45、偽名
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「以前にもお話しましたが、私の家は代々バルツァル公爵家で働いていました」
私の衝撃が落ち着くのを待って、ミレナさんが、ゆっくりと説明を始めた。
「公爵家では他にも、大勢働いていました。その中の一人に、アーモス・ボレイマという、まだ幼いエーリク様の家庭教師をしている男性がいました」
「……その人が?」
はい、とミレナさんは目を細める。
「最初に気づいたのはエーリク様です。ルジェナ様を診察したとき、誰かに似ている気がすると」
そう言われて私も思い出した。
——失礼、知り合いに似ている気がしたんだ。
エーリク様が、私をまじまじと見つめてそう言ったことを。
ミレナさんは微笑む。
「そう言われると、確かにお二人は似ていました。思わず、ルジェナ様の前でアーモスの名前を口走ったこともありましたよ」
それは思い出せなかった。私は、どこか他人事のように聞き返す。
「そのアーモスさんが……?」
——私のお父さん?
エーリク様が頷いた。
「というのも、アーモスは体が弱くてね。ついに家庭教師も辞めて、領地で療養していたんだが、ある日誰にも言わず旅に出たらしいんだ」
——体が弱いのに旅に?
「それで、一年後、パトラの町で倒れているところを発見されたらしい……ここと王都の間の町だ」
ミレナさんがそっと言い添えた。
「見つかったときはもう手遅れだったそうです」
エーリク様が当時を思い出すように、瞳を伏せる。
「そんな体でどこへ行こうとしていんだろうとボレイマ子爵夫妻は嘆いていた。私も長年不思議だった。アーモスはなぜあんなところにいたんだろうだて。でも」
エーリク様は、顔を上げて私を見る。
正確には、私を通して、その人を。
「君を見た瞬間、あまりにもアーモスに似ているからアーモスはここで暮らしていたんじゃないかと思い始めた」
「でも、そんな、それだけじゃわからないんじゃないですか? それに、お父さんはアランって名前だって」
「偽名じゃないのかな」
——偽名? どうして?
私の疑問をよそにエーリク様は続ける。
「アーモスが私に教えていたのは、数学と歴史だったんだが、魔女の万能薬にかなり興味を抱いていたよ。一度は飲んでみたいと言っていた」
私は息を止めた。
確かに、会ったことのない私の父は、万能薬を求めてこの村に来たと聞いている。
「私の想像だが、アーモスは魔女の万能薬に憧れを抱き、動けるうちにとここに来て、君のお母さんと恋に落ちたんだ」
「……」
「それから、結婚を認めてもらうために王都へ戻ろうとしたんじゃないかな。お母さんに正々堂々、本当の名前を名乗るために」
私は馬鹿みたいにぽかんとしていた。
「おかしいと思ったのには他にも理由があります」
ミレナさんが言う。
「ルジェナさんは、初心者と思えないほど、マナーレッスンの飲み込みが早かった」
「そうだな」
エーリク様も同意する。
「おそらく、薄々アーモスの正体に気づいていたサムエル氏が基礎を叩き込んだんじゃないかと思うんだ」
「おじいちゃんが? でも、そんなこと」
「音を立てないように言われていませんでしたか? 食器の持ち方をうるさく言われたりは?」
——していた。
エーリク様が納得したように言う。
「サムエル氏なら、所作でアーモスが貴族であることに気付いていただろう。いつか祖父母に会わせるときのためにかな」
「そして、なによりその髪の色」
ミレナさんは言った。
「アーモスと同じです。目の形も」
「ああ、笑った顔など、本当に」
「あ!」
不意に、私は思い出す。
ポケットに手を入れ、いつも持ち歩いているペンダントを取り出した。
「これ、お父さんの唯一の形見なんですけど」
金の鎖に、小さな赤い石がついているシンプルなペンダント。
ミレナさんはため息をついた。
「私にはわかりませんが、ボレイマ子爵夫妻なら、なにか気付くことがあるかもしれません」
「ルジェナさえ良ければ会いに行かないか?」
ミレナさんが付け足す。
「ルジェナ様のお母様もいらっしゃらない今、本当にアーモスがお父様か確かめるのは難しいかもしれません。ですが、ボレイマ子爵夫妻は、例え忘れ形見でなくても、ルジェナ様の後見人になりたいと申し出ています。王都で、薬学を勉強してほしいと」
「え? え?」
「いい話だと思うんだ」
エーリク様は頷く。
「例え私の求婚を断ったとしても、ルジェナは王都で薬学を学んだ方がいい」
「断ったんですか?」
ミレナさんはさらっと私に聞いた。慌てて答える。
「いいえ!! あの、恐れ多いことですが、お受けしました」
「なにも恐れ多くはない」
ミレナさんも頷く。
「ルジェナ様はご自分を低く受け止めがちなので、そんなことを言い出すとは思っていました……ルジェナ様、以前私が申し上げたことを覚えていらっしゃいますか?」
なんのことか聞く前にミレナさんは言う。
「出会いが出会いを生み、選択が選択を生むんですよ。アーモスとお母様の出会いが、ルジェナ様とエーリク様、引いてはボレイマ子爵夫妻との出会いを生んだと思えばいいのでは」
——出会いが出会いを。選択が選択を。
ミレナさんは、それを伝えるためにわざわざここに来てくれたんだと思った。
私の背中を押すために。
「あの」
私は思い切って答えた。
「王都に、行きたいです。薬学を勉強したい」
——お父さん、に繋がる人にも会いたい。
「回復薬を作ろうとした理由にも、父みたいに体の弱い人を元気にしたいというのがあったんです」
「そうか」
ほっとしたようにエーリク様が言う。
「となると」
ミレナさんが思い出したように言った。
「王都に行く前に、目下の問題は解決しなくてはいけませんが?」
「ああ、そうだな。虫のような不快なやつが原因だったが、そっちはなんとかする」
ん? 気のせいか今一瞬、空気が冷やっとしたような。
「いや、虫に失礼だったな。ところでルジェナはどうしようと思っていたんだ? 君の計画を聞かせてくれ……ん?」
促されて、私は言った。
「もちろん、結婚なんてするつもりはありませんでした。うまく近づいて、その毒を奪うつもりだったんです」
だが、私が話す間、なぜかエーリク様は私の顔をじっと見る。
「それを証拠にして、ダリミルが毒を所持していることを薬師組合に訴えれば、ダリミルは処分を受けるでしょう? 私のことを恨むかもしれないけど、こちらに毒を撒くことはなくなるかと」
エーリク様は、まだ目を離さない。
「近づいてからイセムを嗅がせて、驚いた隙に足止めするつもりでした」
なんとか最後まで喋り終えた私に、エーリク様は困ったように頷いた。
「ルジェナの考えはよくわかった。だが、その計画は中止だ」
どうしてですか、と聞く前にエーリク様が私の額に手を当てる。
え、と思う間もなく眉間に皺を寄せた。
「やっぱり。ルジェナ、君、かなり熱がある」
ミレナさんが小さく頷いた。
「二晩眠っていないのでしょう。無理ありません」
「二晩? 今すぐ横になるんだ!」
エーリク様は、私を突然抱き上げた。私は思わず下りようとするが、がっちりと抱き締められて動けない。
「あ、歩けます!」
「歩かせない」
——そんな?
「どうぞ」
ミレナさんが温室の扉を開ける。
「安心しろ、その男は私がきっちり後悔させるから」
エーリク様は私を横抱きにして移動しながら、むしろ穏やかに言った。
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