第2話 質問


 SNSを経由して呼び出した彼女、真壁幸乃まかべゆきのに関して見過ごせない点はやはり多い。真っ赤なスタイラスペンをポケットに差し込むと、犀樹セージュは思案するように指で唇を少し撫でた。


「僕があなたのブログを見つけたのは、たまたま『熊本市の心霊スポット』というワードがヒットしたから。ただそれだけ。記事自体も求めていたものとは少し違ったのだけれど……僕はほんの少し勘が良いから気になった」


 時間が惜しくて独り言がすべて口から洩れ出たが、気にするようなことではない。もとよりここには少しばかりの植物を除き、セージュと幸乃の二人しかいないのだ。


「まずはそう、濁している感じがしたから、これかな。あなたは上京する以前、熊本県以外の土地に暮らした経験がありますね?」

 幸乃は少し顔色を悪くして頷いた。


「出生地はどこです」

「いわき市……福島です」

「いわき市。2011年もあなたはそこにいた?」

「……はい。でも、すぐに広島の祖父母の家に移りました。2年くらい経って、こんどは大雨でその家にも住めなくなって、県内で何度か引っ越して……ちょうど受験の年だったので、学生寮のある大学に志望校を絞り直して熊本に進学したんです。卒業して上京するまではずっと熊本市内の寮に」


 幸乃は淀みなく、饒舌なセージュと同じように次々と言葉を紡ぐ。奇妙なことだが、セージュの簡潔な質問の意図を、彼女は子細に汲んで理解していた。

幸乃の返答を確認するようにぶつぶつと呟きながら、セージュは膝の上で指を組み目を細める。


 2011年福島県、2013年広島県、そして2016年熊本県。セージュにはあえて黙していたが、幸乃は住まいを移すたび、各地で大きな天災に見舞われていた。


 なかでも2011年の東日本大震災は、未だに幸乃の人生に少なからず影響を及ぼしている。セージュも、福島県内で被災した者がいまだに差別を受けているという話を聞いたことがあった。どうやら幸乃もその例に漏れないらしい。


 幸乃にとって致命的に運が悪かったのは、折り合いの悪い上司が彼女の履歴書を発見したことだろう。一般的な履歴書にはフォーマットの都合上「2011年3月にいわき市立中学校を卒業」と明確に記さざるを得ない。本来なら隠すようなことではないから、隠しようがない。


 幸乃が母の故郷である広島へ身を寄せたのは、もともと住んでいた借家の修繕が遅々として進まず、仮の住まいを転々とする生活を強いられたからだった。

当時から大学で建築について学びたいと考えていた幸乃は、勉学に集中できる環境を求め、祖父母宅へと単身で転居することを決断した。原発事故による居住区域の制限などとはまったく無関係の理合いである。


 しかし社内で原発難民と吹聴されたことが、思いがけず彼女を絶望させる引き金となった。

故郷に置き去りにし、なかったことにしたはずのストレスが、10年の時を経て初めて目を醒ましてしまった。幼かった当時はまともに受け止めきれなかった痛みだ。まるで麻酔でぼやかされたように、終わりのない不安感も恐怖心も、幸乃はこれまでほとんど感じることがなかった。

それが、まるで10年も無視されていたことを責めるように突如牙を向き、幸乃の心身を日々蝕んだ。


 たまたまそのタイミングで在宅勤務を命じられていなければ、心労からとっくに退職していただろう。


 セージュは幸乃から視線を外すと、少しばかり迷うように小さく唸る。


「家族が健在だというなら、家や血統のほうはあまり関係がなさそうだ。とりあえず本人のことを聞いてみようか。さて幸乃さん。あなたにとって、あなたが入社した会社はどうしても働きたいところだった? それとも行かざるを得なかった?」


「行きたかった企業です。最初から第一志望ではなかったけど……少なくとも他の内定を断ったくらいには」


「じゃあ別の質問。あなたは自分のことを不運な人間だと思う?」


「はい。でも救いようがない程じゃなくて、むしろ悪運は強いと思っています」


「なるほど。確かに死んでもおかしくないような状況に何度置かれても、これまでずっと生き残ってきた、ともとれる。ではまた別の質問。あなたは不幸がどこかからやってくるものだと思いますか。それとも自ら不幸に向かう選択をしている?」


幸乃はセージュの視線から逃れるように下を向いた。

「それは……わかりません」

「そう。自ら不幸な選択を選び取っていると否定しない?」

「し、いえ。いや……否定しません」

「それはどうして?」


 幸乃はぎゅっと両の手を握る。なぜか緊張で身体がこわばり、背中が冷たい。冷や汗でサテンブラウスがじわりと濡れていた。


 彼女は自身のブログの中で、幾度となく自らの不運や間の悪さを自嘲するような文を綴っている。「私は長生きしないでしょうけど」というフレーズもお決まりだった。


 その程度には、自らを『不運体質』だと自覚している。


なのに、なぜか自らに降りかかる災難をいつも許してしまう。理不尽な運命に腹を立てて自暴自棄になり、大胆な行動に出たこともない。小心者だから、とも言えるが、そんなことをしても良い結果が得られるとは考えられなかったのだ。どう足掻いても自分の人生はこの先も不幸ばかりだと、はなから将来に期待してもいない。

 幸乃はそれを「諦観」だと思っていた。


 ――若いうちに苦労を知るのは良いことだと、よく母が言っていた。悪いことがあるのは良いことがある前触れだから喜びなさい、と祖父母も言った。


 だからだろうか? 不幸せでも仕方ないと受け入れるような気持ちが、いつからか私の心の中にあった。しかし「いつからだったか」と考えると「いつもそうだった」と感じる。


今思えば、幸乃が持つ「諦観」の感覚は、徐々に形づくられたものではない。物心ついたときから舞い込む不幸をすべて受け入れて耐えていた。

 幸乃の生まれた家には家庭不和も過酷な貧困もなく、幼少期にトラウマを植え付けられるような出来事に巻き込まれた経験もない。ならば人生観が揺さぶられるような出来事があっただろうか。それも、天災以前にはほとんど心当たりがない。


 幸乃は一般家庭で育ったごく普通の、どちらかと言えば恵まれた幼子だった。なのにどうして、不幸な偶然の連続に耐えられていたのだろう。どんな理不尽な目に遭っても、癇癪を起して泣き喚くことをしない子どもだった。淡い過去の記憶を辿るうちに、何かが妙だと気づく。


――いや、奇妙なのは私自身だ。


 答えなければならない。きっと、平犀樹セージュが知りたいのはその先なのだから。


「時間は惜しいが、ゆっくり考えて」

「いえ、いえ、多分……答えはもうわかってるんです、なんとなくわかるの」


 幸乃は困惑するような眼差しでセージュを見遣った。

――私は心のどこかで、どうしてか不幸になりたいと微かに望んでいる。だけどそれはなぜ? いつからだった?


「……だけど私が『それ』のことを考えようとすると、急にまたわからなくなってしまって。なに言ってるんだろう、でも私は最初から、これでような……そんな感じがする」


 さして長くもない髪を耳にかけたり口元を覆ったり、忙しない手の動きを見れば幸乃が狼狽しているのは明らかだった。セージュはまた質問を変える。


「いつか『あなたは不幸になる』と、誰かから言われたことはありますか」


 幸乃はぴたりと動きを止め、血の気の引いた顔で目を見開いた。しかし、すぐに何かに思い当たったのか、肩を震わせながらそっと両手で口を覆う。

 セージュはその様子を眺めながら、悩むように唇に指先をあてた。まつ毛を伏せるように、少しだけ俯いて目を細める。


「違うのかな。少しフレーズを変えてみようか。『あなたは不幸だ』と言われた。これはどう?」


 幸乃は白い顔のまましばし沈黙する。彼女の様子は何かを恐れているようでもあるが、どこか昂ぶりを抑えているようにも見えた。幸乃の汗の雫がつっと眉の横を流れる。


「それは、あったような気がします。多分、ある……」


「誰にそう言われましたか?」

「わからない。でも、どこかでそういうことを……言われたと思います」

「それを言ったのはあなたが知ってる人?」

「わかりません、覚えてない」

「それを言ったのは生きている人間だった?」

「わからない、誰だったのか、全然思い出せない」


「では別の質問。それを誰かに言われたとき、あなたはどこにいた?」

「どこ……」

「じゃあ例えば……何も見えなかった? それともどこか暗いところ」

「暗い……そう、暗くて何もないところ……あたたかいところで」


「そこにいたときのあなたは、人間?」


 セージュの密やかな声に、幸乃は目を見開いた。

――そう、思い出した。

まるで熟れた鳳仙花ほうせんかが弾けるように、幸乃はセージュへ向かい叫び訴える。


「それはわからない。でもきっと、そのときの私はまだじゃなかった。あのとき、私がそこにいたとき、何かが声をかけてきて話したの。あの……襤褸ぼろの袈裟で、旅僧のような……狒狒ひひの顔だった。それに言われて、自分で決めたんです。私はこんど生まれるときは『不幸な人生にする』って」


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