第二話 いよいよ訓練開始です!(1)

 息が苦しい。身体が重い。


 ──レンジャー訓練に参加するための適性検査における体力検定。その最後の種目に、あたしは挑んでいた。

 二千メートル走。それだけなら、まぁ、ただそれだけのものなのだけれど。

 両手には、三・五キロの小銃があって、更に言えば、懸垂に土嚢運搬、腕立て、屈み跳躍、立ち泳ぎなどなど……とにかく体力の限界まで動き回ったあとだということもあり、身体が悲鳴を上げているようだった。

(あとちょっと……あとちょっと……!)

 もう少しで、レンジャー訓練に参加できる。もう少しなんだ。あと、一息で!

 その横を。まるで、重さなんて感じさせないような軽やかさで、駆け抜けていった後ろ姿があって。その茶色の目は、ちらりともあたしを見もしなくて。

 その背中を追いかけるように、あたしはぐっと足に、最後の力を込めた。


   ※


「いやー、顔面から転けておいて、それでも合格すんだから。大したもんだよ」

 あたしと同じ部隊から助教──レンジャー学生の教育係──として来た沖野おきの二曹は、にやにやしながら絆創膏を手渡してきた。

「かなりぎりぎりでしたけどぉ……やりましたー」

 受け取った絆創膏を鼻に貼りながら、沖野二曹──もとい、沖野助教と同じようににやにやと顔が笑ってしまうのを自覚する。その額に、「あほ」という声と衝撃が走った。

「なにが、やりましたー、だよ。ようやく玄関口に立てたってだけで、本番はこれからだろうが──レンジャー小牧」

 呼びかけられた途端に、あたしはますます頬がゆるんでしまって。

 レンジャー学生は、お互いそれまでの階級関係なしに、「レンジャー〇〇」と呼び合うことになる。だからこそ、本当にレンジャー学生になれたんだって、実感がわく。

「でも、どうしたんです? 急に、助教から呼び出してくるなんて」

 適性検査が終われば、あとは入校式を迎えるばかりだ。そこから、レンジャー訓練が始まる。そのせいか、学生たちだけでなく助教たちもピリピリとした空気に包まれているのが、肌で感じられる。

「いやー、その。な」

 いつもなら、常にイタズラっぽく目を輝かせている沖野助教が、珍しく困ったような顔をする。あたしはハッとして、「ダメですよ」ときっぱり言った。

「不倫はダメです、ゼッタイ」

「は?」

「沖野助教、最近お子さん生まれたばっかりじゃないですか。それも生まれたとき、立ち合うつもりだったのにできなかったって、訓練中に奥さんから出産の連絡受けて、泣き出したくらいだったんでしょ?」

「……誰だそんなこと言ったのは」

「守秘義務です」

「あの訓練の時ついてきてた衛生って言ったら、田端三曹だな。あの野郎」

 あっさりと見破られてしまい、あたしは慌ててそっぽを向いた。ごめん、田端さん。骨は拾う。

「つか、なんだよ不倫ってーのは。おまえみたいなちんちくりん、悪いがタイプじゃねぇなぁ」

「こっちだって、そんなこと思ってないですよ。沖野助教の奥さん、かなり美人系だって噂ですし。だから、志鷹三曹につないで欲しいのかなって」

「自分のことを冷静に受け止めてるのは立派だけど、ちげぇよアホ」

 再び、額にびしりと衝撃。これがけっこう痛くて、あたしは思わず目をつぶった。

「ちょっと、話すか迷ってたことがあったんだけどな。おまえのアホ面見てたら、どーでも良くなったわ」

「はぁ……」

 珍しく煮え切らない様子だけれど。というか、こういう中途半端なのが一番気になるのだけれど。

「不満」と、顔に書いてあったのかもしれない。沖野助教は、にやりといつものイタズラっぽい目をして笑った。

「おまえはおまえらしく、なにも気にしないで、頭んなか空っぽにして全力だしてけ。それで充分だ」

「それって……あたしのこと、端的にアホって言ってません?」

「おお、なかなか賢いじゃねぇか。さすがレンジャー小牧、優秀、優秀」

 そう、またべしべしとひとの額を叩くと、笑いながら沖野助教は去っていった。なんだか、おかしな話だ。

 ただ、これからいよいよ訓練が始まる前に、同じ部隊から来た助教と、こうして気兼ねなくお喋りできたことは、張りつめそうになる気持ちを、ちょっと楽にしてくれた。

 上がっていた気持ちは──しかし、まだまだ部屋の整理や名札の縫いつけなど、終わっていないことが山ほどあることに気がついた途端、急下降してしまい、あたしは重くなる足にムチ打って、部屋へ駆け戻ることにした。


 部屋の扉を開くと、志鷹三曹が戦闘服に名札を縫いつけているところだった。「ただいまー……」と声をかけると、こちらを見ずに「おかえり」と言う。挨拶を返してくれただけ、たぶん一歩前進だ。

「名札、縫いつけあと何枚残ってる?」

 いそいそと訊ねると、「これで終わり」と志鷹三曹はさらりと答えた。

「えぇっ! 早くないっ? あたし、こういうの苦手なんだよねー。新隊員教育のときも、なんだこの縫い方はーって、べりべりはがされちゃったし」

「じゃあ、今回はそんなことないようにしてね。そうなったら、全員でペナルティだもの」

 手早く玉留めをしながら、志鷹三曹がにこりともしないで言う。その手つきに見惚れ、それから自分の名札の束に視線を落とし、がっくりとした。

「すごいなぁ志鷹三曹は。手先も器用だし、適性検査も危なげなかったもんなぁ。糸川三曹も、志鷹三曹のこと優秀だって褒めてたよ」

「ふぅん。糸川が、ね」

 志鷹三曹はまったく気のない様子で糸の処理をすると、さっさとソーイングセットをしまった。それも、学生みんなで決めた場所にしっかりと。

 あたしは逆に、のろのろと自分のソーイングセットを取り出して、まだ名札を縫いつけていない戦闘服もずるずると引っ張り出した。

「まぁ準備は大変だけど。入校式やったら、いよいよ始まるんだもんねー、訓練。楽しみだなー」

「楽しみ?」

 糸を針に通そうとしているあたしに、怪訝そうな声がとんできた。

「あれだけ地獄、って言われてるのに。随分と呑気ね」

「うーん。怖いのももちろんあるけど。でもやっぱり、楽しみじゃない? このために、ここまで来たんだもん」

 針の小さい穴を、白い糸が震えながら通っていく。ホッとしてその先を引っ張り出そうとすると、今度は「バカじゃないの」という冷たい声が聞こえて、あたしの指先は糸をつかまえ損ねてしまった。針から糸が、するりと抜け落ちる。

「適性検査に受かったからって、そんな浮かれた気分でいたら、すぐに足をすくわれるわよ。糸川三曹だって、前回は途中で原隊に戻されたって、聞いてるでしょ? 糸川三曹、あなたより適性検査の結果、良かったけど」

「あなた立ち泳ぎ、鼻しか出てなかったでしょ」と追い打ちを加えられる。

「えっと……」

 もう一度、針に糸を通そうとするのに、どうにも上手くいかない。いつの間にか指に力が入ってしまっていて、プルプルと震えていた。深く息を吸って、吐き、「よしっ」ともう一度、針と糸とにらめっこする。

「……確かにあたし、他の学生の方々に比べて、足りないとこだらけだとは、思うんだけど。背だって高いわけじゃないし、力だって飛び抜けたものは、ないし。不器用だし。根性だって……大してないし。でも」

 針の穴を再度、頼りない糸がくぐり抜ける。その先を、今度こそ。指先で引っ張り出して。

「足りないからこそ、どうしてもここに来て、訓練したかったんだよね。自分はまだまだやれるんだぞ、もっともっとのびるんだぞ、って。自分に胸はらせてあげたいから。だから苦しくても、望んで踏み入れる地獄だから──やっぱり、楽しみ」

 ようやく糸の通った針を、名札にあてがった。白い布に書かれた「レンジャー小牧」という文字を見て、にやりとしかけて──慌てて表情を引き締める。

「でもでも、だからって訓練前に浮かれるのはダメだよねー。ご教授ありがとうございます。気をつけます!」

 ついつい敬礼をしかけて、また針から糸が抜けそうになって慌てて止める。ふぅ、という溜め息が聞こえて、あたしはまた自分の声が大きくなっていたことに気づいた。

「あの、ごめん。また」

「──変なコ」

 ぽつりと聞こえた言葉に、あたしは「え?」って首を傾げる。

「ど、どのへんが?」

「ほんと、ドMなの? って感じ」

 呆れているのか、首を横に振りながら志鷹三曹が言う。

「いや、まぁSってわけでもないけどー」

「でも」、というあたしの言葉は、志鷹三曹の声とぴったり重なった。思わずその顔を見ると、志鷹三曹の色の薄い目とぴたりと合う。

「そういうの──わりと、好きよ」

 そう言う志鷹三曹は、ふっと微笑みを浮かべていて。その笑顔は、綺麗なんだけど。ちょっと可愛らしさも混ざって、それになんだかあたしは、見惚れてしまって。

「好きって……ど、ドMがっ?」

「違うから」

 あっという間に冷たくなってしまった顔は、そのまま追い討ちをかけるかのように「口よりさっさと手を動かしたら?」と投げかけてきた。あたしは慌てて「はいっ!」と大きな声で返事をし、「うるさい」と怒られながら名札を縫い始める。

 迫る訓練開始に、胸をドキドキとさせながら。

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