『窮民の巣窟』②
エクリプス区貧民に扮して情報を集めた蛍達は、新たな気がかりとなる"噂"も耳にした。
一か月前の十月七日頃。石井は週に一度の頻度で、エクリプス区へ人目を忍んで来ていた。
その理由を知る鍵は、地下街の最奥で経営されている雑貨店『フィロソフィー』にあると目星を付けた。
石井はフィロソフィーに足繁く通い、店内で"誰か"と会っていた。
石井が人目を忍んで会っていた人物は薬物の売人か、それとも「猟奇殺人事件」に関与する"誰か"か。
どちらにせよ、石井と同様に後ろ暗い事情を抱え、無法地帯の貧困区に身を潜める不審人物に違いない。
先ずは蛍と黒沢、浜本の三人組は素早くも慎重な足取りで、地下街の最奥を突き進む。
やがて、地下商店街の賑わいを疎むような静寂の場所へ辿り着いた。
大きな
首のもげた裸の白いマネキン。
埃や煤で汚れた衣服や、瓦礫の下敷きになっている
他にも食品や煙草の空箱等のゴミも散乱している。
無人の廃店舗ばかりが並ぶ中。濃緑色の看板に銀の塗料で『フィロソフィー』と描かれた古めかしい商店が目に入った。
濃紅色の扉の塗料は所々剥がれ落ち、安っぽい黄金色のドアノブはぐらついている。
硝子窓を覆う白い布のせいで、外からは中の様子は見えない。
さっそく蛍達三人組は、店周辺の廃店の物陰やホームレスと同じ
「(あれは……)」
張り込み開始から三十分後。
噂通り、標的の人物はフィロソフィーの扉の中から姿を現した。
石井の姿は窮乏に喘ぐ不幸な若者らしく、以前よりさらにやつれていた。
捜査中、証明写真でも参照した健康的で爽やかな若者らしさは見る影もない。
悲壮に落ち窪んだ瞳には、獣さながら虚ろであり、爛々と燃えている。
「ここにいたのですね、石井」
夢遊病者さながら緩慢な足取りの石井を前に、事態はついに始動した。
氷刀で首筋をなぞるように冷凛とした声は、石井の鼓膜を震わせた。
蛍達の存在に気付いた途端。死んでいた表情に絶望の色が浮かび、驚愕に眉を深くひそめた。
「っ……!」
蛍達に阻まれた道とは反対方向へ、石井が体を反転させる。
石井は棒切れさながらの足で薄汚れた床を蹴って逃げる。
しかし、目線の先に見えた真っ直ぐな道の左右に隠れた路地の方からも、光と後輩の望月、香坂の刑事官達も待ち構えていた。
四方を囲まれ、退路を完全に断たれた石井は立ち尽くす。
どう足掻いても逃げられないのは一目瞭然。
諦めたのか、荒い呼吸を繰り返している石井はついに両手と膝を床につけた。
「降参しろ、石井。お前には佐々木所長殺害の嫌疑の他、留置所からの逃走罪、公務執行妨害も重なるだろう」
浜本は冷然と容疑を述べて牽制する。
浜本に気圧された石井は捕食される動物さながら、ますます無言で萎縮する。
袋の鼠となった石井一人を数人がかりで取り押さえることは容易い。
しかし互いの安全性と"それ以外の点"を考慮すれば、まず必要なことは――。
「石井さん。必要なことは、実に
蛍は歩み寄るように静かな口調で、石井への語りかけ始めた。
先程とは打って変わり、穏やかな声色の蛍に石井は困惑と新たな怯えの混じった眼差しを向ける。
「逃げるのではなく、ただ我々へ"そのままの事実"を伝えることです。今のあなたは一体、何にそれほど"怯えている"のか。話してくだされば、あなたの身の安全を保障することも検討できるのですよ」
蛍の語りかけは、被疑者として追われている石井の"味方"だ、と主張しているとも捉えられる。
冷徹な蛍らしからぬ台詞に、後輩刑事官や黒沢も目を張る。
しかし蛍とは常に想いを伴にする光は当然、彼女の手腕と目的を理解している浜本は様子見に徹する。
一方、落ち着く払った蛍の声と眼差しに石井は今も身構えたまま。それでも、氷のように冷え渡る眼差しと声色に敵意は感じられなかったおかげか。
猜疑と血走っていた瞳の奥でぎらついていた炎は弱まっていくように見えた。
「たとえ、あなたが真犯人であったとしても、あなたが罪を償い"やり直せる"よう、我々も最善を尽くします」
曇りなき氷の眼差しと嘘を感じさせない言葉に、石井は息を呑んで蛍を見つめ返す。
突き刺さるような目付きのままが、弱々しい表情と姿勢は助けを求める幼子のようで。
「っ……嫌だ! 俺は何も知らない! 何も悪くない! 全て、あいつらが悪いんだ!佐々木は、生きる価値のない"屑野郎"だ!!」
蛍の呼びかけに絆されそうになるのも束の間。
石井は我に返ったように顔を上げると、必死の抵抗と共に佐々木への憎悪をほとばしらせる。
「あの死んで当然の屑は……"子ども達"のことで、俺を……"俺の大事な"……っ。だから俺は……っ……でも、あいつは、まさか、あんな……! 俺は悪くない! 捕まるってたまるものかああぁぁ!!」
再び興奮した様子で頭髪を掻きむしりながら喚き散らす。
しかし、一見支離滅裂に聞こえるセリフには、意味深な事実を孕んでいるようにも響いた。
"あいつら"とは、一体何者なのか。
しかも、石井の"共犯者"らしき存在は一人だけではない?
すっかり錯乱している石井の耳には、もはや誰かの言葉も届かない。
「今だ――!」
埒が明かない、と業を煮やした浜本は指示を仰ぐ。
絶妙な
黒沢に続いて蛍と光も、石井に向かって迅速に駆け寄った。
しかし、時はすでに遅かった。
獣さながら血走った眼の石井はズボンの懐へ両手を突っ込み、複数の「小さな球体」を投げ付けてきた。
「!? しまった――。皆、目と口を閉じろ!」
途端、軽やかな爆音が鳴ると共に、通路一面は熱を含んだ七色に彩られた煙幕に呑まれた。
指示を耳にした後輩達、煙幕の正体を一眼で察知した蛍達は、目鼻口をとっさに塞ぐ。
石井が投げたのは、旧時代に子どもに人気を博した"煙玉花火"だった。
現代では生産停止となった煙玉花火は、恐らくエクリプス区で非合法に販売だけでなく、"改造"も施されている。
煙幕からは唐辛子らしき芳香も混じっているらしい。
咄嗟に防御しきれなかった後輩の一部は、目鼻を突き刺す痛み、舌から脳天を燃やす猛烈な辛味に悶絶している。
一方、蛍を含む敏腕の刑事官達は慌てる様子もなく、逃げた石井の行方へ意識を向けている。
極力煙を吸い込まず、足元にも注意を払いながら前を突き進む。
やがて視界の煙幕が晴れていく。
「皆、無事か」
「は、はい。でも……目が開けられません」
「望月刑事官。ハンカチを少し当てると楽かも」
「すみません、櫻井先輩」
幸い、仲間に負傷者はいないようだ。一方、煙幕の唐辛子成分に目をやられた望月後輩へ、蛍は気を利かせる。
望月は借りたすみれ色の清潔なハンカチを両目に押し当て、痛みがひくのを待つ。
「あー、くそっ。石井の奴、どこへ逃げやがったんだ?」
四方から囲まれた石井が、まさに煙をまいて逃げるとは予測していなかった。
成功を確信した己の慢心に、光は唇を噛み、黒沢は悔しそうに悪態を吐く。
「急いで後を追え。そう遠くへは行けないはずだ」
「ここは、手分けして探しましょう」
悔しさを噛みしめる部下に向かって、浜本は冷静に指示を出し、蛍は次の作戦を提案した。
ただし、唐辛子煙を喰らった者達は視界が回復するまでは待機を余儀なくされる。
蛍と光、黒沢と浜本の刑事官四人だけで、石井を手分けして探すことを決めた。
煙幕玉による目眩しはせいぜい一分未満であるため、直ぐに見つかるだろう。音も影も一切消して隠れる場所も、瞬間移動で遠く逃げる術もない限りは。
蛍達四人は、一本の地下通路に広がる仄闇を真っ直ぐ突き進み、やがて分かれ道に差し迫った。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫。子どもじゃないんだから」
真っ先に蛍を案じる光に、蛍は半分呆れと感謝を込めてつっぱねる。
少女らしい微笑みで光を安心させようとする蛍に、光は切ないものを胸に感じつつも渋々微笑み返した。蛍を案ずる光の瞳には、真夏の日差しと似た温かみが滲み溢れていた。
「何かあったら、『無線インカム』で呼べ」
「お二人さん、仕事中もお熱いこった」
互いを気遣う蛍と光の仲に黒沢は茶々を入れ、浜本は咳払いを零す。
当の光は照れ隠しといわんばかりに、黒沢の頭をやや乱暴に叩いた。
喧嘩するほど仲が良い。
親友同士の微笑ましい光景に、蛍の心は明るくなるのを感じる中、暗い通路を各々で駆け抜けて行く。
しかし、四人の辿ったどの通路を隈なく探しても、石井の影も匂いすら見つからない。
無線インカムでも、こまめに連絡を取り合うが返答は皆同じ。
視力が回復した後で、他の通路の捜索や合流を果たした後輩達も然り。
やがて、蛍は石井が煙玉で撒いて逃げた元の位置へ戻って来た。
「(確か……石井が煙玉を投げた瞬間、音響も時間もあまりに小さくて短かった……)」
蛍の視界に映るのは、何の変哲もない茶色い油汚れがついた乳白色の石壁。
重厚に閉ざされた灰色のシャッター。
無機質な壁とシャッターに挟まれた狭い路地の前に、蛍は一人きり。
石井が逃走した瞬間の状況を、蛍は脳内で鮮明に再現する。
神隠しさながら、まさに煙のように影跡もなく消えた。
石井が、この地下のどこかで今も隠れているのは確かだと仮定する。
人間が普通に走って逃げたのならば、断続的な足音が遠ざかるように響き渡るはず。
しかし、通路が煙幕に満ちていた間、石井の足音を耳に記憶したのはほんの数回程度の短い時間。
ふと、目に留まった錆びたシャッター。頑丈で重いシャッター短時間で、音も立てずにこじ開けて塞ぐのは、人の腕力では到底不可能。ならば。
「まさか、"こんなところ"に……?」
周辺を観察しながら思考を巡らせていると、やがて蛍の慧眼は導き出した。
錆金色の汚れが散った、くすんだ乳白色の壁。
近距離で目を凝らすと、偽大理石の壁には一部、不自然に真新しい白い跡があった。
長方形を立てるように描かれた跡は、汚れや破損が進んだ壁の一部を新しく塗料したように見える、が。
ドクリッと高まる鼓動を感じる中、蛍は目の前の壁へ触れると、渾身の力で押してみた。
ガコンッ――石特有の重みと同じ音に手のひらと鼓膜が微かに震えた。
双眸を見開く蛍の視界に、縦長い虚闇の穴が入った。
「なるほど……"隠し戸"があったのなら、道理で」
煙幕で蛍達の目を眩ましている隙に、石井はこの隠し戸の中へ咄嗟に姿を消したのだろう。
闇穴の中は狭かったが、身体を横向きに差し込めば、大人でも滞りなく潜り抜けられた。
隠し通路の内部へ完全に入れば、両手を伸ばせる空間が広がっている。
念のため、戸を閉じてから内部の奥へ足を運び出した。双眸が少しずつ常闇に順応していく蛍は、ポータブルポリスを取り出して眩い灯りを照射させた。
通路の全体構造と先に何か見えないか把握するために。
「(それにしても真っ暗……)」
自分の指差すら見えない深い闇、腐敗水の臭いが充満する空間に内心眉を
それにしても、地下街の壁にこんな「隠し通路」が存在したとは。
『ICT安全装置』の監視の目も政府の介入も皆無な無法地帯・エクリプス区であれば、十分あり得る話だ。
地上での事象しか把握しきれていない我々警察の知らない、違法な闇取引や"被害者なき犯罪"等も繰り広げられているに違いない。
常闇の道を慎重に歩み進めながら、蛍は無線インカムの通信も開いた。
「こちら、櫻井刑事官です。朧月が逃走を図った場所の壁に、隠し通路の戸を発見しました。隠し戸の特徴は……もしもし?」
蛍は通信越しに状況を報告するが、イヤホンからは耳障りな
蛍は試しに通信の電波を一度切っては繋げ、声かけを繰り返したが、仲間からの応答は一切ない。
「いつでも、どこでも、誰とでも繋がる」を売りに、ルーナシティの全区域には、通信電波が蜘蛛の巣さながらくまなく張り巡らされている。
反対運動によって政府の介入の阻まれたエクリプス区も例外に漏れないはず。この区内の窮民にも連絡手段やネットゲームなどの娯楽のための伝播を必要とするからだ。
地下街においても、蛍達の端末にはアンテナ一本分の通信電波がギリギリ届いていた。
となれば、この隠し通路に入ったことによる「通信不良」、もしくは……。
冷静に研ぎ澄まされた蛍の心に波紋した"予感"は、間もなく現実となった。
改めて、端末の通信状態を表す画面を宙闇に投映させると、蛍の双眸は瞬いた。
最後の砦であった一本の電波アンテナは消え、「圏外」という無情な文字が表示されていた。
「こんな時に限ってまさか――」
"原因不明の機能不全"を起こした端末、と電波障害による通信不良。
一刻を争う状況で、唯一の連絡手段を断たれたと悟った。
蛍は、今ここで自分が取るべき行動の選択を否応なく迫られた。
ここは常闇ばかりで視界も悪く、狭い通路では身動きも難しい。
しかも、逃走犯がいつどこから現れるのか不確かな状況での単独行動は非常に危険だ。
本来は仲間の増援を呼びかけてから、先へ進むべきだが、それも叶わない。
しかし、今こうして手をこまねいている間にも、今度こそ石井は手も届かない遠い危地へ逃亡する。
ここへ来た目的を優先するならば、唯一の痕跡を発見した
即時に決断した蛍は片手に拳銃を構え、深海さながら果てなき闇を突き抜けていく。
後で、光達には事情を話してから、しっかり謝ろう。
今までも危険な場所へ単独潜入し、凶悪な犯罪者の制圧・逮捕に成功した。
敏腕刑事官としての経験値の高さと実績こそが、蛍の即時決断と自信の根拠だった。
「着いた――」
一直線に続いていた細長い通路を、進んでから約数分後。
やがて、赤褐色の
腐敗水の溜まり場から漂っているらしい臭気に淀んだ空間。
蛍は窒息するほどの不快感を堪える。
通路の突き当りで左へ曲がると、道の奥で光源が瞬いているのが見えた。
仄かな
反面、この先に未知の脅威が待ち受けているのを想像すると、拳銃を握る手へ力が入る。
現時点では、人らしき気配も足音も感じないが、油断は禁物。
慎重な蛍は足音を極力立てずに、光源のもとへ一歩ずつ踏み出した――。
「(……!? 何故、突然ここで繋がった?」
突如、灯りを放つ黒い鉄塊と化していた警察端末は連絡の"受信"を伝え出した。
無線インカムのイヤホン越しに響く発信音は、緊迫した蛍の鼓膜を震わせる。
しかし、先程までは通信不能に陥っていた端末の回復、今頃蛍を案じているかもしれない仲間からの連絡受信に躊躇を覚えた。
何故ならば、常闇に投映した画面には、「圏外」と依然表示されているからだ。
電波の遮断された空間にて、しかも警察端末へ繋がるはずのない「未登録通知」は、仲間ではない"不審者"からの通信を意味する。
目を疑う不可解な現象に、蛍の背中へ冷たい汗が伝う。
しかし、延々と流れる無機質な発信音は蛍を待ち侘び、急かしているような錯覚と共に蛍はようやく応答を押した。
「……もしもし? こちら櫻井刑事官」
怪しい通信へ応答してから待つこと数秒。
しかし、相手側からの返答はない。
もう一度、こちらから何か言うべきかもしれないと考えたが、蛍の唇は凍りついたように動けなかった。
代わりに早鐘を打ち始めた心臓の音は、蛍の本能的な危機感を奏でているよう。
これ以上先は"危険"だ、と。
「聞こえていますか? どちら様ですか」
「――……」
今度は微かな息遣いを耳朶に感じ取れた。
胸の奥で静かに燃える使命感は、不安と躊躇に凍りかけた心を解かした。
今更ここで引き下がることは、自分が許さない。
顔も正体も見えない相手の沈黙を破りにかかろうと、蛍は冷凛と語りかけるのを止めなかった。
「今すぐ名乗りなさい――さもなければ――」
「蛍――……」
淡雪のように冷え澄んだ声が、蛍の鼓膜を優しく震わせた。
冷静さを取り戻したはずの蛍の心は、大きな波紋で激しく波打った。
耳朶から脳髄まで染み渡るような声は、慈悲と同時に"毒"を孕んだ堕天使の誘いのようだった。
しかし、謎の声の主は、蛍の"夢と記憶"の狭間で幾度と繰り返されたものと同じように響いた。
自分が聞き間違うはずはない。
まさか、通信の向こう側には――。
「――『
かつて昔――蛍が心から敬愛していた優しい義兄の声だった。
***次回へ続く***
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