二
たずねる(一)
結論から言えば、たまは大して叱られなかった。不思議なことにおかみさんもだんなさんも「遅くまでご苦労様。無事で良いことだが、夜は気をつけなさいよ、お前も女子なんだから」と言ったきり。大層心配したとか、
なので、たまは昨日と同じようにけろりと働き始めたのである。
春の
そうやってばたばたと働き回っていると余計なものが見えることもないので、たまは働くことが存外好きだった。今のところ、この店に人間以外が立ち寄ったことはない。そういうものを見るのはいつだって店以外だったから、そういう意味でも安心できるのだ。
あさり売りや豆腐売りが通り過ぎて、何人か見知った顔や見知らぬ顔が客として来て、帰って、昼過ぎになって、おかみさんから休憩の許可がおりた。許可ついでに炙りすぎた団子と茶もくれたので、早速店先で食うことにした。どのみち、今の時間は客が少ない。たま一人店先で食っても営業妨害にもならないとのことだった。
熱い茶に、砂糖蜜のかかった団子、常連客に貰った漬物をそえる。ほくほく、ぽりぽり、ごくごく、もちもち、ぽりぽり、ごくごく……。ああ、こうしてのんびりと陽に当たっている今はなんという贅沢な時間だろうと堪能していた。
──大抵、そう言う時に来るものである。俗に言う嵐というものは。
「よう」
覚えのある声。振り向いたら、覚えのある姿。嵐も嵐、大嵐だった。
「や、夜四郎さま⁉︎」
たまは思わず声を上げていた。慌てて周りを見るが、誰も気がついていない。好き勝手に見えたり見えなかったり、なんとまあ便利な男である。
そんなことよりも、たまは自分の居所が昨日の今日で割れてしまったことの方に衝撃を隠せなかった。
「な、な、なんでいるんですか夜四郎さま!」
夜四郎はいつの間にやら
「団子を食いに来たんじゃない」
そんな事を言う。
「で、でも、昨日のお話は確かに……」
「そう、お前さんは確かに断った。なに、無理強いしに来たんじゃねえのさ」
何がおかしいのかけらけら笑った。たまは
「こ、この一晩でたまの
「おいおい、おまえさんが昨日自分で団子がどうのと言ってたろう。そんで空の菓子箱を抱えていたってことは何処かに菓子でも届けた帰りかな、じゃああの辻の近くにある団子屋と来たら、通り沿いにあるのはこの店しかねえだろう」
「えっ」
どうやらたまの口が軽かったらしい。慌てて口を抑えるが、出てしまった言葉は戻らない。
「あはは、そうさ、お前さんはちと不用心だぜ。もうちっと気をつけなよ」
やはり夜四郎はけらけらと笑った。
さて、男はたまを笑いものにする為だけに来たわけではなかったようだった。笑い終わると、何かを取り出して、
「ほれ」
とたまに左手を差し出して来たのである。そこに乗っていたのは、
「これは?」
黒い着物の端でできたような……どうやら眼帯のようだった。それを渡す為に来たのだと夜四郎は言った。
「これでその右目、隠しときな。おまえさんがどれほど運良くこれまでの十何年もやり過ごしたかは知らんが、これからもうまく行くとは限らんだろう。お前さんはすぐ顔に出るからな」
失礼な、と言いかけて引っ込める。否定できない自分が憎い。
「ええと、目はすこぶる健康なのにいきなり隠すんですか? とても怪しくないですか?」
「なあに、怪我でもしたと言やあいいのさ。それか
「ええ……」
たまに考えろと言うのか。病気だと店に出してもらえないかもしれないので、怪我か少し調子が悪いとかにしておくのが無難だろう。
「これは必要でしょうか……」
「必要だとも。おたまが一人の時に妖に会ってみろ、見えた恐怖を顔に出してみろ、襲われてみろ、か弱いお前さんがどうなるかなんてわかるだろう?」
ぶるりと震えてみせる。震えたいのはたまの方だ。
「ああ考えたくもねえ──俺が折角出会えた便利な目、みすみす妖なんぞに好きにさせるものかよ」
…………。
「あのう、協力のお話は確かお断りしたはずではありませんか」
「うん、断ってた」
「それで了承されてました」
「うん、とりあえずはな。でも話はしに来ていいってンじゃなかったかい。俺は話に来たんだよ」
「はあ……そうなら、良いですが」
なんとなく上手く流されてる気がする。
そうとは言え、確かに男の言い分ももっともではあるのだ。たまは思ったことが表に出やすい。見えないフリもどれだけ通じることやら。
「俺がお前さんを納得させられる妙案を捻り出すか──もしくはお前さんが顔色を変えるのが上手くなるかだな。それまではつけていた方がいいだろうよ。協力云々は置いといたとしても、この俺もおまえさんを危険に晒したくないと言うわけよ」
いざという時の担保というつもりらしい。どこまでも、というかやはり今でも、夜四郎はたまの目をアテにしてるらしかった。
「まあ、考えてみます……」
たまとて、アテにされたくなどないのだが、同じくらい怖いことは嫌なのだ。目隠しは思いついたこともなければ試したこともなかったので(今まではそういう場面では
ひゅるるる、と風が舞って、たまはぶるりと震えた。ああ、春だけどまだ寒い。通りを行くほとんどの人は素通りして夜四郎に目もくれないが、何人かはちらりと視線をくれる人もいる。見ようとすれば見える──その延長なのだろうか。見る人にはこの男は食べもせず飲みもせず団子屋の年若い娘と喋っているだけに見えるのだろう。それは団子屋としても困る。
「あのう、夜四郎さま、お団子は如何でしょうか。そう何も食わずにずうっと座られてると……」
「ほとんどの奴には見えんし、見えてもすぐ忘れるさ」
「いや、とは言いましてもうちは団子屋でして」
「ううん、そうは言っても生憎銭に余裕がなくてなァ、ご存知辻に張り付くだけの存在でさ、見えねえ人には見えないから金も稼ぎようがねえのさ。団子は美味そうだが銭がなくちゃあ食えねえだろう」
極めて頼りにならない男である。
「じゃ、団子屋に何しに来たんですか」
「言ったろう。お前さんに
「そうですか、それでは」
帰れ、と
たまにぐいぐい押されて、夜四郎は転がるようにして立ち上がると
「乱暴だなあ、嫁の貰い手が泣くぞ」
とジトリと見てきた。
「ずうっと夜四郎さまとお喋りしてると、嫁ぎ先の前にお客さまが来なくなります」
「いいや、見ようとしなきゃ俺は見えないんだ。つまり、俺がいようがいまいが客は来るし、来ないんなら俺がいなくたって来ない」
夜四郎がそう言い放ったのと、
「もうし」
そう声をかけられたのはほぼ同時だった。
振り返れば若い男がいた。まだ顔立ちに幼さはあるが、どこか大人びたようにも感じる。旅の商人だろうか、その見習いだろうか──そんな風に見えた。ぼんやりとするたまに、男は不安そうにもう一度声をかけた。
「あの、団子屋の人であってますか。団子を一皿、それと茶を……」
「は、はい、ただいま!」
慌てて意識を戻した。
ちら、と振り返ると夜四郎はまた
──ああ、まったく自由な人!
たまは貰った布を袂に仕舞って仕事に戻った。
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