第8話
翌日、悠希が目を覚ますと既に汐音の姿はなかった。
身体を起こそうとしたところで悠希は身体の痛みに顔を引き攣らせた。
変な体勢で寝たせいだろう。
軽く首を回すとポキッと軽快な音が鳴った。
勉強机の上に乗せてある時計に目を移すと、指し示された時刻は7時で悠希のいつもの起床時刻よりだいぶ早い。
いつもなら二度寝する時間だが、もう一度布団に入る気分でもない。
何より睡眠時間としてはいつも以上に時間を取ったので妙に頭が冴えていた。
「起きるか」
ぽつりと呟いて悠希は起床を決意した。
いつもより三十分程早い起床ではあるが、特にいつもと変化はない。
強いて言うなら昨日の夜読めなかった分の本を朝から読むくらいだろうか。
そう考えながら、リビングのドアを開けると、ジュージューという何かが焼ける音と、久しく嗅ぐことのなかった味噌の香りが悠希の聴覚と嗅覚を刺激した。
普段は全く使われていないキッチンには人影がある。
何故か同居することになった柏木汐音だ。
「何してるんだ?」
「見ての通り朝食を作っているのだけれど」
学校で天使と呼ばれる汐音の料理の腕前がどれぐらいだろうかと少し気になってキッチンを覗くと、色鮮やかな料理が目に止まった。
まず、目を引いたのは卵焼き、既に均等に切り分けられた卵焼きの中には細かく切り分けられたニラが入っていて、色彩の見栄えを高めている。
汐音の手にはお玉が握られていて、既に完成している味噌汁を混ぜている。
こちらも悠希が放置していた食材を使ったのだろう。
余り物の人参やジャガイモが使われた見事な豚汁がそこにはあった。
「美味そうだな」
汐音の料理の力量を測ろうとした悠希だったが、圧倒的なクオリティの料理に率直な意見が漏れた。
「ありがとうとだけ言っておくわ」
素っ気なく汐音が悠希の賛辞に謝辞を述べるが表情は少しだけ緩んでいる。
料理の腕を褒められるのは悪い気分ではないらしい。
しばらくすると料理が完成したようで、次々に汐音が作った料理がダイニングテーブルに運ばれる。
それをボーッと突っ立って眺めていた悠希だったが、汐音が席に着いたところで声がかかる。
「矢城君、早く座りなさい」
「俺も食べていいのか?」
「当たり前でしょう、食材はあなたのなんだから」
汐音の言葉に甘えて、悠希は腰を落ち着けた。
汐音と対角の席に。
「何で対角に座ったのかしら」
「いや、昨日話したのが初めてだし、柏木が気まずいかと思って」
「……まあ、いいわ、料理が冷めちゃうからいただきましょう」
手を合わせる汐音に習って悠希も手を合わせる。
何気に久しぶりだ。
「「いただきます」」
二人の声が重なった。
まず、何から手を付けるか。悠希は迷っていた。
目の前には魅力的な料理の数々が並んでいる。
無難に炊き立ての白米に手を付けるか、いや久しぶりの豚汁も捨てがたい、いや、やっぱり卵焼きにしようか。
散々悩みぬいて、悠希が最初に手を付けたのは程よい焼き加減の卵焼きだった。
口の中に運ぶと柔らかい食感の後にニラの風味が香り、後味に醤油だろうかさっぱりとした感覚が通り抜けた。
「美味い!」
思わず、声が出る程、汐音の卵焼きは美味しかった。
汐音が作ったと知れば男子なら例え不味くても美味しいと言うはずだが。
「口にあったならよかったわ」
汐音が悠希の誉め言葉に冷静に返すが、汐音の口元には微笑があって安堵の感情が伺える。
悠希の様子を見ていた汐音もようやく料理に手を伸ばし始めた。
卵焼きに続き豚汁も口にした悠希の感想はやはり、美味いの一言だった。
卵焼きは言わずもがな、豚汁もだしの風味と豚肉の肉汁、味噌の味が絶妙な塩梅で共存していて、文句のつけようがない。
長らく食べていなかった手作りの味に舌鼓を打っていると、汐音がこちらをじっと見つめていた。
「どうかしたか?」
「いえ、ほんとに美味しそうに食べるなと思っただけよ」
「冗談抜きで上手いからな、柏木、ありがとな」
悠希がわざわざ朝早くから料理を作ってくれた汐音に感謝の言葉を贈ると、汐音は肩をぶるりと震わせた。
汐音の目には涙が浮かんでいる。
いきなり涙を浮かべた汐音に悠希は珍しく冷静さを失った。
「ど、どうした?まだ体調が悪かったか?」
「いえ、体調は良好よ、ただ、料理を作って誰かに感謝されたのが嬉しくて」
そう言って汐音がにっこりと微笑む。
普段あまり笑わない汐音が見せた温和な微笑みは普段は静謐な悠希の感情を強く揺さぶるほどの威力を秘めていた。
まじまじと悠希に見つめられた汐音が不思議そうに首を傾げる。
「矢城君?」
汐音が声をかけてきたところで、ようやく悠希は汐音をじっと見つめてしまっていることに気づいた。
「……何でもない」
少し赤くなった耳を隠すように悠希は汐音から顔を逸らした。
ドキドキと心臓が鳴っているのが分かる。
天使様の微笑みに悠希の冷静な思考は完全に奪われていた。
それが無性に恥ずかしくて、いつもより明らかに速い心音をかき消すように悠希は残りの朝食をかき込んだ。
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