2-3

「良いのかな……本当に、ちょっと弾ける程度だけど」

 数日後、休日の晴れた朝。掲示板の前で、夏紀は戸惑っていた。

 ハルが言っていた通り、ハレノヒカフェは本当にピアノが弾ける人を募集していた。それは一人だけらしく、応募多数の場合は簡単なテストをします、と書いてあった。

 夏紀はそのままカフェには行かず、一旦帰宅した。

 そして、どうしようか迷っている、と明美に打ち明けた。

「へぇ。良いんじゃない? やってみれば?」

 家にいても何も無いんだし、と笑いながら、明美はクローゼットの中を整理していた。夏が近づいているので長袖は片付けて、半袖を出している。

「そんな簡単に言うけど……一人なんだよ?」

「だから良いんじゃないの。何事も挑戦よ」

 それはわかっているけれど。

 はじめの一歩を踏み出す勇気が夏紀には無い。

 やってみようか、やめようかと悩みながら夏紀は自室に戻り、北側の窓を開けた。最初はオカリナの音しか気にならなかったけれど、ピアノ教室の前なのだからピアノの音色が聞こえて当然だ。

(ピアノかぁ……好き、だけど……)

 何となく気になって、夏紀は部屋を出てから居間のピアノの前に座った。何を弾こうか考えて、ベートーヴェンのロンド・ハ長調Op.51-1を選んだ。楽譜のテンポはモデラートを指定しているが、夏紀はそれよりゆっくりとアンダンテで弾くのが好きだった。

 静かに流れるメロディは軽快になり、やがて波に乗って旅に出て、幾多の試練を乗り越えた後に目的地に到着する。考え事や悩み事があるとき、夏紀はいつもロンドを弾いていた。

(カフェ……話だけでも聞いてみようかな。仕事もあるし……)

 ポスターは隅々まで見たけれど、いつ何をするのか、詳しいことは何も書いていなかった。用事の無い休日は行けるけれど、仕事がある日に要請されては困る。

 行ってみようか、とは思ってもなかなか動けないのは夏紀の悪い癖だった。応援してくれる人がもう一人欲しくて、夏紀はさやかに連絡した。彼女は「それじゃいつものとこだね」とハレノヒカフェに行こうとしたので、事情を説明して家に来てもらうことになった。

「何をそんなに躊躇ってるの? 私がピアノ弾けたら絶対行くよ」

 さやかは子供の頃から目立つのが好きで、クラスで劇をするときにはいつもヒロインの役に立候補していた。男の子からも人気があって、年頃になってからは彼氏が絶えなかった記憶がある。結婚式の日はまだ決まっていないけれど、楽しい演出を考えていると聞いた。

「あのカフェ、男の人も多いからさ」

「どういう意味?」

「ピアノ弾いてる夏紀を見て、好きになってくれる人がいるかもしれないじゃない」

 さやかはいつの間にか目を潤ませていた。

 潤むというより──少女漫画でいう、キラキラになっている状態。

「良いなぁ。夏紀のピアノをずっと聴いてたい、って人がいるよ、きっと」

「そうかな……」

「そうに決まってるよ。世界は広いんだからさ」

 さやかは窓を開けて、空を見上げた。身体を少し乗り出していたので、軒先からこぼれた雨水がさやかの頬に落ちた。

「あれ……ねぇ、夏紀、これ何の音?」

 さやかが来たときはピアノの音が響いていたけれど、窓を開ける少し前から、オカリナの音色に変わっていた。さやかは気付いていなかったらしい。

「向かいがピアノ教室で、ピアノの音が無いときにたまに聞こえるよ。誰が吹いてるかは知らないんだけど。先生か奥さんかな」

 へぇ、旦那さんが先生なんだ、と驚くさやかと一緒に、しばらくオカリナの音色を聴いていた。メロディは爽やかな風のように、気温を少し下げた。



♪ベートーベン ロンド・ハ長調Op.51-1

https://youtu.be/-hde6-oAorQ

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