第32話 清らかな青

 空気の漏れは瞬く間に激流となり、イーガルは漆黒の宇宙に吐き出された。備品が、道具が、機材が、止めどもなく吐き出されていく。


「ちくしょおぉぉっ!」


 イェルンは絶叫した。色々な感情が混ざり込んだ叫びすらも、船外に流れ出しそうだった。

 わずかに引っ掛けていた指が、滑り始めた。態勢を立て直したくても、空気の濁流は激しく、加えて体中に蓄積されたダメージのせいで、思い通りに力が入らなかった。

 絶望が心を支配し始めた時、漂流物のコクピットの窓からラグティナの姿が見えた。真剣な目がイェルンの目とかち合った。


「………………」

「………………」


 無言で睨み合う。異様な光を放っている目からは、数々の訴えが込められていた。

 離れていても、言葉が分からなくても、イェルンにはラグティナの執念が伝わってきた。

 あれは、なにがなんでも生き抜こうとする者の目だ。すでにこの空間がイズミールの近くまで接近していると気づいているのだろう。あれでイズミールまで帰るつもりなのだ。自分たちにも目的や義務があるように、ラグティナにも遂行しなければならない事情があったのだ。

 この宇宙の片隅で起きた偶然が幾重にも重なって彼らを敵対させ、惨劇へと誘われた。そして、それもラグティナが脱出することで終わりを迎える。

 轟音の中、ついに漂流物がカ・シィーツォから離れた。宇宙へと繋がる怪物の口が、完全に開け放たれた。


「うおあああっ!」


 凄まじい吸引が、イェルンの抗う力を奪う。美しいものを求めて飛び出した宇宙が、彼を取り込もうと凶悪な牙を剥き出しにして待ち構えている。

 神……光……美しいもの……。あそこに飛び込めば、それがあるのか?

 思考がなかば曖昧になりかけた時、闇の中に一点の滲んだ光を見つけた。漆黒の中において、その存在を主張するかのような清らかな青。こんな絶体絶命の中なのに、イェルンの視線はその光に釘付けになった。


「イ、イズミール……!」


 ついにイェルンの指が剥がれた。圧倒的な流れに抗う術などなく、無限の世界に突進していく。


「うおおおおおおおっ‼」

「イェルンンンッ!」


 アディは彼に向かってエプセッターを撃った。瞬時に放射状のネットが広がった。


「アディッ!」


 激流の中、ネットはきれいに広がりきらなかったが、一部がイェルンの足に絡まった。もう一度やれと言われても絶対に叶わない、万が一の奇跡だ。

 イェルンの体が不規則に回転し、ネットにがんじがらめにされた。もう外れる心配はないが、強い吸引力にアディがいつまで耐えられるか分からなかった。


「ううっ」


 アディの腕が伸び切っている。彼女から苦痛の声が漏れた。


「アディッ! エプセッターを離せっ!」

「だい、じょうぶ」

「このままだと、おまえまで吸い込まれるぞっ! 離すんだっ!」

「……もう少し……」

「アディッ!」

「ああっ!」


 アディの手が離れた。しかし、離れたのはエプセッターを握る手ではなく、扉の取っ手を掴んでいた方だった。

 アディが近づいてくる。しかし、その速度が緩やかなのに気づいた。

 さっきまで抗っていた激流が、いつの間にか凪に変わっていた。アディが扉のスイッチを操作しており、それがようやく閉じ切ったのだ。吐き出される空気は費えて、格納庫は穏やかさを取り戻した。

 ようやくアディがイェルンに接触し、彼を抱き寄せた。

 ネットに絡まったイェルンは身動きが取れなかった。スーツ越しであったが、彼女の体温と鼓動を感じ取った気がした。


「アディ……光が……光が見えたんだ。俺は、あれのためにここまで来たのか……?」


 イェルンが求めているものなど知らないアディには、彼の呟きは意味不明だった。朦朧とした意識が言わせたうわ言だと思った。


「早く、ここから離れなきゃ」


 空気の流れが完全に止まった。つまり、今や格納庫は真空状態ということだ。スーツが破損している状態では、もって数分だ。

 アディは倉庫内に残っている機材を掻き集めて、開いた穴をできるだけ塞いだ。これで、再び扉を開けても空気の流れは抑えられる。


「行きましょう」


 イェルンを抱えたままスラスターを器用に操作し、格納庫を出た。物資のほとんどが吐き出され、もう回収することはできないだろう。だが、大きな問題にはならないはずだ。あとはもう帰るだけなのだから。

 宇宙へと繋がる穴の向こうでは、船内の惨状など些細なことと言わんばかりに、イズミールが深い青を湛えていた。



 ラグティナがカ・シィーツォを離れて3日が経過した。

 宇宙に吐き出されてしまったイーガル以外は、全員がハイバネーション装置の中で眠っている。二度と目覚めることのない永遠の眠りだ。死してなお故郷に帰りたいなどとは、生きている者が勝手に考える妄想に過ぎない。それでも、イェルンたち2人はクルーの遺体を宇宙葬にする気にはなれなかった。なんとしてでも連れて帰りたいと思う。故郷の土で安らかに眠ってほしいと願う。

 装置の一つにはフィギュアキャプテンの遺体もある。ガラスが曇っていて中はよく見えないが、発見時と同様に静かに目を閉じていることだろう。

 イェルンには、アディに言えないでいることがあった。それは飽くまで想像の域を出ないし、内容があまりにも不吉だからだ。

 イーガルは理解あるリーダーを演じていたが、それは文字通り演技だった。クルーの気持ちを考えるふりをして、その実、今回の調査の成功に誰よりも拘っていた。言葉巧みに誘導したり裏で手を回して、イズミール調査まであと一歩というところまで漕ぎ着けたが、それにはチームの中心にいる必要があった。最終的な決定権を有する立場でいることが肝要だったのだ。そのためには、フィギュアキャプテンは目の上のこぶ以外の何物でもなかった。

 立場上の関係から、ハイバネーションが解かれる順はキャプテン、スタッフ・キャプテン、そしてその他のクルーと設定されている。つまり、フィギュアキャプテンとイーガルの2人だけが目覚めている時間帯があったのだ。もし、イーガルが最初から狂気を潜ませていたとしたら? フィギュアキャプテンは、本当にハイバネーション装置の故障で亡くなったのだろうか?


「………………」


 イェルンがその疑問を持ったのは、イーガルとラグティナの襲撃をしのいで落ち着いてからだ。すべてが片付いたと確信したからこそ、改めて事件のあらましを振り返ることができた。そして、事の発端はイズミール発見や航路の変更などではなく、フィギュアキャプテンの死なのではないかと考えが及んだのだ。

 そう行きついたのには根拠がある。フィギュアの遺体の状態だ。思い返してみるに、彼の遺体は綺麗だった。綺麗過ぎた。遺体は時間の経過と共に腐敗が進行していき、早ければ2~3日、冷房が効いていても5~7日程度で死臭を放つようになる。空調が行き届いているカ・シィーツォでも、死後3日~4日程度で傷んでくるはずだ。しかし、フィギュアの遺体からはまったく死臭がなかったのだ。まるでイェルンたちが目覚める数時間前までは生きていたかのように。

 ハイバネーション装置の故障で死亡した事例は、まだまだ少ない。それゆえ、腐敗の進行具合やそれに伴う臭気については詳しく語ることはできないが、やはりフィギュアの死にイーガルが絡んでいる疑惑は拭えなかった。そして、疑惑である以上、迂闊に口にすることはできなかった。


「どうかしたんですか?」


 いつの間にかアディが傍らに立っており、イェルンの意識が体の奥底から引っ張り出された。


「いや、なんでもない。いきなり静かになったせいかな。少しぼうっとしちゃって……」


 焦りながら言い繕った。アディはフィギュアの死に疑問を抱いている様子はなく、イェルンが考えていたことなど想像もできないに違いない。

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