さよなら私の鋼の獣
種田遠雷
01、ユクター・ミザック
ユクター・ミザック、と、自分の名前が記されたパスポートをジャケットの隠しに押し込み、空港を後にして歩き出す。
何度も訪れているが、カルドゥワ国は寒い。こころもち肩を縮めながら、バックパックを背負い直した。
街路樹もまだ芽吹き始めたばかりで、春はまだまだ厳しい。南の小国であるグネイデンで育った自分には、早くも短い夏が恋しくてたまらない。
冷たさのぬるむ春と、夏と秋、今から憂鬱になりそうな冬か。と、ここ、北の大国カルドゥワを訪れた理由に頭が向かう。
現職の首相であるユースフ
歴史上、数度の革命を経て骨抜きにされ、操り人形と
最後の革命の流れを汲むユースフ総長は、長らく上手くやってきたが、来年に改選を控えた今になって、二年前の経済政策の失敗が大きな痛手になっている。
失業率は上がり続けて国中に貧困がはびこり、反発するよう、支持率は下がる一方。
十中八九、再選は見込めない。
ところが、むろん候補者はいるにはいるが、ユースフの後に続く後継者には目立った人物がいないのだ。
豊かとは言いがたいとはいえ、大国であるカルドゥワのこの不安定な情勢は、世界中から視線を集めているといっても過言ではない。
つまるところ。
今時、編集局長と大喧嘩して先月めでたくフリーのジャーナリストとなった自分にとって、あって欲しいと願えどこれ以上なく、これ以下であれば更にめでたく飯が食えなくなるだろうという、格好のネタだった。
意外なダークホースを掴めれば返り咲きだって望めるところだが、最有力候補が無難にあとがまに収まったとしても、この一年の騒乱を追い続ければ取り敢えずなんとかはなる
哀しいかな、足りないのはツテで、カルドゥワに多少はある縁を辿って辿って、ようやく、政党関係者に知り合いがいるという、友人の友人の知人を捕まえることができた。
ホテルに荷物を放り込むと、鼻先の赤い、声の大きなその男とバーで落ち合い。一晩中、飲ませて飲ませて飲ませて、なんとか、一人の男とアポイントメントを取り付けることに成功した。
ろれつの回らない赤鼻が口にした名前は、何度聞き直しても正確に聞き取れず。間違いなくユースフ総長の一味だと請け負われた、その男の顔を見るまで、酔っ払いの世迷い言だったら次の手はどうするかと、胃の沁みるような心地だった。
「ルスラン・ネイハウスだ」
真っ直ぐに保たれた体幹と、独特の足運びをする歩き方で、まず、軍人上がりだという印象を強く受けた。
フリーのジャーナリストが泊まるには少しお高いホテルの、レストランの個室。指定された場所へ現れたネイハウスを目にした感想は、混乱に満ちたものだった。
まず“誰だっけ?”という率直な疑問。それから、カルドゥワと無縁ではなく、ユースフ陣営について多少は知っているつもりの自分が、すぐに思い当たらないような外野の人間を掴んでしまったらしいという失望。
大柄な者が多いカルドゥワの人間としては、あまり大きな体躯でないネイハウスへの意外さ。自分の方が少し背が高いかもしれない、という、幼稚な優越感。
それから、カルドゥワ人らしい金髪をきちんと撫でつけ、サイズの合ったスーツを着こなしている真面目そうな出で立ち。姿勢と歩き方に見合った、一寸も動じることがなさそうな、不遜なサファイアブルーの瞳。鼻筋が太くて男らしく、深い眼窩には影が差している。
「ユクター・ミザックです。取材に応じていただき、感謝します」
椅子から立ち上がって差し出した手を、目の前にしながら、けれど見えていないかのように素通りして向かいの席に着いたネイハウスに、思わず言葉詰まってしまう。
驚くほど失礼なやつだ。
だが、面白いほど
さすがカルドゥワの政治家だと、それはもう感動に近いようなおかしさで、内心膝を叩いて笑いたいのをこらえ、手を引っ込めて座り直した。
「約束通り、30分以内だ。無駄な口を開くのは自由だがな」
そういえば、30分がどうとか、確かに赤鼻が言っていたかもしれない。
充分だ、と、心を決め改めてネイハウスの
「お忙しい書記官にお出ましいただいて光栄です」
頃合いを見計らったように注文を取りに来るボーイに、二人ともコーヒーを頼み。
そうだ、がっかりするほどの小物ではない、と緩む頬を隠すよう顔を引き締め直す。
ユースフの部下達の中でも、書記官の席につけるのは有能な者ばかりだと言われている。事務一切、つまり政治の実務に関わる彼らは、必然的に、能力とユースフからの信頼を得ているものばかりで、様々な内情にも詳しいはずだ。
すぐに思い出せなかった、このネイハウスは目立たない方だが、その書記官であるのは確かだ。
ユースフ政権に限らず、カルドゥワの政治家の多くがそうであるように、退役した軍人で、地方政治を担ったこともあったはず。
ありきたりな経歴ではあるが、
ほどなくコーヒーのカップを配りに来たボーイが再び出て行って、閉じる扉をゴングのように、メモとペンを手に、口火を切った。
「では早速ですが、ご意見を伺わせてください。来年の総長戦では、ユースフ総長が再選するとお考えですか?」
「国民総選挙だ。開票するまで結果は判らない」
そうくるか、と、口にしなかった自分を褒めてやりたい。
「再選されないのではないか、という意見もあります」
「そうだな」
「その場合、誰が候補者として立ちそうです?」
「立候補したい者が立つだろう」
イラッとしかけて、だが、一周回って面白くなってくる。
こいつ、それでよくわざわざこんな無名の記者に会う気になったな?
「立候補したがっている人物に心当たりはありますか?」
「何人かは」
えっ、と、声が出てしまう。
「誰と誰です?」
「新聞を読んでみるといい。半分くらいは当たっている」
えっという言葉も出ない。
下の売店にも売っている。複数の薄い紙を重ねた読み物だ。と付け加えられて、馬鹿にされたのだと理解が及ぶ。が。
正直、今のはかなりユーモラスだ。
遠慮なく口許を緩めながら、そうします、と答えておく。
鼻先で薄く笑われて、彼が現れた時からチラついていた既視感の正体に気がついた。
ネイハウスは、まるで、マフィア映画からそのまま抜け出してきたような男なのだ。
「ユースフ総長は、その内の誰を推したいんでしょう?」
「人の頭の中を知る術はない」
「総長から聞いたことは?」
「ない」
「あなたがユースフ総長だったら、誰を推したいと思いますか?」
互いに考える間を与えまいとするような、矢継ぎ早の呼応に、意外にもネイハウスが先に詰まった。
瞳が揺らいだのは一瞬だけで、置物のように、また動かずこちらへと真っ直ぐに向けられる。
「――私が総長なら、ただ再選のために力を尽くすだろうな」
「……なるほど」
なるほどらない。
行政総長に再選したいのはユースフなのか、それとも、この目立たない切れ者にも野望があるのか。
「ユースフ総長は、今の地位を誰にも譲りたくないと考えてる?」
「私が答えたところで、想像でしかない」
「あなたは?」
わざと短く途切れさせた質問に、サファイアブルーが瞬く。
「あなたは行政総長になりたいと思います?」
なれはしないだろう。書記官たちは有能だが、国民総選挙となる行政総長選で、名が知れていないことは致命的だ。
だが、自分の興味はとうに、目の前の男へと移っていた。
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