3月(下)


 荷物は無事に玄関先まで運び終え――最後の一つを運び終えるのと業者の到着はほぼ同時だった――、業者を見送った燈子は、そのまま浴場の掃除と湯張り、食堂のセッティングを終えた。

 寮監室に戻ろうと廊下に出る。まっすぐに伸びたその終点、玄関脇の受付の脇に人影が見えて、燈子は軽く首を傾げた。

 ミヤだ。寮監室に何か用があるのだろうかと、足早に近づきかけて、彼女が誰かと話をしている様子だと気付いた。寮監室の中に向けて話しかけている。ということは、相手は市村だろう。

「――あ、燈子ちゃんお帰り」

 歩調を緩めてゆっくりと近づいていくと、果たして、受付の窓ガラス越しに会話を交わしていた市村がこちらに気付いて手を振った。その声に,ミヤもこちらを振り返る。

「じゃあね、みっちゃん」

「んー、社会人生活楽しんでね」

 ひらひらと手を振って階段の方へと去って行くミヤの後ろ姿を見送って、燈子は受付脇の扉から寮監室に足を踏み入れる。

「宮前さんは福祉系で就職するんだってね」

「ああ、管理栄養士の資格を取ったからな。特養の職員に決まったんじゃなかったっけか?」

 隣県にある大手企業が経営する施設と聞いたような気がする。

「――何話してたか気になる?」

「いーや、全く」

 ミヤは以前から市村に好意を寄せている様子だった。明日には退寮するその最後の機会に話したいことなど、ごまんとあるだろう。むしろ、途中で邪魔をしてしまって申し訳ないくらいだ。

「つれないなあ」

 受付の書類棚を開ける燈子の後ろから、市村が苦笑交じりの声を投げる。

「心配したりしてくれないの?」

「心配? ミヤのか?」

「違うから」

「もしミヤと付き合う気なら、明日退寮した後にしてくれ」

「違うってば」

 相手の意図を知っていて尚、わざと話を逸らして突き放そうとする燈子に、背後で市村がこれ見よがしに溜息をつく。それを完全に黙殺して、燈子は取り出した書類をぺらりと突きつけた。

「さっきの分、書類書いてくれ」

「んー」

 手渡した書類に、市村がさらさらとペンを走らせる。

「これ、僕の身分の所はどうしたら良い?」

「空けといていい。後で適当に書いておくから」

 と言っても『知人』と書くだけなのだが、市村に書かせてはいけないと過去の経験が警鐘を鳴らす。

「あ、ねえ。僕、良いこと思いついちゃったんだけど」

「いらん。おまえの『良いこと』は、大抵私にとっては『悪いこと』だ」

「ひっどいなあ」

「いつだったか、勝手に『配偶者』とか書きやがったこと、忘れてないからな」

「あはは、ついね。願望が先走っちゃったのかな」

 さらりととんでもないことを言いながら、市村が書類を差し出す。それを受け取り――余計なことは書かれていなかった――、バインダーに挟み込むと燈子は視線を上げた。目が合って、市村が小さく微笑む。

「……悪かったな、手伝わせて」

「燈子ちゃんの役に立てたなら、良かった。ふらっと立ち寄った甲斐があったね」

 穏やかに返す立ち姿に何となく居心地の悪さを感じつつ――ただ立っているだけでやたら絵になるのが腹立たしい――、燈子はじっとりとした視線を投げた。

「ふらっともくそも、ほとんど毎日顔出すくせに」

 市村が籍を置くのは、近隣にある国立大学の博士課程だ。本人曰く、この寮の前を通るのが自宅から大学への最短ルートだと言うが、それが必ずしも真実ではないことを燈子は知っている。むしろ、もっと大学に近い物件などいくらでもあるのに、わざわざ少し離れた下宿を借りていることも。

「それはほら、燈子ちゃんに会えたら嬉しいし。ね?」

「……」

 柔らかな表情を浮かべて小首を傾げる市村に、燈子は無言で視線を返す。もの言いたげなその表情に、市村は小さく嘆息すると両手を肩の所まで挙げた。

「ほんっと、つれないなぁ」

 苦笑して、市村は軽く首を傾ける。

「さてと。燈子ちゃんの役にも立てたし、そろそろ帰るね」

「おまえ……ほんと毎回、何しに来てるんだ?」

「燈子ちゃんに会いに?」

「……」

 当然のように返されて言葉を失った燈子は、がしがしと頭を掻きながら目をそらす。戯れ言を、と思いながらも、そう強く否定できない空気があった。

「じゃあ、またね」

「…………ああ」

 反射的に応じてから、しまったと思うがもう遅い。普段ならここは「二度と来るな」と返す所だったのに。今日は体よく使ってしまった罪悪感もあって、ついうっかり応じてしまった。

 相手の反応を伺うようにそっと視線を上げると、驚いたように見開かれた市村の目とぶつかる。

「あー……なんだ、その」

 もごもごと言い訳を探す燈子を眺め、市村の目元がふっと緩んだ。

「うん。それじゃあね」

 そう言って踵を返した市村の背中が扉の向こうに消えていくのを見送って、燈子は額に手を当てた。

「…………なんつー顔をするんだあの馬鹿」

 最後に見せた市村の表情が脳裏に浮かぶ。驚きに丸く瞠っていた目元をふわりと緩めた――どことなく嬉しそうな微笑。

「なまじ造作が整ってるからインパクトが強いだけだ……それだけだ……」

 掌で顔を覆ったまま、燈子は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。


 *


 翌夕のこと。

「――ミヤ?」

 玄関前にミヤの姿を見つけて、燈子は首を傾げた。今朝、無事に退寮したばかりだというのに、どうしたのだろうかと疑問がよぎる。

「どうした、忘れ物でも――」

 声を掛けながら近づいて、既視感に足を止める。着ている服も、寮監室の窓口を覗き込む姿勢も見た覚えがある。

「……なんだ、昨日の『記憶』か」

 近づいても、ミヤはこちらに視線を投げることすらなく、窓口に向かって話しかけている。けれど、無声映画のようにその口の動きが音を発することはない。昨日、市村と話していた時のミヤの「記憶」がこの場所に焼き付いていたのだろう。

 退寮した卒業生の「記憶」が残ることは珍しくない。この場所で日々を過ごした思い出は、場所にも多かれ少なかれ焼き付いている。人の記憶が薄れていくのと同じように、年月と共に薄れて消えて、新たな「記憶」に上書きされながら。

 ミヤにとって、昨日最後に市村と話せたことは、大事な思い出だったのだろう。ふっと笑って、燈子は寮監室に戻った。


 おかしい。そう気付いたのは、それから数時間後のことだ。

「……なんなんだ?」

 あれ以降、寮内の所々で立て続けにミヤの「記憶」を視かけるのだ。それ自体はおかしな事ではないが、まるで燈子のルーティンを追うように、行く先々にミヤがいる。今も、夜の見回りに出た廊下の先にミヤが視える。

 普通、寮生達の「記憶」は本人とゆかりの深い場所に刻まれる。だから、各自の居室や親しい寮生の部屋、皆で集まる食堂や集会室などに「記憶」が残るのはよくあることだ。それから、夕方に見かけた窓口の「記憶」のように、当人にとって思い入れの強い出来事の起きた場所にも残りやすい。

 けれど、先程から見かけるミヤの「記憶」は、廊下だの階段だのと、どれもこれも思い出になりそうにない場所ばかり。本人の様子も、誰かと話している風でもなく、ただ佇んでいるだけだ。

「幽霊じゃねえんだから」

 慣れたとはいえ、消灯後の薄暗い廊下にぽつんと立つ人影はそれなりに怖い。意図が分からないなら、なおさらだ。

「…………んー?」

 もしかして、とひとつの仮説が脳裏に浮かぶ。

「とすると……」

 呟いて、燈子は廊下を進む。見回りついでに辿り着いたのは、今日までミヤが使っていた部屋だ。

「どれかね……ま、順当にいきますか」

 彼女は本来の居室の他に、空き部屋を書庫に使っていた。その計3室の内、どれかがおそらく正解なのだろう。

 まずは順当に、と居室にしていた部屋の扉を開ける。果たして、その先にもミヤがいた。備え付けのベッドと机と棚以外に何もなくなった殺風景な部屋の奥、月光が差し込む窓際に佇んでいる。

「……」

 話しかけても意味はない。燈子は黙って、「記憶」が動くのを待った。ややあって、ミヤはおもむろに歩き出し、机に近寄る。手を動かしているのは、おそらく机の引き出しを開け閉めする動作だろう。引き出しを空け、右手に持っていた何かを入れて――仕舞う。その一連の動作が、数度繰り返された。

「……」

 燈子は机に近づくと、引き出しに手を伸ばした。ゆっくりと開いたそこに――果たして、一葉のカードとラッピングされた小さな包みがあった。


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 燈子さんへ


 三年間、ありがとうございました。

 寮生活、楽しかったです。床、何度か抜けちゃってすいませんでした。

 燈子さんが寮監で良かった。これからも後輩達をよろしくお願いします。

 無理して身体壊さないでね。


                  宮前恵麻

 追伸

 みっちゃんにも、もう少し優しくしたげなよ。お幸せに!

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「……手の込んだことをしやがって」

 直接手渡しするのではなく、わざと「記憶」を残し、燈子に違和感を抱かせて。

 昨日、玄関先で話していたミヤと市村の様子を思い出し、苦笑が漏れる。こんなやり方を教えたのは、絶対に市村アイツだ。燈子の「記憶」を視る力を知らないミヤには、意味の分からない行動だっただろうに。

 微笑みつつ手紙を読み進めた燈子の目が、最後に添えられた一文に留まる。

「――ったく、余計な世話だっつの」

 寮生達はこぞって勘違いしているようだが、市村は燈子にとってはあくまでも天敵なのだ。だから天地がひっくり返っても、そんなことはあり得ない――筈。

 脳裏を一瞬過った、昨日の市村の表情を打ち消すように首を振ると、燈子はカードと包みをそっと抱えて部屋を後にする。

 無人に戻った部屋の中、ミヤの「記憶」は月光を浴びながら、何度も何度も、引き出しに何かをしまう動作を続けていた。

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