43、そして、本気の求婚

「エーリク様? どうしたんですか? 何かの練習ですか?」


 意図がわからずそう聞くと、エーリク様は姿勢を崩さずに微笑んだ。


「練習じゃない。本気だ。本気で君に結婚を申し込んでいる」

「えっ、私?」

「他に誰もいないだろう」

 

 よく見ると、エーリク様はさっきまでの調剤用のシャツではなく、刺繍の入った上等な上着に、同じく上等そうなズボンに着替えていた。普段適当にまとめられている金髪も、綺麗にすかれていて、どこから見ても品のある二十三歳の貴族令息だ。


 ——って、待って!? 


「エーリク様、立って! 立ってください!」


 見惚れている場合じゃなかった。慌てて言ったが遅かった。


「地面! 泥! さっきそこ水撒いたばかりです」


 すでに私の位置からでもわかるくらい、エーリク様の膝は泥まみれになっている。


「いつも水やりありがとう」


 だが、エーリク様は泥など気にしていない様子だ。


「ルジェナが来てから薬草が生き生きしているな」


 細められた青い瞳から思わず目をそらした。

 求婚なんてされていなくても、エーリク様がそうやって私みたいな平民にいちいちお礼を言うだけで、私の胸は締め付けられるように苦しくなる。

 でも、そんなことはもちろん言わない。


「とにかく立ってください」


 胸なんか痛んでないふりをして、私はエーリク様に淡々と言う。

 だがエーリク様は首を振った。


「嫌だ」

「え?」

「君がこの花束を受け取ってくれたら立つ」


 私は、泥まみれのエーリク様の膝と真っ赤な薔薇の花束を三往復くらい見比べてから、頷いた。


「……わかりました。とりあえずお花はいただきます」


 私が花束を受け取ると同時に、エーリク様が立ち上がる。一瞬だけ、私たちの距離は花束ひとつ分だけの近さになった。

 でもすぐに離れる。

 私が。 


 ——わかっているから。ちゃんと。


 エーリク様は、この王立研究所をぽんと作れる地位の方。対する私は、いつもの縞のスカートに土のついたエプロン姿の平民。どう考えてもちぐはぐだ。

 

「あの、エーリク様、薔薇はとても綺麗で嬉しいんですが」

「もちろんルジェナの方が綺麗だよ」

「い、いえ……そういうことではなくて!」


 その真っ赤な薔薇の花束に顔を埋めるようにして、私は聞く。


「正直におっしゃってください……幻覚作用のある野草を間違えて食べました? アープールかアララックあたりの」


 ごほん、とエーリク様は咳をした。


「食べていない。目付きもしっかりしてるだろ? 付け加えると果実酒も口にしてないぞ」

「え、じゃあ、どうしてこんなことを?」


 すると、エーリク様は真剣な顔で言った。


「だから、求婚だよ。嘘じゃない、本気の求婚だ。偽の婚約者じゃなく本当の婚約者になってくれ」


 ——本当の婚約者。


 胸の痛みに負けそうになりながら、私は言う。


「からかわないでください。貴族と平民ですよ? あり得ません」

「そんなもの」


 エーリク様は不意に私の髪を一房手にし、そっと口付けた。


「私の行動を妨げる要因にはならない」


 呼吸も出来ない私は言葉がでない。エーリク様は小さく笑って、髪を離した。


「返事を、聞かせてくれないか?」


 その表情はいつものエーリク様のもので。

 着る服が変わっても、エーリク様はエーリク様だと納得する。


 ——ということは、やはり。


 エーリク様は多分、本気だ。本気で私に求婚してくれた。

 信じられないが、そうとしか思えない。

 つまり、これがエーリク様の出した答えなのだ。

 私を守るための。


 ——ほんとに、この人、どれほど優しいんだろう。


 そもそも、いくあてもなく倒れていた私を助けてくれたのもエーリク様だ。

 あのとき助けてもらってなければ、私は今ここにいない。

 それだけでも余りある恩がある。


 ——だから、これ以上甘えるわけにはいかない。


 私はエーリク様に、くるりと背を向けた。それから。


「……へっくしょん!!!!」


 思い切りくしゃみをする。


「すいません薔薇を……近くで嗅ぎすぎました」


 とっさに出た涙を隠す芝居にしては上出来だと思う。


「ハンカチならここに」

「いえ、自分のがあります……ハンカチがあるなら、エーリク様はそれでご自分の膝を少しでも綺麗にしてください。でないと後でミレナさんに怒られますよ」

「わかった」


 素直に泥を落とすエーリク様の気配を背中に感じながら、私はこっそり涙を拭う。


 ——勘違いしちゃダメだ。


 どんなにエーリク様がかっこよく求婚してくれたとしても、それは愛じゃない。


 ……優しさだ。


 エーリク様は優しいから。

 優しすぎるから。

 だから、涙なんて見せちゃいけない。

 隠せ。

 今までしてくれたことをありがたいと思うなら、絶対悟られるな。

 

「ありがとうございます、エーリク様」


 気合いを入れた私は、再びエーリク様に向き直った。


「後は私がするので貸してください」


 私は泥だらけのハンカチを奪い、花束を抱えたまましゃがみ込んだ。

 我ながら器用に、片手でエーリク様の泥を落とす。


「このまま聞いてください」

「落ち着かないけど、ルジェナがそう望むならそうしよう」

「……私のような者に求婚してくださって、本当に嬉しいです」

「よかった!」


 エーリク様の声が弾んだ。


「では早速ドレスの手配を——」

「でも」


 立ち上がった私は、感情を揺らさないように気をつけて話す。


「お断りします」

「え?」

「エーリク様とは結婚しません」

「なぜ?」


 私はいつもの口調を心がけ、努力して笑顔を作った。


「ダリミルと結婚するからですよ?」

「ルジェナ! だからそれは!」

「私のためにここまでしてくれたこと、本当に感謝してます」


 私は深々と頭を下げた。

 出るな、涙。

 まだ出るな。

 じゃないと、みんなに迷惑がかかる。 


 ――「赤毛の役立たず」を受け入れてくれたみんなに。


 顔を上げた私は、渾身の演技を見せた。こんな優しい人を、巻き込むわけにはいけない。


「短い間ですがお世話になりました」


 そのためには私が去るのが一番いい。

 改めてそう決意する。

 なのに。


「違う。それは答えになっていない」


 エーリク様は薔薇の花束ごと私を抱き寄せた。


「エーリク様っ?!」

「聞きたいのは君の本当の気持ちだ」


 どくん、と私の心臓が跳ね上がる。

 エーリク様はまだ私を離さない。

 それどころか。


「邪魔だ」


 薔薇の花束を掴んで、ぽとんと地面に落とした。なんてこと! 


 ——あれがないと、距離が近い!


 必死で逃げようとする私だが、エーリク様は腕の力を緩めない。


「ルジェナ、好きだ。君のことが本当に好きなんだ」


 そして、今まで聞いたことのない悲痛な声で呟く。


「君はどうだ? 私のことを……どう思う?」 


 思わずエーリク様と視線を合わせる。

 思った以上にそれはすぐ近くにあった。

 エーリク様は続ける。


「気持ちが通じたと思っていたのは私の勘違いか? もしそうなら謝る」


 エーリク様の瞳が揺れる。


「君は自由にしていい。だから、本当の気持ちを教えてくれ。嫌いなら嫌いと言っていい」


 堪えきれずついに涙が出た。泣いてる場合じゃない。私は先を続けようと努力する。


 ——ちゃんと言わなきゃ。

 ——ちゃんと謝らなきゃ。


「嫌いじゃ……ないです」

「嫌いじゃない?」


 その言葉はいつもより近くから聞こえる。私は頷いて、なんとか続ける。


「逆……です。大好き……だから……ごめんなさい」

「……」

「エーリク様のことも、ここの人たちのことも大好きです……だから、怖いんです」

「怖い? 何が?」

「もう一度、全部失ったら……どうしようって」

「どういうことだ?」


 私はエーリク様の胸に顔を埋めて言う。


「あのとき」


 考えるだけで怖くて誰にも相談できなかったこと。


「おじいちゃんや、おばあちゃん、お母さんが私の前からいなくなったように、ここの人たちも全員、私の前から、私のせいでいなくなったらどうしようって思ったら、怖くて。みんなのことが好きだから、余計にどうしたらいいかわからなくて」

「いなくなる? ここにいる全員?」

「そう」


 堰を切ったように、言葉が止まらない。


「お母さんとおばあちゃんが死んだとき、私、ひとりぼっちになってしまった。怖かった。寂しかった。つらかった。またあんなふうにひとりになるのは嫌だったの……それくらいなら、私だけ我慢してここを出た方がいい。ずっとまし。だから……」

「ルジェナ」


 エーリク様は指で私の涙を拭いながら、低い声を出した。


「あの男は、君になにを言ったんだ?」




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