断れないスカウト 1
急いで通学カバンを背負い、使っていたイスに手をかけた。
テーブルに入れる前に、ノックの音が響く。
――間に合わなかった。腹をくくり、口を開く。
「……どうぞ」
返事を受けてドアが開いた。入ってきたのは、六十そこそこの女性だ。
「おはよう、純ちゃん」
濃いピンクのスーツに、パーマがかかったボブヘア。大きい宝石のついた装飾品が、耳と首元、指でギラギラと輝いている。派手な装飾品の影響もあり、近寄りがたい異様な雰囲気を放っていた。
純は、この女性の正体を知っている。先ほどの焦りなどなかったかのように、和やかにほほ笑んだ。
「おはようございます、社長。お久しぶりです」
強烈に印象を残す容姿のおかげで、社長は会長と同じくらいに顔が知られている。
幼いころから
「あら、どこか行くところだったの?」
すぐにでも部屋を出ようとしていた純に、社長は不思議そうな表情を向ける。
「……シャーペンの芯がなくなったので、買い足しに行こうかと」
「ああ、勉強してたんだ? そういえば、今年受験なのよね」
社長は足音を響かせながら近づき、純のななめどなりに座る。この状況で、純が無理に部屋を抜けることはできなかった。
社長に合わせるよう、純も続けて腰を下ろす。
「どこの高校を受けるのか、もう決めてるの?」
「具体的にはまだ。でも、できれば上を目指そうと思ってます」
「それはいいわね。純ちゃんは勉強できるタイプみたいだもの。パパと違って」
社長は優しい笑みを浮かべ、口元に宝石だらけの手をあてた。
「パパがあなたと同じくらいの頃は、勉強なんてからっきしって感じだったのにねぇ」
「楽器ばっかり触ってた?」
「そうそう。昔で言うヤンキーだったから、学校にも行かずにギターばっかりだったのよ」
「そのようですね」
話を合わせながら、席を立つタイミングをうかがう。
「……社長は、お忙しいんじゃないですか? 事務所の経営を引き継いだって聞きましたけど」
「ええ、そうよ。想像以上に忙しいわ」
昨年まで事務所を統括していたのは、事務所の創業者である会長だ。今年度から体制が変わり、妻である社長が仕事を引き継いでいる。
会長が敏腕で成功者だっただけに、業界全体で社長の手腕が問われている状況だ。
「わざわざここまでいらっしゃらなくても、あとで父と一緒にご挨拶にうかがいましたのに」
「そうね。でもあなたにどうしても会いたくて、私のほうから来ちゃった」
純は社長の
「……そんなに見られると緊張しちゃうわ。穴が開くどころか、見られたくないとこまで見られてるような気がするんだもの」
「あ、いや、そんなつもりじゃ……」
社長は穏やかな笑みと雰囲気を一切崩さない。しかしその視線から、社長も純を探っていることに気づいた。
「実はね、今年、新しいアイドルグループをデビューさせるつもりなの」
「それはまた……。社長として代替わりしたばかりなのに、早いですね」
今年デビューということは、社長が全権を握る前から準備を進めていたことになる。
綿密に計画を立て、今後の方針も具体的に考えていることだろう。この一発目がうまくいくかどうかで、今後の権威や評価が大きく変わっていく。
「あなたも、会長と同じようなことを言うのね」
ほほ笑む純だったが、返事をしなかった。
「私主導で話を進めてたのに、会長がいきなり、デビューにストップをかけたのよ。早計だって。売れないってわかっててデビューさせるほうが酷だとか言ってたわ。私の汚点にしかならないって」
会長の言い分も一理ある。売り出すにもコストがかかり、売れさせて元を取れなければ意味がない。
これは社長が全権を握ってから一発目の仕事。
『売れない可能性』のほうが大きいのであれば、デビューさせるべきではない。
「でも、私は私自身が目を付けた子たちで結果を出したいのよ。……そうつっぱねたら、会長がデビューさせる条件を出してきたの」
「条件?」
「そう。グループが売れると同時に私の地位を固めるためには、それしかないって」
純は返事ができず、視線を下げた。心臓が、激しく脈を打っている。テーブルの下に隠している手は、指先が震えていた。動揺を社長に気づかれないよう必死だ。
純が今わかっているのは、社長がこのあと続けて出す言葉に、決してうなずいてはならないということだ。この場をどう切り抜けようか、必死に考える。
その姿を、社長がほほ笑みながら見すえていた。
「もう、わかってるんでしょ? 私があなたに、何をしに来たのか」
社長と目を合わせた純は、間抜けなふりをしてほほ笑んだ。
「さあ……昔から察しが悪いもので」
「そう、そのとおり。あなたをスカウトしに来たの。アイドルグループの、八人目として」
純の笑みが引きつる。対して社長の笑みは、余裕たっぷりだ。
「どうせこっちがウソをついて引き寄せようとしても、賢いあなたはうまくかわして逃げるでしょ? だから直接、はっきり言ったほうがいいと思って」
決して広くはない会議室に、社長と二人きり。逃げ場はない。
純が絶対に聞きたくない言葉を、社長はこれ見よがしに放った。
「あなたに、アイドルになってもらうわ」
純の血の気が、引いていく。
「一緒に活動しながら、能力を使ってグループを成功に導いてほしいの。ご両親に、しているみたいに」
返事を聞く気もなく、社長は上を見ながら続ける。
「目標は、そうね。年末の歌番組には当たり前のように呼ばれて、グループの冠番組を全局で担当できるような……そんな国民的アイドルグループよ。少なくとも、あなたのお父さんと同じくらい、有名になってもらいたいわ」
純は社長から目をそらし、両手を振った。
「そんなの、無理です……」
アイドルグループに力を使うのはともかく、アイドルというさまざまな感情を向けられる仕事をこなせるとは思えない。
父親の影響で、芸能界がきらびやかなだけではないことを知っている。
世間からの評価、陰口や暴言、怒鳴り声に耐えられるほどのメンタルを、純は持ち合わせていない。
「俺、レッスン生じゃないし。ダンスも歌もできないし、性格も明るくないから……。アイドルとして一緒に行動しながらっていうのは、絶対に無理です……」
首を振ってまで断っているのに、社長は全然引き下がるようすを見せない。
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