二日目

Part 1

 朝が、やってきていた。

 光がドアの隣にある小窓から射し込んでいる。その光は、映画のセットの照明のような味気ないものだったが、窪原秀弘にはありがたかった。これでとりあえず悪夢は見ずに済むのだ。


 窪原は、地面に置かれたままになっているジャケットの内ポケットから、ライターを取り出した。最後の夢の中に出てきたライターだった。

 俺はあの女のライターを後生大事に持っていたのか、彼は思う。夢で見た女の顔が浮かんできた。懐かしさのようなものが胸に満ちた。窪原は目を閉じて、女の一瞬の笑顔と二言だけ聞いた声を反芻した。おそらくこの何度も思い浮かべるという行為を、現実の世界でも繰り返してきたのだろう。


 あの女に会いたいと、窪原は思った。俺が現実に戻ることができたら、もう一度会うことができるのだろうか。最後の夢の女は、明らかに初めの女とは違う印象があった。あの女と再会するためだったら、この島の悲惨な生活にも耐えていけるように思えた。この女の事を窪原は、もっと知りたくなった。彼はまたしても涸れている記憶の井戸を覗き込むという無駄な作業に没頭していった……。


 彼はベッドから起き上がった。涸れている井戸は、やはり冷たい常闇があるばかりで、作業は窪原の焦燥を強めるという惨めな結果に終わった。

 窪原は大きな溜め息をついた。体さがしに出掛けることにする。


 昨日から何も食べていないというのに、やはり空腹感は全くなかった。食事をするという楽しみは、この島では与えられていないのだ。


 ドアを開け、朝の空気を確かめるように吸い込みながら、広場へと向かう。


 広場では、三十人ぐらいの人々が、北の方角に向かって歩いていた。昨日、砂浜で見た人々と同じように年齢も性別も様々だ。

 人々はみな肩を落とし、顔が苦悩に歪んでいる。身体を震わせて歩を進める男、涙を流しながら泣き声を押し殺すように歩く女、両腕をだらりと下げて何かに押されているように行く男の子、虚ろな目をした人々の群れ。

 昨夜の夢に打ち負かされ、心を砕かれて北の海に入ることを選ぶことにした人々なのだろうと、窪原は考えた。それは自らを死に追いやるという点で、自殺と同じ行動だった。


 ふと自分もこの死への行進についてゆこうかという衝動に駆られる。いや、まだ早い――彼はそれを即座に否定した。ひょっとしたら、今日にも体の残りの部分が全てそろうかもしれないのだ。体さがしを始めたばかりの窪原には、まだ希望があった。



         *



 希望というものが潰えてから何千何百度目かの朝を、置部慎二郎はベッドの上で迎えていた。


 昨夜の夢は特にひどいものだった。最後に見た夢は、米粒ほどの小さなネズミが口の中に入り込み、歯茎をかじられるという内容だった。置部の場合は、過去の思い出の悪夢が既にネタ切れのような状態で、同じ内容となってインパクトがなくなったために、非現実の悪夢ばかり見せられるのである。

 彼の顔は涙に濡れていた。しかし、ともかくも夜は終わったのだ。


 置部はベッドの上で立ち上がり、天井で揺らいでいる光の消えた膜をつかんだ。それを抱えたまま、片手でベッドの位置をずらす。

 ベッドの下の地面には、置部が通れるぐらいの穴があった。これは彼が長年掛けて、スコップで少しずつ掘ったものだ。


 置部は、いやらしい笑みを浮かべてその穴に入って行った。


 横に二メートルほどのところで行き止まりになっている。穴の中は狭く、置部がうずくまると、あとは僅かな隙間しか残らなかった。小さな土の地下室だった。


 彼は光の膜を離すとポケットから鍵を取り出し、スイッチを押した。光の膜は、のっそりと浮き上がり、横穴の天井に張り付くようにして止まって、穴の中を照らし出した。


 置部の周りに、生首が並んでいた。

 丸顔の若い女、小学生ぐらいの子供、中年の男の頭部が二つ、老人のものが四つ。そして、髪に白いものが混じり、すっかり老けてしまった置部自身の生首……。みな眼を閉じていて、それらはまるでデスマスクのようだ。

 彼は現実の世界で年老いてゆくのを、自らの生首を通して見てきた。この島で掘り出された体は、現実の世界をそのまま反映しているのだった。二十年を超える歳月は、すっかり生首の顔を皺だらけにしていた。


 置部は愉悦の表情を浮かべながら、自分以外の八つの生首を見渡す。どきどきしていた。今朝はどの首が消滅するのだろう。


 老人の首のひとつが、突然すっと消えて無くなってしまった。置部は気がおかしくなったように声を上げて笑った。その老人は今、島の影に入ったのである。

 この島では人が島の影に入るか現実の世界に生還すると、その人の島の方にある体は消滅してしまうのである。そうすることで、この島では人の体でいっぱいになってしまうのを防いでいるのであった。

 彼は笑い続けていた。ばかな奴め。首がここにあるとも知らずに。きっと、どうしても見つからなかったんだろう。若い女の首も消えた。置部はついに腹を抱えて笑いだした。こんなに愉快なことはなかった。他人の頭部を集めることによって、いったい何人の人間を死に追いやってきたことだろう。この愉悦の行為が、彼の長い島の生活を支える力となっているのであった。


 また首を掘りにあの洞窟に行かなきゃな、置部は笑いながら思う。お楽しみが減ってきたからな。早速、今日の夕方にでも行ってみよう。


 置部は皮膜を持って、小穴から出た。

 皮膜を離し、ベッドの位置を元に戻して、家の外に出る。

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