第135話 エリザベート・マルチプル・オブ・マッドネス 中(やや衛生的でない描写アリ)

 夕暮れに似た光線が診察室を照らしていた。エリザベートは室内の中心に位置する診察台に無理やり座らされ、縛り上げられている。


 だが今、エリザベートの意識が向けられているのは、そこではなかった。自分の身に覚えのないはずの、拷問じみた治療。その光景は、エリザベートに強い不快感を与えたが、それ以上に、診察室自体にエリザベートは注目していた。


「ここは……あの診察室だ」


 エリザベートが言った。”ここ”は即ちこの瞬間に見ている目の前の診察室を差し、”あの”と言うのは……エグザミン……オクタコロンが自分に”薬”を与えた、あの幻燈のことだった。


 エリザベートは苦痛と屈辱に歪む自分の顔を見た。その感情が、自分の中に染み入ってくるのも感じた。どれだけの悔しさがあっただろう。先ほどまでの光景を見ているのとは、全く違う。さっき自分で言った通り、ここには”実感”があるのだ。


 エリザベートは吐き気を催してその場にしゃがみこんだ。「大丈夫か?」メアリーが言う。「次に行くぞ」


「待って」エリザベートが掌の隙間から声を出す。だが光景は次の段階に進んでいる。

 エグザミン。診察台の前に立ってエリザベートを見下ろしているのは、まぎれもなくエグザミンである。だが光景のなかでの彼は”エグザミン”ではなく、コーリー・ベネディクトという名前で呼ばれている。


「待てと……」エリザベートは地面に尻をつき、その場に座り込んだ。その間にも背後ではエリザベートに対する”治療”が行われている。「待てと言ったでしょう……」


「ここを乗り越えないと次に行けない。狂気の世界に入り込むには、そうする他ないんだ」


「そうじゃない……!」


「じゃあ、なんだ。そんなところで座り込んでいても意味がない。立って、見るんだ。そうしなければお前の大切な人たちは死んだままだぞ」


「違う。そうじゃない。お前、私を騙してるわね。この場所は、前にも見た! 私の封じられた記憶を見ているだけなら、他の記憶と同様にここだって”実感”はないはず。でもここは違う。教えて。あの”オクタコロン”はなんなの。一体、なにが起こっているの」


 エリザベートはメアリーを怒鳴りつける。不快感がエリザベートを追い込み、その考えに辿り着かせた。


「……気づいたか。思ったより遅かったな」


 メアリーの声がそうやって降ってくる。エリザベートは涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。服の裾で拭き取り、立ち上がる。


「なにを隠してる……! 私になにが起こった」


「お前に起こったことは二つある」メアリーが言う。「一つは、お前が発狂したことだ。ファーメインでの度重なる拷問に加え、お前はここで”邪神”を植え付けられることになる。お前はそれに耐えきれず、廃人となった」


 エリザベートはエグザミンことコーリー・ベネディクトが青いびんを持っているのを見る。中に黒い液体が入っているようだ。


 ベネディクトがびんの蓋を開き、エリザベートの身体に向けて傾けた。中に入っている液体は強い粘性を持っており、なかなか落ちてこない。ようやくびんの口まではじめの雫が降りてきたところで、突然、液体から黒い紐のようなものが現れ、口に張り付いた。


 それを見た途端、エリザベートはその場に吐いた。自分だけではない。光景の中の自分も吐いている。吐しゃ物で窒息しないよう、看護師が器具を使ってエリザベートの口から吐しゃ物を吸い取る。


「あれが”邪神”の塊だ。人の中に寄生してどんどん大きくなる」


 エリザベートはその場に四つん這いになり、さらに吐しゃ物を吐き出した。”光景”が音を立てて消える。


「理性あるものがあれを直接見るとそうなるんだ。そんなものが体の中に入ってるのを想像してみろ。人間の自我なんてすぐ崩壊する。でもお前はその後も暫くは理性を保っていたよ。これは驚異的なことだ。誇ってもいい」


 消えた光景に代わってメアリーが現れる。エリザベートは苦しそうに咳をし、その場に倒れ込んだ。深刻な精神疲労を抱えていた。


「あれが、オクタコロンなの……?」


 メアリーが首を振った。エリザベートは倒れたまま、頷いた。違うと自分でもわかっていたからだ。


「邪神ならもっと強い。あの場にいたお前は比にならないぐらいのダメージを負っていたはずだ。お前はあの時より弱い」


「うるさいな……死ねよ……」


「話しの続きをしよう」メアリーが言う。「お前は二度、遡行した。憶えているな。二度目は、お前の記憶にある。舞踏会の日に落下して起こした遡行……実際には違うが。はじめの遡行は、ここで起きた」


「どういうこと?」


「私はミスをした。あの時はそうは思っていなかったが、今だからわかる。あれはミスだ。状況が切羽詰まっていたのもあったが、廃人となっていたお前を遡行させてしまった」


「つまり私は、廃人のまま一度、過去に戻ったということ……」


「私が修正したい歴史のなかでお前の役割はほとんどない。だからそのままでも問題ないと思った。だがな、実際には違った。はじめは落ち着いていたんだ。なにしろ廃人だからな。ちょっとも動かない。遠くで静養していたよ。その時は空気のいい場所だったな。マルカイツ家の別荘に寝かせられていた。私は自分の目的を達成しようと思った。植え付けられた邪神も、廃人の心では育たないと知っていたんだ。でも甘かった。廃人の意識と、遡行先のお前の意識が混ざって、理性を獲得していた。廃人の一歩手前。狂人だな。気付いたときお前は別荘にいた使用人を全員殺していた。お前について来ていたコンスタンス・ジュードも含めてな。そして邪神もまたお前の心を喰らい、急成長を果たしていた。私はその時間を捨て、お前と邪神を切り離す必要があると悟った」


 メアリーが続ける。


「そこで私は、お前から二周目の記憶を丸まると、ファーメインでの記憶の中から”実感”を切り離し、あとは奥底へ封じ込めた。記憶のその部分は、あとで必要になるかもしれないと考えたからだ。それに”実感”がなければその中の出来事は現実性を持たない。ただの張りぼてだ。新たになにか思うことはあるかもしれないが、想起はしない」


「じゃあ、私があそこに”実感”を抱いたのは……」


「あれはお前だ。エリザベート。切り離した”実感”は、遡行したことでとり残されたエントロピーと結びつき、一つの生命体となった。それがオクタコロン。あの怪物だ」


 オクタコロンはエリザベートの虐げられた記憶そのものだ。あらゆる悪意に晒され、高い自意識に悩まされ、それらに支配されている。故に露悪的かつ加虐的。だがその実その本質は犠牲者なのだ。


 オクタコロンは確かに生命体だが、言ってしまえば実体のないエネルギーの塊に過ぎなかった。それがここに来て姿を持つに至ったのは、恐らく”予言の民”が信仰する実像なき神に取りついたからだ。この時代にある概念を用いて実体化したということだろう。


「もうすぐやつは追いついて来る。お前はやつと決着をつける必要がある」


「決着をつけるったって、どうやって」


「殺すんだ。そして実感を、やつ自信を取り込め。オクタコロンはお前の虐げられた記憶によって存在をつくられたが、同時に二周目の世界すべてのエントロピーを体に刻み込まれている。オクタコロンを解体すれば二周目にあったことをすべて知ることができる」


「でも、そんなことしたら……」精神が再び崩壊し、廃人と化してしまうのではないか?


「方法がある。手を見ろ」


 エリザベートは手の中にごつごつとしたものがあることに気が付いた。開いてみると、それは真っ赤な宝石がつけられた、鎖のないアミュレットだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る