなるのが随分早くなったように感じる。ポラリスのメイド達は確か、今日を大寒だと言っていた。

 大寒というからには、まだしばらく寒いのだろうか。しかし節分が終われば暦の上では春になると、どこかで聞いた覚えがある。


 ならば「ブルー・セゾン」は「寒い春」か。


 その日本語訳は、なんだかやけにしっくり来る気がする。

 セージュがどんな感想を抱くかはわからないが、北斗は清らかな冷たい光と、そして包み込むような温もり、相反するどちらをも連想した。


 今は未だ希望と絶望が混じり合っているが、耐えてさえいれば、必ず希望が勝つことが約束されている。そんなドラマティックなイメージだ。朝焼けの中で縮こまっている野鳥のシルエットを眺めながら、北斗はそう思った。



 Fin.

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