36、唯一の恩返し
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「ベルナルド、明日コスタロヴ先生のところに行くことになった。調整を頼む」
祝賀会が終わり、ようやく公爵家の離れの自室に戻ってきたエーリクは、ベルナルドにそう言った。
「コスタロヴ先生のところですか? どうしてまた」
「具合が悪いようなので、お見舞いに」
「狸ジジイには金輪際近寄りたくないとおっしゃっていませんでしたか」
ベルナルドは片眉をわずかに上げて聞き返した。エーリクは頷く。
「確かに、近寄りたくない、とは言ったな」
「気が変わったんですね」
「まあ、そんなところだ」
「わかりました」
ベルナルドは慣れたように続けた。
「明日の予定は明後日以降に振り替えるように、イザクとヴィクトルに伝えておきます」
イザクとは、王都の王立研究所で働いている若者で、ヴィクトルは、バルツァル公爵家でエーリクに仕えている若者だった。両者とも、エーリクの予定変更に伴う調整に常に苦労している。
「物分かりが早いな」
そしてそれはベルナルドも同じだった。
「これくらいで動じていてはあなたの右腕は務まりません」
「ありがたい」
ベルナルドが思い出したように付け足した。
「明後日のボレイマ子爵との約束はどうしますか? キャンセルしますか?」
「いや」
エーリクは首を振った。
「ミレナを通じてこちらから面会をお願いしたんだ。悪いが、それは他の約束より優先してくれ」
「かしこまりました」
「当分、忙しくなりそうだな」
慣れ親しんだはずの公爵家で、エーリクは窮屈そうに息を吐いた。
「短い期間しか過ごしていないのに、あちらの生活がもう懐かしいなんて面白いね」
思わず呟いたが、ベルナルドは淡々と答えた。
「場所じゃなく、人に思い入れがあるんじゃないですか」
「……なるほど」
珍しくエーリクは言い返せなかった。
‡
翌日。
コスタロヴは自室に訪れたエーリクに、明らかに迷惑そうな顔を見せた。
「何しに来た」
あらかじめ、イザベラを通して訪問することは伝えているはずなのだが、追い返しそうな勢いだ。だが、エーリクは気にしない。
「お加減が思わしくないと窺ったのでお見舞いに」
言いながら、寝台の横に置かれた椅子に勝手に腰を下ろした。その方がコスタロヴにとって目線が楽だと思ったのだ。
ベルナルドは廊下で待っていた。コスタロヴと二人で話すのは久しぶりだとエーリクは思う。起き上がることなく、コスタロヴは言った。
「今更イザベラと婚約したいとでも言うつもりか? 謝るのなら聞いてやらんこともないぞ」
エーリクは苦笑する。
「ご安心ください。イザベラ嬢と婚約することはありません」
「……だったら何のために来た?」
「診察するためです」
「何?」
問答無用とばかりに、エーリクは動き出した。
「やめろ!」
「失礼、腕を拝借します」
以前、ルジェナを診察したのと同じように、コスタロヴの体のあちこちに触れ、何かを判断するように眉を寄せる。
「何をする!」
コスタロヴが抵抗をしても、関係ない。エーリクはあっという間に診察を終え、ため息をついた。
「……どうして、こんなになるまで放っておいたんですか」
もはや、コスタロヴに残された時間がわずかなことは、明らかだった。
「イザベラ嬢は、先生があまり人を寄せ付けないと言っていました。周りには隠しているんですね? 家族にも? なぜ?」
素直に答えるコスタロヴではない。代わりに聞いてもいないことを話し出した。
「エーリク、この人でなし。今まで目をかけてやった恩を忘れたのか? 回復薬など、偽物だろう! この恩知らず! よくものこのこ顔を出せたな」
エーリクは何ひとつ表情に出さず、答えた。
「回復薬は本物ですよ。魔女の万能薬とは厳密には違いますが、効能は証明されました。ここにあります」
エーリクは懐から小さな小瓶を出した。
「飲んでください。今日はこれをお渡しするために伺ったんです」
「なに?!」
コスタロヴは目を丸くして、身を起こそうとした。
「お待ちください」
エーリクが手伝い、何とか半身を起こす。
「……これがそうなのか?」
エーリクが再びよく見えるように差し出した小瓶を、コスタロヴはまじまじと見つめる。
エーリクは頷いた。
「はい。ただ、死病は治せません」
「何? ではなぜ薦める?」
「飲めば残された時間、少しでも健やかに過ごせる可能性がありますので」
コスタロヴは苦々しげに呟いた。
「お前……私を憐れんでいるのか?」
「というより、先生」
エーリクは感情を込めずに続ける。
「これが私にできる、唯一の恩返しなのです」
「恩返しだと?」
コスタロヴの手は震えていた。見る影もなく痩せた頬に、乾いた皮膚が貼りついている。
ずいぶん、苦しい毎日だろう。痛みを紛らす薬を飲んでいるのだろうが、それも効かなくなってくるはずだ。
エーリクは、コスタロヴの手に回復薬を握らせるようにして言った。
「基礎を教えて下さったことには感謝しています」
コスタロヴは満更でもなさそうに言った。
「やはり私あってのお前だと気がついたか」
「そうですね。だけど」
エーリクはためらうことなく、一気に言った。
「先生の教えだけではこの回復薬は完成しませんでした」
「何だと?」
「だって、そうでしょう? 先生の教えだけで完成するのなら、先生がとっくに作り上げているはずじゃないですか」
エーリクはきっぱり言った。
「この薬がここにあるのは、様々な人の協力と、あなたの教えと……サムエル・キセリーのおかげです」
「帰れ!」
ガシャ!
回復薬を手で払って、コスタロヴは叫んだ。
「お前の顔なんて二度と見たくない! 帰れ!」
エーリクは立ち上がった。
「それでも、感謝しているのは本当です。ご期待に応えられなかったことは……」
小さく息を吐く。
「お互い、残念ですね」
「うるさい!」
「先生、どうぞご自愛ください」
エーリクはそれだけ言って、部屋から出た。
「待たせたな」
「いえ」
廊下で待機していたベルナルドに、いつもの調子で言う。しかし、すぐに歩き出そうとせず、今出てきたばかりのコスタロヴの寝室の扉を見つめて呟いた。
「ずっと……」
ベルナルドは何も言わずにただ聞いている。
「ずっと、あの人に認められたかったんだが」
願いが叶わなかったことを、エーリクはいつもの笑顔の下で噛み締める。
「さあ、帰ろう」
ベルナルドと並んで歩き出す。コスタロヴの家の使用人が慌てたようにこちらに来るが、大丈夫というように手を振る。
そして、ベルナルドに向かって言う。
「明日も忙しくなるな」
ベルナルドは頷いて、エーリクをコスタロヴ家の玄関に案内する。
「すでに馬車を用意しております」
エーリクは笑う。
「できる男だよ、お前は」
「ありがとうございます」
‡
フリードリヒことフランツが、震える字で書かれたコスタロヴの手紙を村で受け取ったのはそれからすぐだった。
「先生が、お怒りになっている……」
そこには、「役立たずの弟子フリードリヒ」を罵る言葉がこれでもかと記されていた。
「これは……血?」
コスタロヴの健康状態を察したフランツは、もはやのんびりしていられないことを悟った。
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